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静かに暮らしたい最強は、どうやら巻き込まれ体質のようです  作者: じゅくすい
第2章

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「…え?」


 静かな森に、間の抜けた声が響く。


 風は吹いている。

 草も揺れている。

 鳥の声も、遠くでかすかに聞こえる。


 ——何も、変わっていない。

 つい数秒前まで、ナギがそこにいたという事実以外は。


「……ナギ?」


 シオンが、名を呼んだ。

 返事はない。


 振り返っただけだ。ほんの一瞬。

 それだけで、人が一人、完全に消滅していた。


「……ナギ」


 今度は、エルドが低く呼ぶ。

 足を止め、周囲を見渡す。

 倒木の影。草むら。木々の間。


 ——どこにもいない。


「……おかしい」


 エルドは、地面にしゃがみ込む。


「足跡がない」


「……え?」


 ミナが小さく息を呑んだ。


「この湿った土なら、多少は跡が残るはずだ。だが……」


 踏み荒らされた形跡がない。

 走った様子も、引きずられた痕もない。

 ナギの足跡は、まるで空へ吸い上げられたかのように、唐突に途切れていた。


 “消えた”。

 そう表現するのが、一番近かった。


「転移……?」


 ミナが、可能性を口にする。


「でも、そんな反応……」


「ないな」


 エルドは即座に否定した。


「転移門や転移術なら、必ず魔力の乱れが残る。空間の歪みによる残滓がな。だが、ここにはそれがない」


 シオンは、言葉を発さなかった。

 ただ、胸の奥に広がる強烈な違和感を、じっと押さえ込んでいた。


(……近くにいる)


 確信に近い感覚。

 気配が途絶えたのではない。何かに“遮断”されている。


「……測定器を」


 シオンの言葉に、ミナは弾かれたように鞄を開いた。


 簡易魔力測定器。

 水晶盤の針は、静かに——だが、異常なほど小刻みに震えている。


「……数値は、範囲内です」


 ミナの声が、少し硬くなる。


「でも……安定していません」


「どういう意味だ?」


「……引っ張られている、感じです」


 ミナは、測定器をゆっくりと水平に回す。

 そして、ある方向へ向けた瞬間。


 カチッ。


 針が大きく振れ、振り切れた。


「……森の奥」


 三人の視線が、同時にそちらへ向く。


 光の届かない、木々の密集した方向。

 地図にない、C区の深淵。


 その瞬間。


 ——ゴウッ。


 風が、変わった。

 吹き抜ける風ではない。

 何かが爆発して押し寄せてくるような、重たい熱風。


『……いるわね』


 ディアナの声が、シオンの意識に直接触れる。

 いつもとは違う、明確な緊張感。


『これは……精霊の魔力よ。魔物じゃないわ。しかも、かなり荒い』


「……精霊?」


 シオンが、低く呟く。


『ええ。制御されていない。感情も、意思も——ぐちゃぐちゃ』


 エルドも、同時に異変を察していた。

 大剣の柄を握る手に力がこもる。


「……これは、C区の範疇じゃない」


 短く、断言する。


「ミナ!」


「は、はい!」


「拠点に戻れ。これは報告案件だ」


「で、でも……!」


「早い方がいい」


 エルドの視線は、森の奥から離れない。


「相手が精霊なら、学院としても想定外の可能性もある。教師に伝えて応援を呼べ」


 ミナは、唇を噛む。

 だが、自分の足では足手まといになると理解していた。


「……分かりました。すぐ戻ります」


「俺とシオンで、発生源を確認する。確認ができたら同じ道で戻る」


「無理は、しないでください」


 ミナはそう言い残し、測定器を握りしめたまま、来た道を駆け出していった。


 残されたのは、二人。

 そして——

 森の奥から、確実に大きくなる“何か”。


 シオンは、ゆっくりと息を吐いた。


(ナギ……)


 名を呼んでも、返事はない。

 代わりに、荒れ狂う風の唸り声だけが、答えるように木々を揺らしていた。


「行くぞ」


「ああ」


 エルドの合図に合わせて、二人は風の源へと走り出した。



 空気が、歪んでいた。


 遺跡の森の奥、かつて地下実験施設として使われていた空間。

 石壁に囲まれたその場所では今、風が“流れて”いなかった。


 渦だ。

 方向も規則も持たない、暴力的な魔力の回転。


 床に描かれた複雑な術式は半ば崩壊し、光の線が不規則に明滅している。

 精霊を拘束するための装置は、すでにひしゃげて意味を成していなかった。


 中心にあるのは、ひとつの存在。


 ——中級風精霊・ピュール。


 本来であれば、人の傍らに寄り添う程度の愛らしい中位精霊。

 だが今、その輪郭は常識を逸脱していた。


 形が定まらない。

 風の塊であるはずのそれは、膨張と収縮を繰り返し、時折、人型にも獣型にも見える歪なシルエットを描く。


 魔力が、溢れている。

 制御されていない。契約による抑制も、意思の統制もない。


 ——暴走。

 否、それよりも一段階深い。

 

 変質。


 王級精霊に近い密度の魔力が、空間そのものを侵食し始めていた。


「……予想より、早いな」


 白衣の男が、少し離れた位置からそれを観測していた。

 声に焦りはない。むしろ、淡々としている。

 床に散乱する計測装置の数値を一瞥し、男は静かに息を吐いた。


「条件は揃えていた。血統、精神耐性、精霊適性……。それでも、この結果か」


 視線が、暴走する精霊の奥へ向けられる。

 そこには、もう一人の存在があった。


 少女。

 ナギ・ハイデンシュローム。


 身体は拘束されたままだが、意識は完全に覚醒している。

 荒れ狂う魔力の中心で、彼女だけが必死に声を張り上げていた。


「ピュール……ッ!!」


 声は、風に掻き消される。

 だが、確かに届いていた。


 ピュールの魔力が、一瞬だけ“揺らいだ”。

 怒りでも恐怖でもない。

 混濁した感情の奥で、かすかな“反応”が生まれる。


 ——呼ばれている。

 それだけは、精霊自身にも分かっていた。


 しかし。

 次の瞬間、魔力がさらに跳ね上がる。

 理性が追いつかない。膨大な力に、意思が押し潰されていく。


 キィィィィンッ!


 風が、悲鳴のような金切り声を上げて空間を裂いた。

 壁が削れ、天井に亀裂が走る。


 王級精霊に近づきつつある存在が、未完成なまま“目覚めかけている”。


 白衣の男は、その様子を見て小さく頷いた。


「……なるほど」


 感心すら含んだ声音。


「これほどの素材を使っても、完璧とはいかないか。仕方ない」


 男は、ゆっくりと踵を返す。

 ここで続行する意味はない。実験は失敗だ。

 だが、無駄ではない。


「王級精霊化の兆候は確認できた。契約を介さず、精霊単体をここまで引き上げられるとは……」


 撤退判断としては、十分すぎる成果だった。

 男は指を鳴らす。

 その合図と同時に、施設の奥に設置されていた転移装置が起動する。


 不安定な魔力環境の中で、強引に空間を捻じ曲げる術式。

 長居すれば、この崩壊に巻き込まれる。


 男は最後に一度だけとでもいうように、暴走する精霊と少女を見た。


「安心したまえ、ナギ・ハイデンシュローム」


 聞こえるはずのない距離で、そう告げる。


「君は“失敗作”ではない。むしろ――次に進むための、最高の観測点だ」


 その言葉を最後に、男の姿は光に包まれて消えた。


 残されたのは、制御を失った精霊と、叫び続ける少女。


「ピュール……やめて……!」


 ナギの声に、再び一瞬だけ魔力が緩む。

 だが、もう戻れない。

 力は臨界を超えていた。


 ドォォォォンッ!


 暴走した風が、遺跡全体へと溢れ出す。

 C区とは思えない、圧倒的な魔力の奔流。


 ――その異変は、遠く離れた場所にいる者たちにも、確実に届き始めていた。

 

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