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「…え?」
静かな森に、間の抜けた声が響く。
風は吹いている。
草も揺れている。
鳥の声も、遠くでかすかに聞こえる。
——何も、変わっていない。
つい数秒前まで、ナギがそこにいたという事実以外は。
「……ナギ?」
シオンが、名を呼んだ。
返事はない。
振り返っただけだ。ほんの一瞬。
それだけで、人が一人、完全に消滅していた。
「……ナギ」
今度は、エルドが低く呼ぶ。
足を止め、周囲を見渡す。
倒木の影。草むら。木々の間。
——どこにもいない。
「……おかしい」
エルドは、地面にしゃがみ込む。
「足跡がない」
「……え?」
ミナが小さく息を呑んだ。
「この湿った土なら、多少は跡が残るはずだ。だが……」
踏み荒らされた形跡がない。
走った様子も、引きずられた痕もない。
ナギの足跡は、まるで空へ吸い上げられたかのように、唐突に途切れていた。
“消えた”。
そう表現するのが、一番近かった。
「転移……?」
ミナが、可能性を口にする。
「でも、そんな反応……」
「ないな」
エルドは即座に否定した。
「転移門や転移術なら、必ず魔力の乱れが残る。空間の歪みによる残滓がな。だが、ここにはそれがない」
シオンは、言葉を発さなかった。
ただ、胸の奥に広がる強烈な違和感を、じっと押さえ込んでいた。
(……近くにいる)
確信に近い感覚。
気配が途絶えたのではない。何かに“遮断”されている。
「……測定器を」
シオンの言葉に、ミナは弾かれたように鞄を開いた。
簡易魔力測定器。
水晶盤の針は、静かに——だが、異常なほど小刻みに震えている。
「……数値は、範囲内です」
ミナの声が、少し硬くなる。
「でも……安定していません」
「どういう意味だ?」
「……引っ張られている、感じです」
ミナは、測定器をゆっくりと水平に回す。
そして、ある方向へ向けた瞬間。
カチッ。
針が大きく振れ、振り切れた。
「……森の奥」
三人の視線が、同時にそちらへ向く。
光の届かない、木々の密集した方向。
地図にない、C区の深淵。
その瞬間。
——ゴウッ。
風が、変わった。
吹き抜ける風ではない。
何かが爆発して押し寄せてくるような、重たい熱風。
『……いるわね』
ディアナの声が、シオンの意識に直接触れる。
いつもとは違う、明確な緊張感。
『これは……精霊の魔力よ。魔物じゃないわ。しかも、かなり荒い』
「……精霊?」
シオンが、低く呟く。
『ええ。制御されていない。感情も、意思も——ぐちゃぐちゃ』
エルドも、同時に異変を察していた。
大剣の柄を握る手に力がこもる。
「……これは、C区の範疇じゃない」
短く、断言する。
「ミナ!」
「は、はい!」
「拠点に戻れ。これは報告案件だ」
「で、でも……!」
「早い方がいい」
エルドの視線は、森の奥から離れない。
「相手が精霊なら、学院としても想定外の可能性もある。教師に伝えて応援を呼べ」
ミナは、唇を噛む。
だが、自分の足では足手まといになると理解していた。
「……分かりました。すぐ戻ります」
「俺とシオンで、発生源を確認する。確認ができたら同じ道で戻る」
「無理は、しないでください」
ミナはそう言い残し、測定器を握りしめたまま、来た道を駆け出していった。
残されたのは、二人。
そして——
森の奥から、確実に大きくなる“何か”。
シオンは、ゆっくりと息を吐いた。
(ナギ……)
名を呼んでも、返事はない。
代わりに、荒れ狂う風の唸り声だけが、答えるように木々を揺らしていた。
「行くぞ」
「ああ」
エルドの合図に合わせて、二人は風の源へと走り出した。
◆
空気が、歪んでいた。
遺跡の森の奥、かつて地下実験施設として使われていた空間。
石壁に囲まれたその場所では今、風が“流れて”いなかった。
渦だ。
方向も規則も持たない、暴力的な魔力の回転。
床に描かれた複雑な術式は半ば崩壊し、光の線が不規則に明滅している。
精霊を拘束するための装置は、すでにひしゃげて意味を成していなかった。
中心にあるのは、ひとつの存在。
——中級風精霊・ピュール。
本来であれば、人の傍らに寄り添う程度の愛らしい中位精霊。
だが今、その輪郭は常識を逸脱していた。
形が定まらない。
風の塊であるはずのそれは、膨張と収縮を繰り返し、時折、人型にも獣型にも見える歪なシルエットを描く。
魔力が、溢れている。
制御されていない。契約による抑制も、意思の統制もない。
——暴走。
否、それよりも一段階深い。
変質。
王級精霊に近い密度の魔力が、空間そのものを侵食し始めていた。
「……予想より、早いな」
白衣の男が、少し離れた位置からそれを観測していた。
声に焦りはない。むしろ、淡々としている。
床に散乱する計測装置の数値を一瞥し、男は静かに息を吐いた。
「条件は揃えていた。血統、精神耐性、精霊適性……。それでも、この結果か」
視線が、暴走する精霊の奥へ向けられる。
そこには、もう一人の存在があった。
少女。
ナギ・ハイデンシュローム。
身体は拘束されたままだが、意識は完全に覚醒している。
荒れ狂う魔力の中心で、彼女だけが必死に声を張り上げていた。
「ピュール……ッ!!」
声は、風に掻き消される。
だが、確かに届いていた。
ピュールの魔力が、一瞬だけ“揺らいだ”。
怒りでも恐怖でもない。
混濁した感情の奥で、かすかな“反応”が生まれる。
——呼ばれている。
それだけは、精霊自身にも分かっていた。
しかし。
次の瞬間、魔力がさらに跳ね上がる。
理性が追いつかない。膨大な力に、意思が押し潰されていく。
キィィィィンッ!
風が、悲鳴のような金切り声を上げて空間を裂いた。
壁が削れ、天井に亀裂が走る。
王級精霊に近づきつつある存在が、未完成なまま“目覚めかけている”。
白衣の男は、その様子を見て小さく頷いた。
「……なるほど」
感心すら含んだ声音。
「これほどの素材を使っても、完璧とはいかないか。仕方ない」
男は、ゆっくりと踵を返す。
ここで続行する意味はない。実験は失敗だ。
だが、無駄ではない。
「王級精霊化の兆候は確認できた。契約を介さず、精霊単体をここまで引き上げられるとは……」
撤退判断としては、十分すぎる成果だった。
男は指を鳴らす。
その合図と同時に、施設の奥に設置されていた転移装置が起動する。
不安定な魔力環境の中で、強引に空間を捻じ曲げる術式。
長居すれば、この崩壊に巻き込まれる。
男は最後に一度だけとでもいうように、暴走する精霊と少女を見た。
「安心したまえ、ナギ・ハイデンシュローム」
聞こえるはずのない距離で、そう告げる。
「君は“失敗作”ではない。むしろ――次に進むための、最高の観測点だ」
その言葉を最後に、男の姿は光に包まれて消えた。
残されたのは、制御を失った精霊と、叫び続ける少女。
「ピュール……やめて……!」
ナギの声に、再び一瞬だけ魔力が緩む。
だが、もう戻れない。
力は臨界を超えていた。
ドォォォォンッ!
暴走した風が、遺跡全体へと溢れ出す。
C区とは思えない、圧倒的な魔力の奔流。
――その異変は、遠く離れた場所にいる者たちにも、確実に届き始めていた。




