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ジヴリィの言葉と共に、透明な球体が、今度は内側から外側へと、ゆっくりと膨張を始めた。
それは防御ではなく、世界そのものを押し出す「制圧」だった。
この時点ですでに、大勢は決していた。
膨張する透明な球体は、二十体の狂化精霊たちを容赦なく外側へと押しやっていく。
「ガァァァァァッ!?」
狼たちが抗おうと爪を立て、暴風のブレスを吐き出すが、すべては透明な膜に吸い込まれ、無力化される。
ジヴリィの瞳が、ルビーの輝きを増した。
『我が王の御前である。塵芥は、ただ静かに消え去るが良い』
ジヴリィが短く前足を鳴らす。
トン、と。
可愛らしいその仕草とは裏腹に、発動した事象は慈悲の欠片もなかった。
前室の石壁、床、そして崩れかけた天井。
そのすべての表面を、ジヴリィの純白の光が薄く覆い尽くした。
遺跡を保護するための、強固な「守護結界」。
シオンの「この場所を無傷で終わらせてくれ」というオーダーを、彼女は完璧に実行したのだ。
結果として、狂化精霊たちは、内側から膨張する球体と、外側を覆う絶対の防壁との間に挟まれることになった。
逃げ場はない。
「ギ、ギギギギギギッ……!!」
物理的な圧縮。
いや、存在そのものが「空間」にすり潰されていく。
暴風が悲鳴を上げ、黒いモヤが濃縮され、もがき苦しむ。
だが、その音すらもジヴリィの結界に遮断され、外には一切漏れない。
シュナは、その光景をただ黙って見つめていた。
「守護」の力を使った、絶対的な圧殺。
相手を傷つける剣ではなく、相手の存在できる空間そのものを「0」にする盾。
魔法ではない。魔術の理屈でもない。
ただ、そのように世界を書き換えているだけ。
パチン、パチン、パチン。
二十体の王級に迫る魔力の塊が、次々と泡のように弾け、光の塵となって消滅していく。
断末魔すらない。
ほんの数十秒の間に、前室を埋め尽くしていたどす黒い狂気は、文字通り跡形もなく「掃除」された。
『――不浄の払拭、完了いたしました。我が王』
ジヴリィが空中でくるりと反転し、ふわりとシオンの足元へ降り立った。
先ほどの絶対的な威圧感はどこへやら。
彼女は長い耳をパタパタと揺らし、紅い瞳でシオンをジッと見上げる。
その鼻先が、シオンの足首にすりすりと擦り寄った。
「褒めてほしい」と全身で主張する、ただの愛らしい兎の姿がそこにあった。
「……ああ。完璧だ。助かったよ、ジヴリィ」
シオンは大きく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
しゃがみ込み、ジヴリィの純白の毛並みを撫でようと手を伸ばす。
『シャァァァァァァッ!!』
その手が兎の頭に触れる直前。
シオンの影から、凄まじい殺気を伴った黒い影が飛び出した。
ディアナだ。
『気安くシオンの手に触れようなどと……! 泥棒兎が、分を弁えなさい!』
『……なんだと?貴様こそ、王に対して不遜すぎるのではないか?』
猫と兎が、シオンの足元でバチバチと火花を散らす。
ディアナの金色の瞳と、ジヴリィの紅い瞳。
互いに一歩も譲らない。
絶対的な力を持つ存在同士の、次元の低い縄張り争い。
「……おい、やめろ。せっかく綺麗に終われそうなのに壊れる」
シオンは頭を抱えた。
先ほどまでの絶望的な死闘の緊張感は、すでに微塵も残っていない。
ただ、物理的な胃の痛みだけが、シオンの腹の底で重く自己主張していた。
一方。
狂化精霊という最強の手札をすべて失った仮面の男は、石壁の隅で力なく痙攣していた。
「あ……あぁ……」
その姿は、凄惨だった。
無理な魔力拡張と、二十体もの精霊を自滅覚悟で使役した代償。
さらに、それらすべてが強制的に「消去」されたことによる、魂への絶大なバックラッシュ。
男の体表を覆っていたどす黒い泥が、今度は男自身の肉体を喰らい始めていた。
「……私の……悲願……が……」
ブクブクと音を立てて、男の体が崩れていく。
組織の秘密を守るための呪いか、あるいは単純に禁忌の術の代償か。
血肉が泥に変わり、骨が砂のように崩れ落ちる。
「……自壊、か」
シオンは足元で睨み合う猫と兎を放置し、男の最期を冷ややかな目で見下ろした。
どちらにせよ、男に助かる見込みはない。
「……」
シュナもまた、無言でその光景を見つめていた。
助ける義理はない。
彼がアーデルハイト公国で何をしたのか、そしてナギに何をしたのか。
それを考えれば、あまりにも呆気なく、惨めな最期だった。
「ア……ァ……」
男の喉から、最後に空気が漏れるような音が鳴り――。
ドサリ、と。
泥と化した肉体が完全に崩壊し、塵となって石畳の上に散らばった。
後に残ったのは、焦げた白衣の切れ端と、男が顔につけていた奇妙な意匠の『仮面』の破片だけだった。
静寂が、前室に完全に戻ってきた。
狂気も、魔力も、殺意も、すべてが消え去った。
ただ、古びた石の匂いと、ひんやりとした地下の空気だけがそこにある。
シオンはゆっくりと歩み寄り、足先に転がった仮面の破片を見下ろした。
拾い上げる気にはなれない。
組織の証拠になるかもしれないが、そんなものを持ち帰れば、それこそエリナからさらなる面倒事を押し付けられるのは目に見えている。
(……これで、本当に終わりだ)
シオンは大きく、重い溜息を吐き出した。
予定外の力まで使う羽目になったが、結果として、祭祀区の異常は誰にも知られずに処理された。
遺跡に傷一つついていない。
男の痕跡も、あの仮面の破片以外には残っていない。
完璧な隠蔽。
平穏な日常への、最低限のラインは守られたはずだ。
シオンは、無言のまま踵を返した。
背後には、シュナが立っている。
白銀の髪。ガラス玉のような瞳。
彼女は、崩れ落ちた男の残骸を一瞥した後、真っ直ぐにシオンを見つめていた。
言葉はない。
シオンも、何も言わない。
「お前は何も見なかった。僕も何もしていない」
そんな都合のいい言い訳が通用する相手ではないことは、分かっている。
彼女は、シオンの力の底知れなさを、そしてその異常性を、誰よりも間近で見てしまったのだから。
だが、シュナは問い詰めなかった。
シオンのことも、あの白い兎のことも、一切口に出さない。
ただ、静かに、そして確かに。
「私はあなたを知っている」という事実だけを、その視線に込めていた。
(……厄介なことになったな)
シオンは内心で毒づきながらも、歩みを止めない。
薄暗い通路へと向かうシオンの背中を、シュナはただ静かに見送っていた。
王都の空の下では、精霊大祭の熱狂がまだ続いている。
しかし、今この空間だけは、この重苦しい沈黙だけが、二人の間を繋いでいた。




