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(……これで終わってくれればいいんだが)
シオンは、心底うんざりした顔で小さくため息を吐き、ポケットに両手を突っ込んだまま、仮面の男へと視線を落とした。
男は床に這いつくばり、「くそ! くそくそくそくそくそくそ!!!」と子供のように地面を叩き続けている。
半壊した仮面の奥から血の涙を流し、その姿には先ほどまでの研究者気取りの余裕など微塵も残っていなかった。
五体の分身を完全に破壊され、強制的な魔力拡張の反動が彼の精神と肉体を蝕んでいるのは明らかだ。
これで終わりだろう。
シオンも、そしてシュナもそう判断した。
だが、シオンの嫌な予感は、こういう時に限ってやたらと的中する。
「……認めない……私の、私の悲願が……こんなところで……!」
男のギリリと歯を食いしばる音が、不気味に響く。
さらには男の胸元――先ほど開けたはずの小瓶から異常な音が鳴り始めた。
「……嘘」
シュナの口から、初めて動揺を含んだ声が漏れた。
男の身体が、風船のように異様に膨張し始めたのだ。
いや、違う。男の肉体を突き破り、限界まで圧縮されていた『どす黒い魔力の泥』が、間欠泉のように噴き出している。
術者自身の命を完全に燃料へと変換し、使役する精霊の出力を無限に引き上げる、自滅すら超えた暴走。
「アァァァァァァァッ!! アァハハハハハハハッ!!」
男の口から、もはや言葉の形を成さない狂笑が血泡と共に噴き出す。
男の網膜は完全に焼き切れ、皮膚は黒く変色し、ただの魔力の噴出口と成り果てた。
そして、その代償として生み出された「結果」は、地下の前室を真の地獄へと変貌させた。
噴き出した泥のような魔力が、次々と形を成していく。
一つ、二つ、三つ――十、十五、二十。
およそ二十体。
王級に迫る出力を持った狂気の狼が、狭い地下空間を埋め尽くすように顕現した。
一体だけでも並の上級生なら消し飛ぶほどの暴風と質量。それが二十体。
呼吸をすることすら困難なほどの気圧の変化が起き、前室の石壁が悲鳴を上げてピキピキと亀裂を走らせる。
「殺セ……! コノ場ニイル、全テヲォォォッ!!」
男の最期の絶叫。
それを合図に、二十体の黒い狼が一斉に牙を剥いた。
ゴオォォォォォォォォォォッ!!!!
音という概念すら破壊するような、暴風の壁。
上、下、右、左。あらゆる死角からの飽和攻撃。
シュナは即座に両手を前に突き出し、自身の全魔力を解放した。
「アリューシア! 」
シュナの足元から、数メートルもの厚みを持つ巨大な氷の城壁が隆起し、彼女とシオンをドーム状に包み込む。
シュナの持つ最大の防御魔術。
どんな物理攻撃も魔力も通さない、絶対零度の要塞。
だが、今回ばかりは相手の「数」が異常すぎた。
氷壁に、次々と黒い質量弾が叩きつけられる。
一体を防いでも、間髪入れずに二体目、三体目が同じ箇所に激突する。
さらに、分身体たちはただ突進してくるだけではない。周囲の空気を超圧縮し、真空の刃を伴った竜巻を無数に発生させ、氷壁を文字通り「削り」にきていた。
「くっ……!」
シュナが、苦悶の表情で唇を噛む。
氷壁の内側から魔力を注ぎ込み、削られた端から瞬時に修復していくが、破壊のスピードが修復をわずかに上回っている。
少しもしないうちに、分厚い氷の壁に亀裂が走り始めた。
シュナの額から、大粒の汗が流れ落ちる。
いつもの涼しげな『氷の魔女』の余裕は、そこにはなかった。
二十体もの暴風が狭い地下空間で荒れ狂うことで、前室内の魔力と酸素が急激に失われていたのだ。
呼吸が苦しい。魔力の循環が鈍る。
環境そのものが、シュナを窒息させようとしていた。
「ハァッ……ハァッ……!」
シュナの膝が、わずかに震える。
押し切られるのは時間の問題だった。
城壁が砕ければ、中にいる自分たちは一瞬で肉片一つ残さずミンチにされる。
逃げ場はない。
(このままじゃ……!)
シュナが自身の限界を悟りかけた、その時だった。
「……おい、もういい。ちょっと退がれ」
背後から、ひどく間の抜けた、ため息混じりの声が聞こえた。
「え……?」
シュナが振り返ると、少し面倒くさそうな仕草を見せるシオンの姿があった。
恐怖に怯えるでもなく、絶望するでもない。
ただ、日常の延長のような顔。
「退がれない。この結界が破られたら一瞬で押し潰される」
「そんなの分かってるよ。だけど、もう厳しいだろ?耐えてるだけじゃジリ貧だ」
シオンは、強引にシュナの肩を掴むと、彼女を自分の背後へと引き寄せた。
(……おいおい。このままだと、この遺跡ごと上の祭祀区まで吹き飛ぶぞ)
シオンの懸念は、自身の命よりも、むしろ「その先」にあった。
王級二十体分の魔力暴走。
これが地上に漏れ出せば、間違いなく大パニックになる。ナギやエルドたちも巻き込まれるかもしれないし、何より「学院の1年生がそんな事件の中心にいた」となれば、平穏な日常など完全に消え去ってしまう。
『私が全部、綺麗に消し去ってあげようか? シオン』
足元の影から、ディアナが甘い声で提案してくる。
シオンは即座に首を横に振った。
「お前だと派手すぎるし、攻撃的すぎる。この場は『防ぐ』のが先決だ。それに、これ以上の被害拡大は面倒の極みだからな」
『……ふん。つまらないの』
ディアナが不満げに影の奥へ引っ込むのを尻目に、シオンは迫り来る黒い暴風と、ひび割れる氷壁を見据えた。
パリィィィンッ!!
ついに、シュナの絶対防壁が砕け散る。
殺意に満ちた二十体の狼が、剥き出しになったシオンたちへ向けて一斉に飛びかかってきた。
シュナが悲鳴のような声を上げる。
だが、シオンは全く動じなかった。
ただ、静かにその名を呼んだ。
「――ジヴリィ」
シオンの足元から、ふわりと、純白の光の粒子が舞い上がった。
ディアナの金色とも、ラジアの鋭い光とも違う。
それは、どこまでも柔らかく、温かく、そして絶対に侵すことのできない「聖域」の光。
光の粒子がシオンの腕の中に収束し、一つのシルエットを形成する。
現れたのは、真っ白な毛並みと、ルビーのように紅く澄んだ瞳を持つ、一匹の『兎』だった。
シオンの腕の中でちょこんと丸まったその兎は、狂風が吹き荒れる地獄のような空間にあって、まるでそこだけが陽だまりであるかのような、圧倒的な「静寂」と「安心感」を放っていた。
『――お呼びでしょうか、我が王』
兎の口は動いていない。
だが、その場にいるシオンとシュナの脳内に、凛とした、ひどく真面目で威厳のある女性の声が響き渡った。
「ああ。悪いな、ジヴリィ。急な呼び出して」
『滅相もございません。我が王の危機に馳せ参じるは、我らの責務。そして、私にとってなによりの喜び。』
ジヴリィと呼ばれた兎は、シオンの腕の中からふわりと宙へ浮かび上がった。
長い耳がピンと立ち、紅い瞳が、殺到する二十体の狂化精霊を見据える。
「注文が多いが、あの暴風を完全に遮断してくれ。一滴の魔力も、音も、衝撃も、この部屋の外に漏らすな。この場所をとにかく無傷で終わらせてくれ」
『御意。王の望むままに、完全なる【守護】を』
ジヴリィが、低く体制を保つ。
「ガアァァァァァァッ!!」
最前列の狼が、シオンの喉元に噛みつこうと大口を開けた、まさにその瞬間だった。
神聖な鐘の音のような、高く澄んだ音が鳴り響いた。
シュナは、自分の目を疑った。
シオンとジヴリィを中心にして、半径数メートルの空間に、透明な「球体」が展開されたのだ。
魔力で編まれた障壁ではない。
空間そのものを切り取り、別の次元へと隔離したかのような、絶対的な断絶。
ズガァァァァァァンッ!!!!
ドゴォォォォォォンッ!!!!
二十体の狼が放つ王級クラスの質量弾が、次々と透明な球体に激突する。
だが、ヒビ一つ入らない。
それどころか、激突した瞬間に、風の魔力も、衝撃波も、轟音すらもが、球体の表面で波紋のように吸収され、無に帰していく。
「……な、に……これ……」
シュナが、呆然と呟く。
先ほどまで自分の氷壁を削り取っていた絶望的な暴力が、目の前で、まるで水風船にぶつかる雨粒のように、何の脅威もなく弾け飛んでいる。
『愚か哀しき獣たちよ。この絶対の城塞を、力押しで破れるとでも思ったか』
ジヴリィの威厳ある声が、静かに響く。
「……ありえない……私の魔術を……私達の傑作を……ただあの程度の障壁で……!」
すでに原型を保っていない仮面の男は、血反吐を吐きながら絶望に顔を歪める。
「……」
シオンが、透明な球体の内側から、冷ややかな目で見下ろした。
彼の傍らで、白い兎が紅い瞳を細める。
『控えよ、下郎。我が王の平穏を脅かす大罪、その身で贖うが良い』
ジヴリィの言葉と共に、透明な球体が、今度は内側から外側へと、ゆっくりと膨張を始めた。
「……あ」
それは防御ではなく、世界そのものを押し出す「制圧」だった。
この時点ですでに、大勢は決していたのである。




