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「ここで『処理』していくしかありませんね」
仮面の男から、どす黒い魔力が噴き出した。
それは、明確な殺意と、高度に訓練された戦闘者の気配。
祭祀区の地下前室。冷え切った空気が、さらに一段階重くなる。
シオンは、深く、深くため息を吐いた。
「……だから、面倒くさいって言ったんだ」
シオンのボヤきを合図にしたかのように、男が動いた。
速い。
前傾姿勢からの爆発的な踏み込み。石畳が砕け、男の姿がブレる。
男の全身を、異常な密度の風が覆っていた。
ただの身体強化ではない。風の魔力を肉体に循環させ、限界を超えた速度と破壊力を生み出す高等技術。
男の腕が振るわれる。
放たれたのは、不可視の風刃。
だが、その質量と鋭さは、学院の上級生たちが見せるものとは比較にならなかった。
ヒュンッ、という風切り音ではない。
空間そのものが悲鳴を上げるような、鼓膜を劈く破砕音。
「王級」に迫る出力。
それが、雨あられとシオンとシュナへ向かって殺到する。
直撃すれば、肉体ごと両断される。
回避する隙間もない、完全な面制圧。
――だが。
「……アリューシア」
シュナが、小さく呟いた。
彼女は一歩も動かない。
白魚のような指先を、ただ静かに持ち上げただけ。
魔力の予備動作もない。
詠唱も、陣の展開もない。
ただ、彼女がそこに「在る」という事実だけが、世界に命令を下す。
ピキッ、と。
硬質な音が、一つだけ鳴った。
次の瞬間、迫り来ていた無数の風刃が、空中で完全に「停止」した。
「……は?」
仮面の男の口から、間の抜けた声が漏れる。
風が凍っている。
形のないエネルギー体であるはずの風の刃が、シュナから数メートルの距離で、まるで透明なガラスに縫い付けられたかのように静止していた。
そして。
パリンッ。
薄氷が割れるような涼やかな音と共に、固定されていた風刃が細かな氷の塵となって霧散する。
防いだのではない。
相殺したわけでもない。
運動エネルギーそのものを「凍結」させ、世界の理から削ぎ落としたのだ。
「……信じられん。魔術の構成ごと凍らせただと?」
男の額に、脂汗が滲む。
彼が放ったのは、紛れもなく必殺の連撃だった。
それを、瞬き一つせずに無に帰された。
絶対零度の静寂。
彼女の周囲だけ、温度も、時間も、物理法則すらもが異なっていた。
『氷の魔女』。
その二つ名が、ただの比喩ではないことを証明する、圧倒的な「格」の提示。
「……」
「……」
男が戦慄し、シュナが冷ややかな視線を向ける。
張り詰めた、一触即発の空気。
そんな中、シオンは――。
ズリッ、ズリッ。
シュナの背後で、一切の気配を消し、カニ歩きでじりじりと後退していた。
(よし。こいつが相手のヘイトを完全に買ってる。今のうちに……)
シオンの狙いは明確だった。
この場はシュナに任せる。
どう見ても彼女の方がやる気だし、実力も申し分ない。
自分がここにいて、変に魔力を使ったり、男に「あいつもヤバい」と認識されたりするのは、平穏な一般生徒を志す身としては絶対に避けねばならない事態だ。
(頑張れ、氷の魔女。君ならやれる。僕の分まで……!)
心の中で熱いエールを送りながら、シオンは出口へ向かって忍び足を続ける。
このまま闇に紛れてフェードアウトし、宿舎のベッドに潜り込む。完璧な作戦だ。
ツッコミ役のナギやエルドがいない今、彼を止める者は誰もいない。
そう確信し、薄暗い通路へと踵を返そうとした、その時。
「……どこへ行くつもり?」
氷点下の声が、シオンの背中を突き刺した。
ピタリ、とシオンの足が止まる。
振り返ると、シュナが顔だけをこちらに向け、ジト目を送っていた。
その瞳は、「私に押し付けて逃げる気?」と雄弁に語っている。
「……いや。ちょっと、後方支援に回ろうかと」
「手ぶらで?」
「気持ちの問題だ」
苦しい言い訳。
シュナは小さくため息を吐くと、再び正面の男へと向き直った。
「そこから動かないで。邪魔」
「はい」
(……逃げそこねた)
シオンは大人しく、シュナの斜め後ろで棒立ちになる。
足元の影で、ディアナが『ふふっ』と愉しげに笑う気配がした。
「……余裕だな、学生」
仮面の男が、ギリッと奥歯を鳴らす。
目の前で繰り広げられた気の抜けたやり取り。
それは、死地において彼という脅威を完全に「格下」として扱っている証拠に他ならない。
「ただの迷子ではないとは思っていたが……その白銀の髪。そして、理不尽なまでの氷の魔術」
男は、姿勢を低くして構え直した。
その身を包んでいた魔力を纏う風が、ゆっくりと解かれていく。
「学院の『氷の魔女』シュナですね」
「……」
「まさか、このような場所で大物に遭遇するとは。あなたは大会の参加者では?まぁ、それは置いておいても私の風魔術を相殺した程度で勝った気でいられては困る」
男の言葉と共に、彼の背後の空間が歪んだ。
「……来い」
短い召喚の詠唱。
男の背後から、一体の精霊が姿を現す。
四足歩行の獣。狼のようなシルエットを持つ、風の上級精霊。
だが、その姿はシオンたちが見知っている精霊のそれとは、決定的に異なっていた。
「……あれは」
シオンの目が細められる。
精霊の全身に、どす黒いモヤが纏わりついていた。
それは、ナギの精霊ピュールが暴走しかけた時に見せた、あの不吉な気配と酷似している。
(呪印……いや、強制的な魔力拡張の痕跡か)
原相方舟の実験。
精霊の意思を剥奪し、理性を削り落として、ただの暴力の装置へと作り変える外法。
目の前の風の狼もまた、その「犠牲者」なのだろう。
瞳からは知性の光が失われ、ただドロドロとした狂気と殺戮衝動だけが、黒いモヤとなって溢れ出している。
「グルルルルル……ッ!!」
獣が、低く濁った唸り声を上げた。
その瞬間に放たれた魔力の波は、先ほどの男自身の魔術よりも遥かに重く、暴力的だった。
「質量がある風……いや、風というよりは『暴風の塊』だな、あれは。嫌な思い出だな」
シオンが、淡々と分析する。
男が精霊魔術行使を解いた理由。
それは、中途半端な魔術の撃ち合いではシュナの氷の絶対領域を破れないと悟り、純粋な「質量」と「暴力」による直接攻撃へ切り替えたからだ。
「やれ!!」
男の号令。
黒いモヤを纏った風の狼が、床を蹴る。
速い。
音を置き去りにするような跳躍。
先ほどの風刃とは違う。精霊そのものが、巨大な質量弾となってシュナへ牙を剥く。
「……醜い」
シュナの声は、どこまでも冷たかった。
彼女は、迫り来る狂気の獣を前にしても、やはり一歩も引かない。
右手を、軽く前にかざす。
するとたちまち、空中の水分が一瞬で凍結し、分厚い氷の壁が形成される。
ただの氷ではない。魔力を極限まで圧縮し、ダイヤモンド以上の硬度を持たせた絶対防壁。
獣の牙が、氷壁に激突する。
凄まじい衝撃波が前室を揺らし、天井からパラパラと土埃が落ちてきた。
並の防壁なら、紙屑のように噛み砕かれていただろう。
だが、シュナの氷壁は、表面に浅いヒビが入っただけだった。
「チッ……!」
男が舌打ちをする。
獣は即座に後退し、壁を蹴って軌道を変え、今度は死角からシュナの横腹を狙う。
何度も、何度も。
縦横無尽に空間を跳ね回り、黒い暴風を纏った爪と牙が、あらゆる角度からシュナを襲う。
しかし、その全てが「間に合わない」。
シュナの視線が動くよりも早く、彼女の周囲の空間そのものが自動的に凍りつき、獣の攻撃を阻む。
攻防は、完全にシュナの掌の上だった。
(……強いな、やっぱり)
背後で完全に観戦モードに入ったシオンは、冷静に戦局を見極めていた。
シュナの魔力は底が見えない。息一つ乱しておらず、まるで退屈な作業をこなしているかのように、獣の連撃を捌き切っている。
対する男は、額から滝のような汗を流していた。
狂化した精霊を無理やり使役し続けるのは、術者にも多大な負荷を強いる。
息が上がり、その顔には明確な焦燥が浮かんでいた。
「……化け物め。ただの学生が、なぜここまで……!」
男のギリリという歯軋りが聞こえる。
このままいけば、魔力切れを起こすか、隙を突かれてシュナに凍らされるか。
いずれにせよ、男の敗北は時間の問題だった。
「もう終わり?」
シュナが、初めて自ら声を張った。
それは挑発ではない。
純粋な、確認。
「これ以上何もないなら、終わらせる」という、強者からの残酷な宣告。
「……くそっ! 舐めるなよ、小娘が!」
男の目が見開かれ、血走った。
このままではジリ貧。
それは、彼自身が一番よく理解していた。
「……さすがは学院トップの逸材。ゾルタン様の作品ですら押し切れないとは」
男は、獣を自身の側へと後退させる。
その呼吸は荒いが、瞳の奥に宿る狂気は、まだ死んでいなかった。
「ですが、私とて手ぶらでこの国に潜入したわけではありませんよ」
男の口角が、不気味に歪む。
彼は白衣の懐に手を入れ、何かを取り出した。
(……ん?)
シオンの眉間が、再びピクリと動いた。
男の手にあるもの。
それは、小瓶のようなものに見えた。中には、先ほど精霊が纏っていたのと同じ、どす黒いモヤのような液体が封じられている。
男がそれを取り出した瞬間、空間の軋みが一段階跳ね上がった。
「この力は、まだ実験段階でしてね。私自身に使うのはリスクが高すぎるのですが……あなたのような特上の『素材』を前にしては、出し惜しみはできません」
男が、小瓶の蓋に親指をかける。
嫌な予感が、シオンの肌を粟立たせた。
(……おいおい。また面倒なことになりそうだぞ)
シオンは内心で舌打ちをし、ポケットに入れていた手を、ゆっくりと抜いた。
祭祀区の地下深く、冷たい氷の空気に、異質な『狂気』が混ざり始めようとしていた。




