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アリアの敗北から2日。
王都の空はよく晴れていて、祝祭の色で飾られた大通りは、今日も朝から人で溢れていた。
会場へ向かう石畳の道を、ナギはいつもより少しだけ足早に歩いている。
その横でミナは分厚い大会資料を抱え、エルドは周囲の人波を冷静に見渡していた。
「今日はシオンの試合やもんな。なんやかんや言うて、シオンならやってくれるはずや」
「そうですね。学院内の選抜戦とは違って、周囲のレベルも空気も別物ですし……本人は嫌がっているでしょうけど、さすがに今日は本気を出さないと身が危ないと思います」
ミナがそう答えると、ナギは「思います、ってなんや」と首を傾げた。
「いや、だってシオンやで?変な負け方するほうが後々面倒だからといって圧勝してまうやろ」
「……その可能性の方が高いな」
エルドが即答する。
「でも、さすがに今日までシオンのことみてへんのよな」
ナギの言葉に、ミナとエルドが一瞬だけ黙った。
「……言われてみれば」
「昨日も、会っていませんね」
「出場組は基本、別行動やったんは分かるけど、夜もやで? 夕食の時間も見てへんし、今朝も見てへんやん」
「私はてっきり、シオンくんは一人で静かな場所を見つけて食べてるのかと……」
「それはありそうやけど!」
ナギは歩きながら頭を抱えた。
「そういえば開会式後はアリアとも途中から別行動になっとったし、その後どうしたんか聞いてへん……。うわ、なんか急に嫌な予感してきた」
「お前のその嫌な予感は、だいたい当たるからやめろ」
「そうですね。否定できないところが……」
軽口を叩きながらも、三人の歩幅は自然と早まる。
やがて巨大な予選会場の一つが見えてきた。
円形の競技場を囲むように観客が吸い込まれていき、入口上部の魔導掲示板には、本日の試合順が大きく表示されている。
「急ご急ご。さすがに初戦から大負けとかないやろけど、あいつのことやし、変なとこで逃げようとしててもおかしく――」
ナギが言いかけた、その時だった。
会場内へ入った瞬間、拡声用の魔導具を通した、よく通る審判の声が響いた。
『――エントリー番号120。シオン選手、規定時刻を過ぎても姿が確認できないため……棄権として処理します』
「……………………は?」
ナギの足が止まった。
数拍遅れて、周囲からざわめきが起こる。
好き勝手な声が飛び交う中、ナギはぴきりと笑顔を引きつらせた。
「……あのアホ」
「落ち着け」
「本当に棄権なんてことあるかい!なんでや!ほんまにおらんの!?」
ミナも珍しく目を丸くして、慌てて手元の資料をめくっていた。
「棄権扱いってことは、事前連絡も入ってないはずです。病欠なら運営側に通達が来るでしょうし……」
「連絡を忘れて別の場所に迷い込んだ可能性は?」
「シオンくんの場合、冗談に聞こえないのが困るんですよね……」
エルドは眉を寄せたまま、会場中央の空いたフィールドを見る。
「昨日から会っていないのなら、単なる寝坊や遅刻ではないかもしれない」
「やめてや、それ以上怖いこと言わんといて」
ナギは唇を尖らせたものの、その声にはいつもの勢いが少しだけ足りなかった。
シオンは面倒ごとを嫌う。
目立つのも嫌う。
できることなら試合なんて放り投げて、静かな場所に逃げ込んでいたいと思っているだろう。
それは皆、よく知っている。
だが同時に――
シオンがそこまで無責任な人物でないことも3人は知っている。
「……ミナ」
「はい」
「宿舎戻ってへんか確認できる?」
「やってみます。会場の共用端末から照会できます」
「俺は大会本部に行く。学院代表の無断棄権なら、エリナ先生にも話が行っているはずだ」
「うちも行く」
「お前は少し落ち着け」
「無理や言うとるやろ!」
とはいえ、誰も本気で止めはしなかった。
三人とも、胸の奥に同じ嫌な予感を抱いていたからだ。
祝祭の真ん中で、フィールドだけが妙に遠い。
世界大会の華やかな歓声が、今はひどく空々しく聞こえた。
◆
「――呼び出しておいて何だけど、いいの?恐らく棄権になるけど」
聞き覚えのある声が、頭上から落ちてきた。
王都の旧市街。
祭祀区にほど近い、朝の人気のない石畳の路地裏で。
シオンは壁に背を預けたまま、ゆっくり顔を上げた。
「……」
黒に近い紺髪を揺らし、エリナが腕を組んで立っていた。
その表情は呆れ半分、理解半分といったところで、完全な怒りではない。
「僕も気になることがあったんで」
シオンは小さく息を吐いた。
「祭祀区で変なものを見た。鍵開けして、立ち入り禁止っぽいところに入っていく男。関わらないつもりだったけど、ディアナに唆されて」
「“気になること”で済む顔をしていないな」
「僕はいつもこうだ」
「自覚があるだけまだマシだな」
エリナは言いながら、壁から離れたシオンの様子を観察した。
怪我はない。魔力の乱れも感じられない。
だが、いつも以上に目の下にうっすら疲労が溜まっている。
シオンは視線を逸らし、面倒そうに頭を掻いた。
「で、何の用ですか?」
「もうわかってるでしょ?」
「嫌な予感しかしないな」
「奇遇だな。私もだ」
エリナは外套の内ポケットから、小さな封書を取り出した。
普通の紙ではない。表面に淡い銀の筋が走る、魔術封緘仕様の簡易命令書だ。
「今朝未明、祭祀区の深部で異常な魔力反応が断続的に観測されたわ。規模そのものは大きくない。でも質が妙だった。ルート王国の祭祀院側も表立って騒ぎにはしたくないらしくて、こちらにも非公式に調査協力の話が来てる」
「……僕まだ何もしてないですよ」
「わかっている。心配するな」
エリナは封書をシオンの胸元へ軽く押しつけた。
「私が対応したいところだが、まだ学院生は大会に残っているからな。私が出るわけにはいかん」
「シャルロッテはいないんですか?」
「いない。彼女は別の任務を遂行中だ」
「チッ……」
「お前の棄権は私が皆に伝えておく。そもそもこの件がなくてもサボるつもりだったろう?」
「否定はしないでおきます……」
シオンは封書を受け取り、中身をざっと確認する。
祭祀区北西区画。一般立入禁止。
観測時刻と簡易経路、それに調査協力者の欄。
そこを見た瞬間、シオンの眉がぴくりと動いた。
「……いや、ちょっと待ってください」
「なに?」
「なんで協力者がいるんですか」
「お前の単独潜入を許すと思うか?」
「先生がついてくるならまだしも」
「伝えたばかりだろう。手が離せないと」
エリナは首を横に振り呆れたような仕草をした後、ほんの少しだけ声を落とした。
「だから代わりをつけた。正確には、向こうから“同行したい”と申し出てきたのだけど」
「断ってくださいよ」
「断ったよ。最初はね」
その時だった。
「……先生は、断った。でも私は来た」
路地の奥、朝の淡い影の中から、静かな声が響く。
振り向いた先に立っていたのは、白銀の髪を風に揺らす少女――シュナだった。
世界大会用の正装に近い外套を羽織っているのに、なぜか周囲の空気だけがひやりと冷えているように見える。
シオンは露骨に嫌そうな顔をした。
「……なんでここにいるんだ」
「あなたこそ、誰にも言わないんじゃなかったの?」
「……言ってない。というか自分はどうなんだよ」
「私も言ってない」
迷いのないシュナの返答にシオンは少したじろぐ。
エリナが二人の間に視線を往復させてから、小さく息をつく。
「とにかく、調査はお前達に任せる。今回の件、表向きの戦力を大きく動かすと祭祀院側が騒ぐ。けれど、見過ごすには嫌な匂いがする」
「先生」
「なに」
「僕、やっぱり今日の試合出たいなって」
「もう遅いよ」
「私もでない」
シュナがエリナの側に立つ。
「なんでこんな面倒ごとばかり……」
心底うんざりした顔で、シオンは額を押さえた。
静かに世界大会を乗り切る予定は、どうやら今朝の時点で完全に死んだらしい。
その横で、シュナがごく小さく口を開く。
「……安心して。足手まといにはならない」
「そこの心配はしてない。別の意味で心配だ」
「別の意味?」
「説明するのは面倒臭い」
「そう」
シュナはあっさり引いた。
けれど、その瞳だけは引いていない。
まっすぐに、静かに、シオンの奥にある何かを確かめるように見ている。
昨日までの“探る視線”よりも、ほんのわずかに深い。
すでに何かを知っていて、それでもまだ確かめたい者の目だ。
シオンはそれに気づかないふりをして、命令書を外套へしまった。
「……で、どこまで分かってるんですか」
「観測されたのは魔力だけじゃないわ」
エリナの声音が、教師ではなく裏のそれに変わる。
「祭祀区深部の封鎖区画で、“精霊反応に似ているのに、精霊ではない何か”が検知された」
空気が少しだけ張った。
シオンは眉をひそめる。
シュナは瞬きひとつせず、エリナを見返した。
「心当たりがある顔だな、シュナ」
「……ある」
「そうか」
エリナは短く頷き、それ以上は追及しなかった。
「なら、任せたぞ。表では祭りが続く。平和な祭りで終わらせるにはお前達の力が必要だ」
「できれば普通に観光して、普通に宿に戻って、普通に怒られたかった……」
「怒られるのは確定なんだな」
「怒られるほうが楽ですからね」
エリナは一瞬だけ口元を緩めたが、すぐにいつもの冷静な顔へ戻った。
「シオン」
「はい」
「無茶はするな。――特に、お前はな」
その一言だけ、少し重かった。
シオンは視線を伏せ、わずかに肩をすくめる。
「善処します」
「……まあいい。二人とも頼んだぞ」
エリナはそれだけ言い残し、朝の喧騒へ溶けるように立ち去っていった。
あとに残されたのは、シオンとシュナ。
そして、祭りの表側から半歩外れた、ひどく静かな路地だけ。
少しの沈黙のあと、シュナが隣に並ぶ。
「また、一緒になった」
「不本意だがな」
「私はそうでもない」
「……そうですかい」
返しながら、シオンは小さくため息を吐いた。
祭祀区。異常な魔力。精霊ではない何か。
昨日見た不審者。閉ざされた扉。
そして今、隣にいる氷の魔女。
どう考えても、平穏とは真逆だ。
それでも足は、もう自然と祭祀区の方角へ向いていた。
「先に言っておくが……」
「なに?」
「こういうのは、できるだけ静かに終わらせたい。派手なのはなしで」
「……あなたがそれを言うと、たぶん無理」
「縁起でもないことを言うなよ」
「経験則」
鈴を転がすような、かすかな声。
それがほんの少しだけ柔らかく聞こえて、シオンは嫌そうに顔をしかめた。
「じゃあ行くぞ」
「うん」
祭りの歓声は背中側。
向かう先は、その裏に沈む静かな異常。
陽気な王都の朝とは裏腹に、祭祀区へ近づくほど空気はひやりと薄くなっていく。




