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「……はぁ……はぁ……ま、参りました。降参です」
静まり返った予選会場に、アリアの声がはっきりと響いた。
それは敗北宣言だった。
取り繕う余地も、誤魔化す余地もない、きっぱりとした降参だった。
白い石で組まれた競技場の中央、膝を折るほどではないにせよ、アリアの呼吸は乱れていた。額には汗が滲み、肩で息をしている。綺麗に整えられていた蒼の髪も、今は幾筋かが頬に張りついていた。
だが、それでも姿勢は崩れていない。
魔力は尽きかけ、精霊も消耗し、これ以上続けても勝ち目がない。そこまで正確に理解した上で、自分の意思で試合を終わらせた――そんな降参だった。
対戦相手は、アリアの正面で静かに構えを解いた。
三十代半ばほどの女だった。長身ではない。体格も、どちらかといえば細身に見える。だが、その細い身体のどこにも無駄がなく、抜いた直後の剣のような張り詰めた気配だけが最後まで揺らがなかった。
「見事でした、アリア・フェンリズ」
女は淡々と、しかし礼を失しない声で言った。
「年齢を考えれば、驚くべき技量です」
アリアは息を整えながら、わずかに唇を引き結ぶ。
慰めではない、と分かる。
だが同時に、それが勝者の余裕から来る言葉であることも分かってしまう。
「……ありがとうございます」
返した声に震えはなかった。そこだけは意地でも崩さないと決めているように。
場外から、ようやく張り詰めていた空気がほどけ始める。観客席のあちこちで息が吐かれ、ざわめきが戻る。世界大会である精霊大祭の予選とはいえ、この会場にいる者たちは皆、見る目を持っている。だからこそ、単純な勝敗以上のものが伝わるのだろう。
善戦だった。
若手、それも学生としては破格だった。
だが、届かなかった。
その事実が、静かな熱を帯びて広がっていく。
アリアはゆっくりと視線を落とした。
自分の足元に刻まれた石の紋様。その上には、幾度も踏み込み、逸らし、受け、切り返した痕跡がまだ生々しく残っている。
最初から、楽な相手ではなかった。
相手の精霊は派手ではない。王級のような圧もない。だが、一つ一つの間合いが正確で、判断が速く、こちらの出力の山を無理に受けない。流し、削り、いなし、そうしてアリアの魔力と集中を少しずつ奪っていった。
一撃の強さでは押していた瞬間もあった。
押し込める場面も、たしかにあった。
それでも決めきれなかったのは、相手がずっと“勝負の終わり方”を知っていたからだ。
どこで引くか。
どこで受けるか。
どこで一歩だけ前へ出るか。
その全部が、今のアリアより一枚上手だった。
精霊使いは、年季がものを言う。
学院にいた時は何度も聞いた言葉だ。
分かっていたつもりだった。
だが、こうして真正面から突きつけられると、理解と実感はまるで別物だった。
「……っ」
胸の奥に湧きかけた悔しさを、アリアは息と一緒に押し込めた。
負けは負けだ。
だが、俯いて終わるつもりはない。
視線を上げると、対戦相手はもう一度だけ小さく頷き、そのまま退場口の方へ歩き出していた。勝って当然と誇るでもなく、負けた相手を見下すでもなく、ただ次の試合へ向かう者の背中だった。
その自然さが、余計に世界の厚みを感じさせる。
ここまでは、自分はいつも1位だった。
1年の王級契約者。序列1位。少なくとも、同世代では届く者の方が少ない場所にいた。
けれど、ここでは違う。
世界大会に集まった者たちは、同世代の秀才ではない。各地で勝ち残り、場数を踏み、精霊との時間を積み重ねてきた大人たちだ。
その中で、自分が今ここまで戦えたこと自体は誇っていい。
誇っていい、はずなのに。
「アリア!」
場外から弾んだ声が飛ぶ。
アリスだった。今にも身を乗り出しそうな勢いで手を振っている。その後ろにはイオリとシンシア、そして少し離れてミナとナギ、エルドの姿も見えた。
アリアはほんの少しだけ目を細め、それから肩の力を抜いた。
負けた。
ちゃんと負けた。
それでも、自分はここに立っている。
そう思えたのは、あの声のおかげだった。
場外へ戻ると、最初に飛び込んできたのはアリスだった。
「アリア!」
ほとんど駆け寄る勢いだったが、途中でイオリに袖を引かれて踏みとどまる。さすがに試合直後の場で飛びつくのはまずいと判断したのだろう。それでも、表情までは抑えきれていなかった。
悔しそうで、心配そうで、それでもどこか誇らしさを隠せていない、複雑な顔だった。
「大丈夫ですか」
イオリが一歩前に出て、静かに問う。
「ええ。少し消耗しただけです」
アリアはそう答えたが、さすがにいつも通りの余裕まではない。呼吸はもう整い始めていたものの、魔力の消耗は隠しきれなかった。
シンシアが控えめに胸を撫で下ろす。
「よ、よかったですぅ……」
「いや、よくはないやろ」
横からナギが即座に突っ込んだ。
だが、その声音は重くなりすぎないように意識しているのが分かる。明るく言うには負けの直後すぎる。かといって沈みすぎるのも違う。ちょうどその境目を探るような声だった。
「負けは負けやけど、見とった感じ、普通にすごかったで」
「同感です」
ミナもすぐに頷く。
「正直、相手の方の対応が……その、完成されすぎていました。あの場で崩れずに最後まで組み立て続けられたの、本当にすごいと思います」
言葉を選びながら、それでもまっすぐにそう言う。慰めではなく、見たままの感想として。
アリアはわずかに目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「いや、でもあれ反則やろ」
ナギは腕を組んで、まだどこか納得のいかない顔をしていた。
「なんやあの人。王級みたいに派手な圧はないのに、ずーっと嫌なとこおる感じやったやん。ああいうのが一番しんどいやつや」
「それはそうだな」
エルドが珍しくすぐ同意した。
「出力や格で押し切るタイプじゃない。間合いも受けも、全部が無駄なく積み上がってた。正面から崩すには、今のアリアじゃ少し分が悪い」
慰めの色はない。
だが、下げる響きもない。
ただ、世界大会の相手として見た時の現実を、そのまま言葉にしただけだった。
アリアはその率直さに、逆に少しだけ肩の力を抜いた。
「そうですね」
素直に認める。
「力で押し込める場面はありました。ですが、最後まで決めきれなかった。……いいえ、決めきれないように捌かれていた、が正しいでしょうか」
自分で口にすると、悔しさが輪郭を持つ。
けれど同時に、整理もできる。
「経験の差、ですか」
ミナがそっと言う。
アリアは苦く笑った。
「ええ。嫌になるくらい、そうでした」
学院では自分が一位だった。
一年の中では、間違いなく最前列にいた。
けれど世界大会は、同年代の頂点を競う場ではない。各国で勝ち上がり、何年も精霊と共に戦ってきた者たちが集まる場所だ。
その違いを、今日の一戦は嫌というほど教えてきた。
「でもさ」
アリスが、ようやく口を開いた。
ずっと何か言いたそうにしていたくせに、実際に声を出すまで少し間があった。その分だけ、言葉を選んだのだろう。
「アリア、ちゃんと届いてたよ」
アリアが目を上げる。
アリスは真っ直ぐに姉を見ていた。悔しそうな顔のまま、それでも瞳だけは揺れていない。
「最後まで、全然負けてなかった。勝てなかっただけで、全然負けてなかった」
一瞬、誰も何も言わなかった。
言葉としては少し不器用だ。
理屈でいえば、負けは負けでしかない。
けれど、その不器用さの中にある気持ちは、誰より真っ直ぐだった。
アリアの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「……ありがとう、アリス」
その一言で、ようやく場の空気が少し柔らかくなった。
ナギがそこで、待ってましたとばかりに明るい声を出す。
「せやせや。まだ世界終わったみたいな空気出すには早いって。学院代表の看板背負ってここまで来た時点で、十分すごいんやから」
「お前、さっきまで普通に悔しがってただろ」
エルドが呆れたように言う。
「それとこれとは別やん。悔しいもんは悔しいし、すごいもんはすごい」
「雑だな」
「でも、間違ってはいません」
ミナが小さく笑った。
その笑みにつられるように、シンシアもほっとした顔を見せる。イオリはいつも通り冷静だったが、アリアの呼吸と表情が落ち着いたのを見て、わずかに緊張を解いたようだった。
アリアは仲間たちを見回す。
悔しさが消えたわけではない。
むしろ、負けをちゃんと受け止めたぶんだけ、芯の方では熱を持っている。
けれど今は、それを無理に隠す必要もなかった。
「……ええ」
アリアは静かに頷いた。
「負けました。ですが、ここで終わったつもりはありません」
その声音には、敗者の湿り気よりも、次へ向く硬さの方が強く混じっていた。
「そうこなくっちゃ!」
ナギがすぐさま笑う。
「まあ、次はもっと強くなってからリベンジやな。世界相手でも『はい終了』って言わせるくらいに」
「それはまた大きく出ましたね……」
ミナが苦笑し、エルドが「お前が言うな」と呆れる。
アリアもつい、小さく笑ってしまった。
負けた。
それは動かない。
それでも、こうして仲間の前に戻ってきた時、負けだけで終わらないのだと少しだけ思える。
世界は厚い。
想像していた以上に、ずっと高い。
だが同時に、その高さを見たことで、自分がどこまで行かなければならないのかも、前よりはっきりした気がした。
「次はシオンさんですね」




