01.興信所所長と異世界
私の名前は水瀬蒼
突然ですが……助けて欲しいです。
混乱と焦りを必死で抑え込み、状況を整理することに一時間ほど費した結果、私の脳内には、非現実的な五文字が点滅している。
ことの始まりは、今も握りしめているこの羅針盤だった。
――できればここまでの経緯を、少しだけ話させてほしい。
◇
27歳、独身。
探偵という職業にロマンを見出すには、少々遅すぎる歳かもしれない。
それでも私は、夢を追いかけてしまったのだ。
今日から、地元の片隅でひっそりと営業を開始した「水瀬探偵事務所」の所長となった私は、理想を詰め込んだ事務所内に大変満足していた。
革張りのソファに、アンティーク調のデスク。壁一面の本棚には、お気に入りの推理小説が並ぶ。
まさに、夢にまで見た“探偵事務所”の姿だ。
私の人生を形作ったのは、育ての親である祖父の書斎に並ぶたくさんの探偵小説だった。
パイプをふかし暖炉の前で安楽椅子に揺られながら難事件を解決する探偵に、幼い頃の私は、どうしようもなく心を奪われてしまった。
「蒼ちゃん、探偵って……実際、そんなに格好いいもんじゃないよ」
興信所への就職を決めた時、誰もがそう言った。
事実。そこで過ごした5年間は、夢とは程遠い現実の連続だった。
尾行、張り込み、証拠写真の撮影。レンズ越しに覗く誰かの秘密は、いつも少しだけ胸が痛んだ。
夏でも冬でも関係なく、空調を切った車内で何時間も耐え続ける日々。
……でも、そんな“現実的な探偵”を知っても、憧れは消えなかったのだ。
ドラマやアニメとは違い、犯罪事件を解決する探偵になることが叶わなくても、少しでも私の夢を形にしたかった。
そして、祖父を看取ったことをきっかけに、私は貯金をすべてはたいて自分の希望を全て詰め込んだ事務所を立ち上げた。
それが、今日という日だった。
開業初日で依頼はまだ一つもない。
それでも、充足感に包まれた私はゆっくりと革張りのソファに身を沈める。
真新しい革と、古書のインクが混じり合った匂い。
目を閉じれば祖父の書斎が瞼の裏に浮かんだ。
「これからまた、誰かの人生を少しずつ助けていこう」
そう一人つぶやいた時。カチャリ、と事務所のドアが開いた。
少し驚きながら目を開けると、一人の女性が立っていた。
私の目は、もはや職業病ともいえる速さで彼女の姿を観察した。
着古されているが清潔なワンピース、歩き回ったのか、すり減った靴のかかと。
そしてなによりも、懇願と疲労が混じり合ったその瞳。
「ご依頼でしょうか?」
そう声をかけた私に、女性はコクリと頷くと震えた声で言った。
「行方不明の兄を探してほしいんです」
名前を神城澪と名乗った彼女は、唯一の手がかりとして、古びた一つの羅針盤を差し出してきた。
奇妙な文様が刻まれたその針は、意思を持っているかのように狂った速さで回り続けている。
「お兄様のお写真はありますか??」
そう尋ねると、女性はスマートフォンを取り出し一枚の写真を表示させた。
画面に映っているのは、人の良さそうな若者だ。
「兄と妹の2人だけの家族で、あまり写真を撮らなくて……この一枚しかないんです」
そう言った女性は、寂しそうに写真を眺めていた。
「……どこの興信所でも断られてしまって」
彼女はぽつりと呟く。
聞くと、思いつく限りに自分でも探し、そして行方不明者届けも出したのだと言う。
それでも見つからない兄を思い、色々な興信所に断られながら、藁にもすがる気持ちでここに来たのだそうだ。
「それでうちに来られたんですね」
「……新しく立ち上げられたと、サイトで見たので」
その口ぶりから、本当に色々手を尽くしているのだろうことが窺えた。
とは言え、砂漠で砂を見つけるような依頼だ。
どうしようかと考えた時、チラリと視界の端に探偵小説がうつった。
(……経営者としては、自殺行為ね)
それでも、私の口は勝手に動いていた。
「……お引き受けいたします」
気がつけば私はこの依頼を受けていた。私が憧れた探偵なら、見捨てたりしない。そう、思ってしまったのだ。
「見つけてみせますと断言はできません。でも、全力を尽くします。そのかわり依頼料は成功報酬でかまいません」
私の言葉に、彼女は泣きそうな顔をした。
「……それで、調査のために先ほどのお写真のデータをいただきたいのですが、よろしいですか?」
私がそう言って名刺を差し出すと、女性はこわばっていた顔をわずかにほころばせ、「もちろんです」と頷いた。
連絡先を交換し終えると、彼女は何度も頭をさげて、事務所を後にした。
彼女が帰った後、私は改めて羅針盤と向き合う。
ルーペを片手に隅々まで調べるが、製造元を示す刻印どころか、こじ開けるための継ぎ目すら見当たらない。ずしりと重いそれは、まるで金属の塊のようだった。
そして針は、誰の意思も無視して、狂ったように回り続けている。まるで“どこか”を示そうとしているかのように。
「変な羅針盤ね」
私はスマートフォンの連絡先から、ある名前をタップした。
相手は柊健吾。高校時代からの腐れ縁で、自称・警視庁鑑識課のエースだ。
彼なら、何かアドバイスをくれるかもしれない。
『もしもし、蒼? 開業祝いの催促か?』
相変わらずの様子に、思わず乾いた笑いがでた。
「いきなりそれ? ちがうわよ。相談があるの。人探しの依頼で、妙な羅針盤を預かったんだけど……」
私がその奇妙な特徴を手短に説明すると、健吾は呆れたような声を出した。
『はぁ? 羅針盤? ……で、事件性は? 警察に届けは?』
「ないとは思う。届けは出してあるって」
『じゃあ、俺は何にも言えないな。……そんなら警察に任せろって言いたいとこだけど、お前、どうせ依頼受けちまったんなら意地でも探す気だろ』
私の独立を大笑いしながらも賛成した健吾は、呆れながらそう言った。
「……まあね」
『はぁ……。ひとつだけ言うなら、家出の線も忘れるなよ』
「わかってるってば」
私の返事に、『じゃあな』と素っ気ない声がして、通話は一方的に切られた。
相変わらずの様子に、やれやれと肩をすくめる。
すると、ピロン、とスマートフォンが軽い通知音を立てた。
先ほどの依頼人から、兄の写真データが送られてきたのだ。
ふうとため息をついて、私は送られてきた画像を画面に映し出した。
写真を拡大し、何か手がかりになりそうなものが写り込んでいないか確認してみるが、それらしい物は見つからなかった。
「君の持ち主はどこに行っちゃったんだろうねえ」
相変わらず不気味に回り続ける羅針盤を手に取り、問いかけるように呟いたーーその時だった。
羅針盤の針が、ぴたりと、一瞬だけ“北”で止まった。
その瞬間、部屋の空気がひやりと肌を刺す。
直後、羅針盤がまるで心臓のように強く脈打ち、目も眩むほどの光を放った。
「うわっ……!?」
咄嗟に目を閉じた次に感じたのは、身体がぐにゃりと歪むような感覚に、妙な浮遊感。
そして、次に目を開けた時。
私は事務所の椅子の上ではなく、石畳の薄汚れた路地裏に立っていた。
湿った土と、濃いカビの匂いが鼻をつく。
足元の石畳にそっと触れる。ざらりとした感触、温度、湿り気――どれも夢とは思えないほどに現実味を帯びていた。
ざわめきが耳に届く。
遠くで誰かが声を張り上げている。
ーーけれど、それは日本語ではないのに、なぜか日本語のように聞こえた。
まるで頭の中で、自動的に翻訳されているみたいに。
「いやいや、待って。なにこれ、……どう言うことなの」
ええ、落ち着け私。まず深呼吸。
頬を叩き、つねり、唇を噛み締めてみても走る痛み。
その行動を何度反芻しても、変わらない感覚。
『ありえないことを除けば、残ったものがどんなに信じられなくても真実だ』
祖父の書斎で何度も読んだ、あの名探偵の言葉が不意に頭をよぎった。
しばらくして、私の脳内で、あの五文字が再び、点滅をはじめた。
異世界転移
「……まじですか……」
本当に、もう一度だけ言わせてほしい。
誰か、助けてください。
興信所所長、異世界に降り立つ。
その路地裏の先で、運命が、静かに息を潜めてこちらを見ていた。
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