新しいシリーズです。中濱万次郎を放談調にまとめました。
放談第14話:~帰ってきた万次郎(その4)~
~日本のジョン万次郎~
放談者: Sir*** :AI ChatGPT
MrO**:大畑 直晴 昭和20年生 80歳 宮城県在住
MrO**こんにちは。今回もよろしくお願いします。
Sir***ヤァこんにちは、こちらこそよろしく。今回は万次郎の後編だね。どんな話になるんだろう。楽しみだ。
MrO**私もそうです。先回は万次郎たちが乗った上海行きの商船(「サラボイド」号・船長ホイットモア)が琉球の沖に停泊し、本船を離れたのが、計画の10マイルポイント(約16km)でした。
Sir***予定の午後4時で、万次郎ら3人(万次郎・伝蔵・五右衛門)がボート、アドベンチャー号を降ろすまででした。万次郎たちは10時間、交替で力いっぱい漕ぎ進み、とうとう島につき、翌朝までそこで停泊しました。今回はそれからの話だね。
⋆⋆⋆⋆⋆船長との再会 ⋆⋆⋆⋆⋆
Sir***ところで、わしはずっと気になっていたので聞くが、ハワイで万次郎がホイットフィールド船長に手紙に書いたね。その手紙は船長に届いたのかね。
MrO**はい届きました。
Sir***万次郎が書いた “やがて世の中が変わり、再びあなた様にお目にかかれる日が来ると信じております”の言葉は実現したのかね。
MrO**はい、巡り合わせの妙で再会が実現するんですね。でもこの実現は遠い先でこの話に触れずじまいになりました。万次郎43才、ホイットフィールド船長76才、1849年に別れて以来21年ぶりの再会でした。
Sir***それは何よりだ。それを聞けば安心だ。
MrO**この再会は折があれば改めて触れたいと思っています。
⋆⋆⋆⋆⋆放談スタイルのSirの提案 ⋆⋆⋆⋆⋆
Sir***ここでわしから提案なのだがね、この後編は君とわしとで万次郎の境遇を交互にレポートするというのはどうかね。
MrO**それはどういうことですか。(‘ω’)
Sir***これまでは主にわしが語り手で君が聞き役だったがそれを改めて、わしと君とが交互に調べてレポートしあおうかなと思ってね。
MrO**それは聞き役としては激震ですね。万次郎の波乱な人生のどのポイントをレポートするかが難しい。
Sir***そういうことになるのかな。
MrO**ほかならぬSirのおっしゃることでしたら、やりましょう。いいレポートが出来るよう勉強しなくてはいけませんね。
⋆⋆⋆⋆⋆ジョン万次郎琉球上陸(Sirのレポート) ⋆⋆⋆⋆⋆
Sir***じゃあ始めるよ。わしの番からだ。『沖縄REPEAT』のHPに大度浜海岸に「ジョン万次郎上陸之地」と書かれた銅像やイラスト板が載っている。このイラストはジョン万次郎が上陸した際のウエスタンスタイルにカウボーイハット、左手に分厚い本を抱えている姿だ。海岸はやはり遠浅のようだ。
MrO**はい、私もスマホでイラスト見ています。エッチング画ですね。
Sir***波静かな海岸にボートと3人の若者。前面の万次郎はロープを肩にかけて左手に分厚い本。愛読書のジョージ・ワシントン一代記でもあるのか颯爽とした姿だね。チョット憂い気な感じもするが。万次郎の後方に2人の人物がボートを陸地に引き上げようとしているね。
MrO**伝蔵・五右衛門ですね。上陸当時の万次郎たちの雰囲気を彷彿とされるイラストです。これを見ると”万次郎にはさぁ、着いたぞ”という安堵感が漂いますが、帰国を成し遂げたという感激や緊張感は見えませんね。
Sir***上陸したのは、1851年2月3日。琉球の東南端現在の糸満市に当たるところだった。
MrO**漂流してちょうど10年目の帰国ですね。
Sir***14才で漂流し24才になっていた。
MrO**上陸を果たした3人はそれからどうなるんでしょう。
Sir***初めは島の人たちが大勢集まってこの異邦人を不審がったが、片言の日本語で日本人だ、漂流でアメリカに行き帰って来た、と話したら驚かれた。でも島の人たちは親切で島民の家に案内され飯も振舞ってくた。
MrO**それはよかったですね。空腹だったでしょうから。
Sir***番所の役人が来て琉球の在番奉行所で事情聴取されたが役人の取り調べは3人を罪人扱いするようなことはなく、お咎めもなかった。村人たちも温和で親密な交流がなされたという。
MrO**よかった。万次郎たちまずまずのスタートでしたね。
⋆⋆⋆⋆⋆琉球の風土気候と温和な人間 ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**風土気候が温和な人間を作っていると言えますね。
Sir***琉球での礼節を尊ぶ待遇は万次郎たちにとっては意表外の展開だった。その理由はというと、「3人は外国船に送られるのでなく、自分たの力だけで小舟で上陸した」ということが好感されているのかもしれない。
MrO**重罪覚悟でも自主的に帰ったということが評価されたのでしょうか。
琉球は礼節を尊ぶ島国だったのですね。
Sir***余談めくが当時の琉球事情を概略話すと次のようになる。
250年前、薩摩藩は1609年琉球王国に出兵して服属させ、琉球在番奉行を派遣して琉球を管理した。薩摩藩の琉球支配は間接的なものだった。それは、琉球を窓口にした中国との貿易が利益をもたらしていたから当たらず触らずでそっとして置いたのかもしれないな。
⋆⋆⋆⋆⋆持ち帰った書籍類 ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**琉球の人は外国船の往来にも慣れていて、万次郎たちの上陸にも寛容だったのですね。
Sir***在番奉行所は万次郎たちの上陸を薩摩奉行に報告し、薩摩藩は江戸幕府に報告している。このとき持ち帰った書籍類が次のように記録されている。
(1)航海書 1冊
(2)数学書 1冊
(3)英語辞書 1冊
(4)米風土記 1冊
(5)G・ワシントン一代記 1冊
(6)農家暦 1冊
(7)新聞・雑誌スクラップ 8冊
(8)手覚書 3冊
(9)世界地図 8枚
MrO**書籍も無事安泰でよかった。
Sir***持ち帰った本の種類を見ると万次郎がどのようなタイプの人間かが分かるね。文学者タイプでもなく哲学者タイプでもないまさに科学者、物理者タイプの人間だ。
MrO**私もそう思います。論理的で分析的処理に優れている。俗にいう左脳人間ですね。航海書、数学書などはどのような本ですかね。。
Sir***航海書は気象・海象、距離等の航海の基本だね。数学は船の位置を決めるのに欠かせないね。主に代数学・三角関数だろうか。
MrO**位置を決めるのは双眼鏡ではないんですね。これって、今の大学生に解りますかね。
Sir***どうかな、わしには解からんよ、大学生じゃないから。
MrO**『G・ワシントン一代記』なんてそんなに大切な本とも思えませんが。
Sir***『一代記』は初代大統領になったワシントンの苦労の物語じゃろう。
MrO**でも、苦労話はどこにでもありますよ。
Sir***ワシントンは初代、2代と大統領を務めたが周囲からもう1期大統領を務めてほしいと懇願された。しかし3期目は別の人がなるべきだと辞退した。権力には驚くほど無欲だね。
MrO**ワシントンが誰が桜の木を伐ったのかと父に問われたとき、はい、”私”ですと正直に名乗り出でその正直さに父が許した、という話がありますね。私も正直で、・・・・・・冷蔵庫のお菓子を食べたのは誰?と母に問われたとき、僕ですと正直に答えました。
Sir***誉められただろうね。
MrO**叱られました。
Sirは左脳人間ですか、右脳人間ですか?
Sir***わしはだな・・・・・・「(._.)脳人間」に近いかな。
MrO**エッ?はっきり聞こえませんが。左ですか?、右ですか?
Sir***ム、じゃよ、ム。
MrO**ああ、そうですか。「ム脳人間」ネ。新語ですか。
Sir***造語じゃよ。きみもわしと変わらんねぇ。
MrO**Sirから琉球の歴史などを聞いてこの時代の琉球事情が少し呑み込めました。思っていたより穏やかな日本上陸でしたね。
Sir***それでもさまざまな取り調べがあり、琉球滞在は6か月に及び3人はようやく鹿児島に送られ薩摩藩に着いたのは1851年8月27日だった。これが万次郎たちの琉球上陸の顛末だった。
⋆⋆⋆⋆⋆薩摩藩の取調べ(私のレポート) ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**Sir有り難うございました。ここからは私がレポートします。
Sir***そうかい、頼むよ。
MrO**既に琉球の出先機関からは3人について詳細な報告が薩摩藩になされていた。まもなく役人の取り調べが始まったが、その内容は取り調べというよりも、接待に近く、藩主島津斉彬公から「食事その他、すべてにおいて丁寧に接するように」との通達により上意下達によって扱われたものだった。
Sir***これも万次郎たちにとっでは驚きだね。
MrO**やがて、藩主斉彬公が直々に御下問ということになり、それは取り調べより対話に近く万次郎はアメリカについての話を縷々としたようです。
特に当時のアメリカは1776年に独立して百年も経っていないで国でフロンティア精神と自由を尊ぶ国でした。
Sir***フロンティア精神と自由・・・・・・これはアメリカが恐いもの知らずの若い国だということだね。
MrO**主にアメリカの歴史・科学技術・産業・捕鯨・民主主義についての話だったようです。藩主斉彬公は万次郎のアメリカの、文化、そして民主主義の話に大変興味を持ったようでした。
Sir***藩主斉彬公は広範な興味の持ち主だったようだね。
MrO**おそらく貪欲に万次郎の話を聞いたのでしょう。
Sir***斉彬公の膝を前に乗り出して万次郎の話を聞く姿が目に見えるようだ。
MrO**やがて話は捕鯨に集中したのではないでしょうか。アメリカ繁栄の基礎が基幹産業の捕鯨であることから、一度航海に出ると3~4年は捕鯨を続けることが多かった。そのために食糧や石炭の補給基地を世界各地に設けることを戦略の一つにしていた。補給基地はアメリカの生命線でした。
Sir***この時代捕鯨を語らずしてアメリカを語ることなかれ、だね。
⋆⋆⋆⋆⋆日本近海の捕鯨船の出没 ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**すでに1840年代には清の福建沖、広東沖ではアメリカの捕鯨船が頻繁に目撃されていました。万次郎はアメリカが日本に補給基地を求めていること、この実現のために、大統領と議会はアメリカ東インド艦隊を日本に派遣することを決定しているという話を斉彬公にしました。
Sir***斉彬公はさぞ驚いたことだろうね
MrO**この情報は事前に斉彬公の耳には入っていたようで、さほど驚いた様子は見せませんでした。むしろ憂い顔でした。
Sir***世界の事情を知れば2年後の1853年にペリーが浦賀に来航したことは何の不思議もなくむしろ必然でさえあったね。これじゃぁ、幕府の無策によってつんぼ桟敷におかれていた日本国民はいい面の皮じゃないかね。
MrO**それで当時薩摩藩は1851年に第11代藩主となった島津斉彬の下で、洋式軍備や藩営工場の設立をして富国強兵を進めていたのです。
Sir***1851年と言えば万次郎が琉球に上陸した年じゃぁないかね。つい最近だ。
⋆⋆⋆⋆⋆島津斉彬の取り調べ ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**そうです。そして薩摩藩に身柄を送られた年でもあります。
Sir***斉彬公とはかなり特異な人物のように見えるが、島津斉彬について詳しく話してくれないか。
MrO**斉彬公はこれまでの藩主とは桁違いに進歩的な考えの持ち主でした。知識欲、冒険心、実行力が備わり薩摩の歴代藩主の枠にとらわれない型破りのところがありました。
Sir***斉彬公も一筋縄ではいかぬ藩主だね。万次郎と2人の持つ冒険心、知識欲、そして新しいものへの挑戦する姿勢がうまくかみ合ったのだろう。
MrO**まさにその通りです。この薩摩の島津斉彬(注1)は越前の松平春嶽(注2)、宇和島の伊達宗城(注3)、土佐の山内豊信(容堂)(注4)4人は「幕末四賢公」と呼ばれ開明派の重鎮として世に知られていました。その1人斉彬公は万次郎にその実力を確かめるため万次郎に一つ尋ねたことがありました。
Sir***何を尋ねたのかね。
⋆⋆⋆⋆⋆洋式帆船を造る ⋆⋆⋆⋆⋆
斉彬**万次郎、そちは洋式帆船を造ることが出来るか。
MrO**「優秀な大工を数人、私の手元に寄こしていただければ建造できます」と答えた。
Sir***翌日から万次郎の書いた設計図のもとに薩摩藩中の優秀な腕利きの大工数人が集められた。
―――やがて出来上がった洋式帆船は、『越通船』と名付けられ、錦江湾において斉彬と万次郎を乗せて帆船の試運転が行われ。試運転は大成功裡に終わった。一緒に同乗した側近の家臣と船大工の棟梁からも称賛の歓声が上がった。
斉彬**「この男、言葉に偽りなきこと、天晴れじゃ!」と、斉彬が万次郎を讃えた。
Sir***たちまち船内で祝の酒肴が披かれたようです。
Sir***席上、臣下の一人が”殿、桜島のこの帆船を祝っているようです”
と口走った。
斉彬**万次郎、あの煙を吐く桜島はいかほどの高さかわかるか?
万次郎**六分儀があれば測れますが。測りましょうか。
Sir***ここで万次郎がニコリと笑うと棟梁は懐から包みを取り出し、恭しく差し出した。「これをお使いくだされ」万次郎が棟梁に頼んでおいた六分儀だった。
万次郎**走った距離と桜島の視線の変化を六分儀で測りましたところおよそ610丈ほどかと思われます。
斉彬**610丈(約1100m)か、今まで分るものは誰もおらなかった。
重ね重ねあっぱれじゃ。
―――万次郎の手元にアメリカから持ち帰った数学書があった。国土地理院の測定では1117mが公式の高さである―――
Sir***万次郎は斉彬の問いを予想して六分儀を棟梁に頼んでいたんだ。
・・・・母ちゃん、万次郎は思ったね、この喜びは、みんは母ちゃんのだよ。
MrO**万次郎とて面目躍如でした。斉彬公はたたみ掛けるように “どうだ、この地に留まりわしに仕えてはくれぬか”とボールを投げましたが、しかし万次郎には是が非でもなすべき望みがありました。
Sir***“是が非でも”とは重い言葉だが、それは何かね。
MrO**“もったいないお言葉ですが、国元には老いた母親がおりますので、元気な姿を一目見せてからに致しとうございます”これが万次郎の答えだった。
Sir***万次郎のこの言葉はどうとるべきなのかね。心底から斉彬公に仕えようと思っていたのか、それとも・・・・・・。
MrO**それとも、何ですか?
Sir***婉曲に断ったのか、どちらだろうね。
MrO**私は万次郎は心底仕えようと考えていたと思いたいですね。
Sir***斉彬公はどうだろうね。
MrO**斉彬公ほどの人、言葉の機微を感じ取らぬはずはない。胸中に去来するものはあったろう。それでも、万次郎の言葉のニュアンスを容認する度量を持っていた──そう信じたいです。それは斉彬公の次の言葉があるからです。
Sir***その言葉とは?
MrO**不可抗力でも海外に出て帰国すれば長崎奉行の厳しい取り調べがある、「そこでだ万次郎、しかと聞け、帰国の理由を質されても “母恋しさで帰国したの一念”を貫き通せ。間違っても国のため開国のためなどと申してはならぬぞ」と諭したのです。斉彬公は薩摩藩に仕えてくれるものと信じていた、いや信じようとしていた。
Sir***それで結局はどうなったのかね。
MrO**結果から見れば2人の思いは実りませんでした。
Sir***そりゃそうだろうな。土佐に帰れば土佐藩に仕える身になる。万次郎の一存で斉彬公のもとに仕えることは出来ないだろう。それは土佐藩が承知しないだろう。
MrO**型通りの薩摩藩の取り調べも済んで、万次郎がいよいよ長崎奉行所へ送られることになりました。
Sir***万次郎の命の次に大切にした肝心の書籍類はどうなったのだろう。
MrO**油脂に包んで持ち帰った書籍類その他はすべてアドベンチャー号に積み込まれ3人と一緒に長崎入りを果たしています。
出発に際して長崎奉行の牧志摩守宛に斉彬公の署名入りで「送り状」が届けられまた。
Sir***斉彬公の署名入りかね。斉彬公の思い入れが分かるね。
⋆⋆⋆⋆⋆島津斉彬の「送り状」 ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**「送り状」にはこう記してありました。
「外国船で送られてきたのであれば打ち払うところであったが、3人は自らの力で自ら調達した船で帰国した。当藩で十分詮議の結果宗教上の疑義は皆無であった。万次郎が儀は利発にして覇気あり将来必ずやお国のために役立つ人材であるがゆえに決して粗末に取り扱われぬように」と。
Sir***斉彬公はそれとなく万次郎を擁護していたね。万次郎を手放したくなかったに違いない。
MrO**長崎奉行所の取り調べを万次郎がうまく躱してくれればいいのですが。
Sir***斉彬公は万次郎のこの先に不安がよぎったのかもしれんな。万次郎は%%%素直過ぎるからね。わしとても心配じゃ。
MrO**Sirは万次郎と血縁ですか?
Sir***血縁ではないけど、AIとて斉彬公とおなじ気持ちで見ておったよ。
MrO**そうですか。実は、万次郎の将来を心配していた人は、他にもいたんです。
Sir***わしと斉彬公のほかにも?。誰かねそれは。
MrO**西郷吉之助──のちの西郷隆盛(注5)です。
Sir***西郷吉之助って、西南戦争で自決した隆盛のことかね。
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎と吉之助の2人の生年月日 ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**いやぁ、Sir、これは驚きました。年表を眺めていて、思わず声が出ましたよ。万次郎は1827年1月27日生まれ、吉之助──のちの西郷隆盛──は1828年1月23日生まれ。わずか1歳違いでした。
同じ年同士の近親感から親しく言葉を交わしたとしても不思議ではありません。表にするとこのようになるんです。
万次郎1827年1月24歳
西郷隆盛1828年1月23歳
Sir*** ほぉ……!見事一致だねそれは、接触していた可能性が強いんじゃないかね。
MrO** 私は心臓が!ドキドキしてきましたよ。もし同席していたら……。
Sir*** なるほど、歴史の空白に息吹を吹き込む瞬間だね。
MrO**幼名小吉もしくは吉之助ですが藩主斉彬公が万次郎を御下問中はその場に若い側近候補を同席させるのは自然です。彼はまだ下級武士でしたが、若い頃から斉彬公の信頼を得ていて、御下問の場などにも陪席していたかもしれません。きっと斉彬公は、若い吉之助にも万次郎とのやりとりを間近で聞かせていたでしょう。
Sir***ほう、想像力たくましいじゃないか。それで斉彬公やわしと同じように吉之助も万次郎の将来を心配したというわけだ
MrO**おそらく万次郎を見送る人たちの中に吉之助の姿があったでしょう。
万次郎も竹矢来の内側から吉之助の姿を認めたに違いありません。この2人将来、陰に陽に影響しあう存在になりました。
Sir***運命の女神はここにもいたんだねぇ。この2人再会はしたのかい。
MrO**・・・・・・・。
Sir***おや、黙ったね。その沈黙は、何か思うところがあるのかい?
MrO**・・・・・おそらくはこれっきりだったと思います。でも可能性はゼロではありませんでした。
Sir***あるとすればどんな時かね。
⋆⋆⋆⋆⋆勝海舟と西郷隆盛の会談 ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**1868年、江戸城無血開城に際して、江戸城内で勝海舟(注6)と西郷隆盛が会談しました。そのとき、襖の陰に、もし万次郎が控えていたとしても──それは許される想像だと思います。おそらく会談が決裂の雰囲気になったら隆盛に斉彬公の言葉を思い出させる進言をしたでしょう。
Sir***それは想像に過ぎはしないかね。
MrO**ええ、想像です。司馬遼太郎(注7)なら小説の中で西郷隆盛と万次郎を逢わせていたでしょうね。遼太郎は歴史に抵触ない範囲で想像力を駆使していました。
Sir***いっそ君も、放談で彼らを会わせてやったらどうかね。
MrO**私は司馬遼太郎ではありませんから。
Sir***そうかい。
MrO**万次郎一行はこの送り状を持って長崎へ出発した。万次郎の頼りは斉彬公の「送り状」“万次郎が儀は利発にして覇気あり将来必ずやお国のために役立つ人材であるがゆえに決して粗末に取り扱われぬように” の一文だった。
Sir***長崎奉行が斉彬公のように出来た人であればいいがね。
MrO**何しろ幕府直轄の奉行所だからガキガキの堅物かも知れませんよ。
Sir***次は奉行所か。さて、どんな尋問が待っているやら。心配だ。
―――1851年9月18日薩摩藩出発10月23日。長崎着10月23日。万次郎24才だった。
MrO**Sir、ここで一句出来たました。
万次郎 斉彬の弁護紙連れて 長崎へ O
次はSirの番です。長崎のレポートをお願いします。
⋆⋆⋆⋆⋆(注) ⋆⋆⋆⋆⋆
(注1)島津斉彬:1809年4月28日-1858年8月24日 江戸時代後期から幕末の大名。薩摩藩第11代藩主。斉彬の養女・天璋院は江戸幕府第13代将軍・徳川家定の御台所。薩摩藩による富国強兵や殖産興業に着手し国政改革にも貢献した幕末の名君である。
(注2)松平春嶽:1828年10月10日-1890年6月2日 江戸時代末期(幕末)から明治時代前期にかけての大名、政治家、華族。越前国福井藩16代藩主
(注3)伊達宗城:1818年9月1日-1892年12月20日 江戸時代後期の大名、明治初期の政治家、華族。江戸期には伊予国宇和島藩8代藩主。
(注4)山内豊信(容堂):1827年11月27- 1872年7月26日 幕末の外様大名、明治初期の華族。土佐藩15代藩主。
(注5)西郷隆盛:1828年1月23日-1877年9月24日 幕末から明治初期の日本の政治家、軍人。
(注6)勝海舟:1823年3月12日-899年1月19日 日本の武士(幕臣)、政治家。江戸幕府陸軍最後の陸軍総裁、明治政府の初代海軍卿を務めた。
(注7)司馬遼太郎:1923年 8月7日 -1996年 2月12日、 日本の小説家 、 ノンフィクション作家 、 評論家。 日本芸術院 会員、 文化功労者 、 文化勲章 受章者。
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予告第15話 :~帰ってきた万次郎(その5)~
⋆⋆⋆⋆⋆長崎奉行所の万次郎(Sirのレポート) ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆書籍を長崎で没収された ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆「アドベンチャー号」のその後 ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆土佐藩からの物々しい迎え ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆厳重警護のなか万次郎たち土佐へ ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆吉田東洋による取調べ ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎母と再会 ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆涙、涙、涙 の感激⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎武士になる ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆ペリー艦隊来航まであと半年 ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎の年譜(後編) ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**万次郎は斉彬公の「送り状」“必ずやお国のために役立つ人材であるがゆえに決して粗末に取り扱われぬように” の弁護紙を伴って長崎へ
Sir***そしていよいよ万次郎母との面会だ。
MrO**泣くのは誰か、母ちゃんか、万次郎か、兄弟か。もらい泣きありですよ。
Sir***楽しみだ。
〈第15話へつづく〉
放談:第14話 ~帰ってきた万次郎(その4)~
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