お嬢様 いろは坂のバトル決着と裁定。
悠翔の口元が、ほんの僅かに歪んだ。
その視線は、アルテミスではなくルナゴスペルの三人に向けられている。
美奈子が眉をひそめる。
「……見られてる。いや、狙われてる」
千鶴は肩をすくめ、冗談めかして返そうとするが、声が震えていた。
「気のせい……じゃない、ね。あの目……完全に標的にされてる」
ひなたが落ち葉を強く踏みしめ、仲間をかばうように一歩前に出る。
「なら、受けて立つだけだよ。簡単に崩される私たちじゃない!」
悠翔は、そんな三人の反応を楽しむかのように、指先でヘルメットのバイザーを軽く弾いた。
空気が一気に張り詰める。
挑発でも宣言でもない。ただ「視線」と「仕草」だけで、ルナゴスペルを最初の獲物として狙ったことを、誰もが悟った。
悠翔の冷たい視線に射抜かれ、ルナゴスペルの三人は思わず呼吸を合わせた。
その沈黙を破ったのは、雅の低い声だった。
「……狙う相手を間違えたわね」
アルテミスの総長は一歩前に出る。
漆黒の林道に、凛とした気配が広がった。
彼女の背後で梓がタブレットを軽く傾け、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「計算づくの揺さぶり? 残念、私たちの範囲に入った時点でデータは丸裸よ」
その冷静な言葉に続き、ルナヴァイオレットが割って入る。
いずみがわざとらしく溜め息をつき、肩を揺らして笑う。
「ちょっとちょっと。おネエ様たちの可愛い後輩にちょっかい出すなんて、悪趣味じゃなくって?」
しおんがひらりと手を振り、挑発的な視線を返す。
「狩りを仕掛けるつもりなら、まずは私たちを通してからにして?」
悠翔の目が細められる。
無言の圧力は変わらない。だが、三チームが重なることで、その圧力は逆に押し返され始めていた。
ルナゴスペルを叩くはずの舞台が、アルテミスとルナヴァイオレットの介入によって一瞬で揺らぎ、計算していた均衡が崩れはじめる。
「……チッ、やっぱり出てきやがったか。アルテミス……」
彼の視線は真っ直ぐに、仲間の後ろから前へ出た一人の少女へと突き刺さる。
艶やかな黒髪を結い上げ、冷静に全体を見渡す瞳。悠翔にとっては、かつて交わした一言が今なお胸の奥に棘のように刺さり続ける相手。
「彩」
口にした瞬間、周囲の空気がぴんと張り詰める。
彼は自分でも驚くほど穏やかな声で、だが一切の逃げ場を与えぬ眼差しで言い放った。
「余計な茶々を入れる前に……俺と勝負しろ。お前と一対一でな」
挑発でも虚勢でもない。そこには確かに、旧知ゆえの執念と決着への渇望が燃えていた。
アルテミスの仲間たちが息を呑み、ルナゴスペルの美奈子が険しい顔をする中で彩はただ、ゆるやかにまぶたを閉じ、静かに息を整えていた。
「……いいわ。悠翔。あなたが望むなら、受けて立つ」
その返答は、戦場の空気を一変させるほど澄みきった響きを持っていた。
「ただし一つ条件がある」
悠翔の眉がわずかに動く。
彩は一歩、悠翔に近づいた。
「もし、私に勝てたなら……アルテミスもルナゴスペルもルナヴァイオレットも、あなたの言葉を一度は聞こう。けれど」
「……悠翔、《紅の監視者》を背負っているあなたが、この勝負に何を賭けるつもりなの?」
沈黙ののち、悠翔は喉で笑った。
「相変わらず、鋭いな。……組織のことじゃなく、俺自身を問うか」
仲間たちが息を呑む中、悠翔の声は静かに続いた。
「ならこうだ。俺が負けたら俺は《紅の監視者》を表舞台から消す」
その言葉には、虚勢でも威嚇でもない、確かな覚悟が滲んでいた。
彩の胸がきしむ。
(……それは、あなた自身の誇りを捨てることになる)
しかし彼女は唇を噛みしめ、迷いを押し殺す。
「わかった。あなたが賭けるのは“自分の居場所”その対価を、私が受け取る」
悠翔は小さく頷き、マシンのスロットルに指を添えた。
「そして俺が勝ったら彩、お前には一つ答えてもらう。なぜあの頃、俺の前から姿を消したのかを」
紅葉の林道に、誰も口を挟めない緊張が満ちた。
霧に覆われたいろは坂のカーブ。落ち葉が舞い上がる中、二台のバイクが静かに向かい合う。
彩はヘルメットを締め直し、クラッチを握る手に力を込める。
心の奥で幼い日の記憶がちらつく。別荘の庭で出会ったあの少年、悠翔。
だが今は、敵であり、同時に賭けの相手だ。
悠翔もヘルメット越しに彩を見据え、微かに笑った。
「覚悟はいいか、彩」
「ええ。あなただって、覚悟はしているでしょう?」
スロットルを回す音が低く唸り、谷間に響く。
互いの息づかいが、静かな林道に緊張を生む。
「……ここでどう出る?」彩の心臓は高鳴る。悠翔の微かな視線の揺れ、ハンドルのわずかな動き、すべてが挑発でも駆け引きでもある。速度だけではない、意志のぶつかり合いだ。
悠翔の目の奥に、かすかな迷いが見えた。
”彩!” 幼い頃、別荘の庭で出会ったあの日から、ずっと心に刻まれていた。
笑い声、無邪気な仕草、無防備な笑顔それらは悠翔の胸を締めつけ、彼の心に静かな誓いを植え付けていた。
「……彩、俺は……」
言葉は出ない。ヘルメット越しに、彩の意志を読み取るしかない。幼い頃の記憶と、今の彩の強さが重なる瞬間、悠翔の心は揺れる。
一度は暴走族の事故で再起不能になった過去が、彼の体と心を抑え込んでいた。だが彩の存在が、再び挑戦する理由となる。
最終コーナー。彩は悠翔の微妙な膨らみを読み取り、瞬時にラインを調整する。
タイヤが落ち葉をかすめる寸前、彩が先に前へ。
しかし悠翔は、最後の一瞬でスロットルを緩める。
速度で勝つことよりも、彩を傷つけず、彼女に意志を示すことを選んだのだ。
ゴールラインを越えた彩の心臓は早鐘のように打つ。
「……勝った」
悠翔はヘルメット越しに、彩を見つめる。目の奥には、幼い頃から変わらぬ想いと、今この瞬間にしかできない決断の余韻がある。
(俺の負けは、お前のためだ。俺の気持ちは、これで伝わる……)
谷間に落ちる静寂。風が落ち葉を揺らす。
勝敗は決したが、悠翔の想いは、ただの過去の思い出ではなく、今も彩の心に確かに届いた。
(”あの頃”まだ私は幼すぎて、人の気持ちを受け止めるだけの余裕がなかったの。ごめんね。悠翔!)
林道に漂う緊張が、やがて穏やかに溶ける。勝負の余韻は、二人の心に深い理解と絆を残していた。
彩の勝利を確認した悠翔は、ヘルメット越しに深く息をつく。
「……くそ、これで終わりか......」
彼の声には、敗北を認める重みと、組織への責任感が滲む。しかし同時に人としてギリギリの所で踏みとどまった気もする。
悠翔はブレーキをかけ、バイクを停めた。そのまま視線を仲間たちに向ける。
「《紅の監視者》……これ以上、続ける意味はない。俺たちは解散.......
その言葉に、林道の空気が一瞬凍った。
しかし、後方から雅の落ち着いた声が響く。
「ちょっと待ちなさい、悠翔」
ヘルメットのシールド越しに、彩も梓も、美奈子も振り向く。雅はバイクを静かに止め、全員を見渡した。
「走るのは、誰にだって自由よ。人の自由を奪わない限り、走ること自体を責められる筋合いはない!」
悠翔は一瞬、言葉に詰まる。
「……?」
雅は微笑む。
「だから、《紅の監視者》の解散なんて必要ない。あなたたちは腕を試したかっただけでしょう? なら、それは自由な行為として尊重するわ」
林道の霧がゆっくりと揺れ、緊張の糸が解ける。
悠翔はヘルメットを下げ、わずかに息を吐いた。
「……雅、あんたは……」
「ただ、正しいことを言っただけですわ」
彩は隣で静かに微笑む。悠翔の目には、過去の憤怒と現在の想いが、少しずつ溶けていくのが見えた。
「だって、あれだけのバイクテクニック、昨日今日で身に付くはずないですから。みんな自由に走りたい。だからバイクに乗っているのでしょ?」
「……分かった、自由にやらせてもらう」
悠翔はヘルメットを下げ、アルテミスに一礼する。その姿勢に、彩の胸はわずかに熱くなる。
日光には木枯らしが吹きつけていたが、ライダー達には温かな連帯の火が静かに灯っていた。




