『~江戸のお姫様大活躍~3 江戸患い』
小石川養生所の朝。入口にはすでに人の列ができ、足を引きずる者や、担がれてきた老人の姿が見える。
「歩けぬ……膝が力を失うのだ……」
「足がむくんで、重うて仕方がねぇ……」
列の中から、若い職人が倒れ込んだ。脚は腫れ、息も荒い。
エマはすぐに駆け寄り、職人の足を確かめる。
「これは江戸患い」
当時江戸では、副食は粗末でかわりに大量の白米を摂取していたため”脚気”が流行していた。ヨーロッパでは、パンや野菜スープ、豆などを摂取していた為、ほとんど患うことがなかった。
また日本の地方でも、その貧しさから農民は雑穀米のかゆが主流であった為、その食生活が幸いにして”脚気”はほとんど患うことがなかった。
しかし、貧しさから一旗揚げようと江戸に流入し、生活が安定するとこの病気にかかり、そのことから”不治の病 江戸患い”と呼ばれていた。
エマにしても、自国では発症事例が極端に少なく医学書を読んでも症例はほとんど皆無であった。
「正直私にも”江戸患い”の治療法はわかりません。ただ病気である限り必ず原因もあるはずです」
「エマ殿、一人で考えるより、ここは”寄らば文殊の知恵”と申す。皆で考えようぞ」
養生所大広間
「こんな症例は、原因を探るが肝要。まずなぜ江戸なのか? 病人が罹る前に何があったか?なぜ農村や地方には少ないのか?なんでもいい、どんな些細なことでも遠慮なく述べて書き出していこうぞ」
雅は、無意識ではあるが現代のブレーンストーミングの方法をとった。
するといくつかの違いが出て来た。
・病人は貧困層より、中産階級に多いこと。大商人や大名には病気は、
ほぼない。また西洋では、症例が異常に少ない
・外国の食事は、主食がパン、豆、芋類、肉類である。
・貧困層の主食は雑穀米。
・大商人や大名は、十分な副食がつく。
・江戸庶民の主食は白米で副食はほとんどない。
・玄米を食してときには、発症例が稀で白米の普及とともに病気が増えた。
エマは、「米が、いや白米が原因では?そして糠は大切な栄養素。これの不足。そしてその栄養素は、麦 豆 芋等にもある」
「結論は出た。だが問題は、人々にどう理解させるかだな」
難しい顔をして雅は唸った。
その時、養生所に一人の学者風の男が訪れた。
儒服に身を包み、手に数本の奇妙な芋を抱えている。
「拙者、青木昆陽と申す。幕府より命を受け、薩摩芋の栽培を試みております。
この芋は痩せ地でも育ち、飢饉を救う“救荒作物”と聞きますれば……御養生所に寄贈したく参りました」
「おお! これぞ芋か! からくりで蒸す釜を造れば、大勢に振る舞えますぞ!」
自信有り気に宗は言った。
後日、小石川の広場で「八華見立市」と共に、八華と昆陽は大鍋で蒸した薩摩芋を人々に配った。
庶民たちは半信半疑で口に運ぶ。
「なんと……甘い! こんなものが地中にできるのか」
町人たちは口々に感想を述べる。
「うまい! 腹いっぱいになる!」
子供たちは、満足そうに笑う。
昆陽は声を張り上げる。
「白米ばかりでは命を損なうこともある! だが、この芋は貧しき者の味方、病を遠ざける良薬なのだ!」
雅は庶民を見渡し、静かに続けた。
「八華は申す白米だけがご馳走ではない。麦も豆も芋も、人の命を守る宝である。白米を食べるなと言うつもりはない。白米をたくときに、この芋をこのように混ぜて炊くと、さらにうまいぞ。皆で食べ、皆で生きよ!」
人々はどよめき、やがて「八華様のおかげで病が減るかもしれぬ」との噂が広がっていった。
こうして、八華は「脚気は食習慣の偏りによる」という経験的な知見を示し、青木昆陽の薩摩芋と結びつけることで、江戸庶民に食意識の変革を促したのであった。
御殿奥の広間。
夜更け、雅は父・吉宗の前に進み出た。燭台の炎が揺れ、二人の影を長く伸ばす。
「父上、申し上げます。脚気に苦しむ民の多くは、白米を常食としている者たちにございます。 麦や芋を加えねば、命を落とす者が後を絶ちませぬ」
「何を申すか。米こそ国の礎、将軍家の威光を支える宝よ。を軽んじるは、政道を揺るがすに等しい」
「米を否定するのではありませぬ。ただ、“米こそ唯一の糧”と囚われるあまり、病が広がっておりまする。父上、どうか麦や芋や豆を……民の命を守る食を推し広めることをお許しくださいませ」
「黙れ、雅! 将軍の姫ともあろう者が、米を否定するか!
米なくして年貢は立たず、財も兵も養えぬのだ!」
「では申し上げます。
米が富を生むならば、芋と麦は命を生むのです!
財政のみを立てても、民が倒れれば国は滅びます!
それに......財政の立て直しは他にも手があると存じます!」
「……ならば、試してみよ。ただし、成果を出せねば八華は解散じゃ」
雅は深く頭を垂れる。
「承知いたしました。必ず、民の声を父上に届けてみせます」
小石川養生所で麦飯や芋を配り始めた八華。庶民は次第に「米よりも命が大事」と考え始め、白米の消費は減少しつつあった。
そしてそれを快く思わぬ者たちがいた。
江戸米会所を牛耳る豪商・大黒屋、米問屋たちである。
大黒屋
「八華め……米の権威を傷つけおった。麦や芋などが広まれば、米相場が崩れる。将軍家が黙っていても、このままでは商いが立ち行かぬ。
ならば……八華を潰すまでよ」
翌朝、小石川養生所の前に大八車が突如置かれ、入口が塞がれていた。
「米こそ正しき糧、麦飯など下賤の食い物!」と書かれた張り紙が貼られている。
庶民がざわめく中、茜が憤然と声を上げた。
「奉行所の名をもって命ず! この妨害は許されぬ!」
梓は屋根の上に人影を見つけ、素早く飛び上がって取り押さえた。
「やはり米問屋の回し者か……」
さらに市中には流言が流れた。
「麦飯は貧乏人の食い物だ」「薩摩芋は下肥と同じ臭いがすると病を呼ぶ」
庶民は再び不安に揺らぐ。
彩は帳簿を閉じながら不安顔で問題点を指摘する。
「彼らは噂で人心を操ろうとしている。資金の妨害より厄介です」
「ならば、我らは実際に“治った患者”を見せるしかない!」
エマは拳を握りしめ、それでも人の命と向き合う気概を見せる。
養生所の庭に舞台を設け、脚気から回復した町人や子供たちを登壇させる。
職人は、元気になった顔を皆にみせながら感謝を述べる
「八華様に麦飯を教わり、三月で脚の腫れが引いた!」
母親は、仏に助けられたのように振舞う。
「この子も、芋粥で元気を取り戻しました!」
群衆は沸き立ち、噂を打ち消す声が広がる。
麗はすかさず米問屋の名を挙げた木札を掲げ、声を響かせた。
「これら流言は、米相場を操ろうとする一部の強欲な商人の仕業にございます!八華は民の命を救う。誰にも妨げさせませぬ!」
その報告はついに将軍・吉宗の耳に届いた。
吉宗は米商人を呼び出し、低く言い放つ。
「民を惑わす奸商どもめ。米は国の柱であるが、それを盾に民を苦しめるは国賊に等しい。以後、八華の活動を妨げし者は、打ち首獄門に処す!」
商人たちは青ざめ、八華への妨害は一旦収束した。
その夜。雅は父の背を見ながら呟く。
「父上もまた、米の将軍でありながら……民の声を捨てられぬお方……」
吉宗は黙したまま、娘の横顔を一瞥した。
だがその瞳には、わずかな誇りが宿っていた。
しかし、白米商人の背後には大きな黒幕が潜んでいた。




