お嬢様 『月蝕のあと、風は静かに吹く』
鷺宮 蓮は、雅との会談を終えた夜、ひとりバイクを走らせていた。 港湾道路、ベイブリッジ、山手の急坂—— アクセルを踏みながら、彼は静かに思考を巡らせる。
「……なるほど。動乱の主役は、“彼女たち”だったか」
怒りよりも先に湧いたのは、感心。 そして、ほんの少しの興味だった。
数日後、不如帰のSNSと情報網に、短い声明が流れた。
「不如帰は、今後いかなる暴走抗争にも加担しない。
走り屋である以上、走りを持って威を示す」
それは、内外に向けた明確な宣言だった。 不如帰は、暴力の連鎖から一歩距離を置いたのだ。
本部では、幹部たちが静かに語り合っていた。
「……あの女、ただの総長じゃねぇな。 まるで、国を動かす目をしてた。」
「不如帰は不如帰の流儀で動く。 だが、“月”から目は離せねぇ」
蓮は、十分に“踊って”やった。 そして、雅にとってはその数日こそが、先手を打つための貴重な時間だった。
一方、狂想会の敬治は、ようやく全てを理解し始めていた。
最初は、不如帰が裏で動いていると誤認していた。 だが、日々増す混乱—— 消えていく幹部、連携の崩れたフロント企業、 ツーリングの妨害、夜の縄張り荒らし—— すべてが、女たちによる仕掛けだった。
不如帰じゃねぇ……あのガキども……アルテミス……!
点と点が、線になった瞬間。 敬治は激怒した。だが、怒りよりも先に支配したのは“恐怖”だった。
彼の一手先を、相手は二手三手で潰していた。 粛清した中には、組織の要だった幹部も含まれていた。 自らの手で、組織の柱を折っていたのだ。
報復の準備を始めようとしたその時、幹部が慌てて部屋に飛び込んできた。
「総隊長……た、大変です。フロント企業に国税が入りました!」
「それと……」
「まだ何かあるのか?」
「売人たちが、次々と警察に挙げられてます……」
敬治は、最後の手札にすがった。 スマホを取り出し、父親に電話をかける。
「親父……すまねぇ。すぐ動いてくれ……」
だが、返ってきたのは怒鳴り声だった。
「敬治! 貴様何をやった! わしの会社への融資は全部止まった! 党幹事長からは、次の選挙は降りろと通達が来た! ゼネコンからも、指定業者を外すと通知が来た! お前は何をした! 誰に喧嘩を売ったんだ! わしは、わしは……もう終わりだ……!」
敬治は、ネットバンキングにアクセスしようとする。 だが、画面には冷たい文字が浮かんでいた。
【口座は当局の指示により凍結されています】
……この口座は、俺しか知らないはずなのに……
タバコに火をつけ、一服する。 だが、煙の向こうに見えたのは、現実の崩壊だった。
……あいつら……若い女の皮を被った、国家権力そのものかよ……
資金は尽き、後ろ盾も消えた。 暴力だけでは、もう何も守れない。
最後の望みとして、美奈子に電話をかける。
「お前は……俺を潰すつもりだったのか?」
美奈子の声は、冷たく、静かだった。
「違うよ、敬治。 潰れたのは、自分で崩れただけ。 あんたが見下した女たちが、一番怖いってこと—— 教えてあげただけだよ」
その瞬間、敬治は悟った。 この戦争に、勝ち目など最初からなかった。 すべては、“彼女たちが主導する敗北という舞台”だったのだ。
国税は彼の個人資産も凍結。 関係企業は破綻。 そして、県警による逮捕状。
あかねの祖父——警察庁長官は、幹部に一言だけ告げた。
「国家に牙を剥いた小童の末路は、法律が裁くだけです」
敬治は、抵抗せず、静かに連行された。
女豹疾走のアジト
敬治が連行された朝、カヲルは片隅で震えていた。 古参メンバーたちは、彼女に目もくれず、荷物をまとめて去っていく。
「なんで……なんで私が悪いみたいになってんのよ……!」
叫んでも、誰も振り返らない。 敬治が倒れたことで、チームは崩壊した。 誰もカヲルを守ろうとはしなかった。
むしろ、すべてのきっかけを作った張本人として、密かに恨まれていた。
かつて得た“地位”も“権力”も、今や空虚な肩書きだった。
夜の高架下。 女豹疾走の残党が、最後の走りに出ると聞き、 カヲルは身を潜めてその出発を見送っていた。
美奈子のニンジャZX-4RRが、咆哮を上げる。 後輩たちが続き、ミッドナイトブルーの特攻服が銀色にきらめく。
そして、かつての古参メンバーたちが、女豹疾走の看板を背負って加わる。
最前列のヘルメットの女が、振り返らずに手を挙げた。
——美奈子だった。 背筋の伸びた、美しい背中だった。
バイクの列は、夜を切り裂く風のように走り去っていく。
誰も、カヲルの存在に気づかなかった。 いや、気づいていても、無視したのだろう。
ひとり残されたカヲルは、石のように立ち尽くした。
「……何よ……あんなの、ただの女じゃない……!」
そう吐き捨てたが、声は震えていた。
その後、カヲルは街からも記憶からも消えた。 レディースの世界でも“疫病神”として誰も近づかず、 敬治の裁判にも証言者としてすら呼ばれなかった。
ただ、時折—— 高架下の柱に寄りかかる女の目撃情報だけが、風の噂のように流れた。
黒く染め直された髪。 無地のジャケット。 誰も名前を呼ばないその女は、 ただ黙って、遠くを走り去る光の尾を、いつまでも見送っていた。
湾岸の古い駐車場。まだ誰もいない、朝5時。
薄明かりの中、潮風が静かに吹き抜ける。
そこに現れたのは、不如帰の総長・鷺宮 蓮と、アルテミス総長・三条 雅。
蓮は無言のまま自販機に向かい、缶コーヒーを2本買う。
ひとつを雅に差し出すと、彼女は黙ってそれを受け取った。
「……“走り”でケリをつけたってことにしといて、いいか?」
「ええ。私たちの名前は、どこにも残っておりませんもの」
二人の間に、しばし沈黙が流れる。 風が吹き、夜の残り香がふっと通り過ぎる。
言葉は少ない。 だが、互いの“覚悟”と“作法”が、確かに交差していた。
「一つだけ、聞かせろ」
蓮が、缶を傾けながら言う。
「あの《月蝕》……お前たちの切り札だったんだな?」
雅は、わずかに微笑んだ。
「ええ。けれど……もし失敗していたら、次の手もありましたわ。 でも、やめておきます。いい女は、少しミステリアルなほうが—— 殿方には、好まれると聞きましたもの」
その言葉に、蓮は思わず吹き出しそうになり、それを堪えて、わずかに口元を緩めた。
「……気に入らねぇけど、悪くねぇな」
彼はバイクに跨り、セルを回す。 エンジンが目を覚まし、低く唸る。
「そのコーヒーは、横浜掃除の御駄賃だ。……じゃあな」
そう言い残し、蓮は朝靄の中へと消えていった。 甲高い排気音だけが、しばらく空に残っていた。
雅は、手にした缶を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……気に入らないけど、悪くないですわ」
彼女の声は、誰にも届かないほど小さく、 けれど確かに、夜明けの空に溶けていった。
そして、月の時代は、静かに、確かに—— 新たな光を連れて、昇り始めていた。
これにて横浜狂想会編は終わります。
次から新しい話へと変わります。




