お所様「逃げ場のないライン」
三チームがニューマシンのセッティングに悩んでいた時、それより大きな重圧に悩んでいた者がいた――涼子である。
涼子は、多美の気持ちが痛いほど分かっていた。
自分が、同じ立場でも同じだろ。ルナ・ゴスペルの仲間達と走っていた時に、もし自分が接触をして、奈美子に怪我をさせたら、しばらくは、一緒に走れない。
三島は、小学生――しかも内向的性格の多美に1日で克服させろと言っている。これは、土台からして完全に不合理なオーダーである。
精神的に脆い小学生に負わせていい試練ではない。レーサー同志が、距離を縮めて走行できる理由は、お互いのドライビイングテクニックを信頼してるからである。
それを信頼関係もない中で、事故直後に課す三島の課題は、”やめさせろ”と言ってるのと等しい。
言葉をかけるのは、簡単だ。だがそれをやれば、多美は間違いなく逃げ出すだろう。
思い余って、涼子は雅に相談した――回答は、「私が口を出すことはできない」
ただそれだけだった。
しかたなく、多美に無駄だと分かって多美に間接的な表現で聞いてみた。
「多美、なぜ一人で走るの?これレースの訓練だよ?」
その瞬間多美の顔が、怯えに変わる。――それが全ての答えだった。
昼食は、いつものように六人で食べた。涼子と多美の雰囲気がどこか違う。
最初に気付いたのは、沙耶香だった。食事後の休憩に行く前に、涼子に声をかける。
「なるほど......そんな訳があったのか」
そう言って沙耶香が頷く。
「だが、あながち三島が言ってることも間違いではない」
一緒にいた千秋が言う。
「千秋、あんたどこが間違いじゃないって言ってるの?」
憤慨して涼子が、怒りを爆発する。
三人は、美奈子と一緒にルナ・ゴスペルを作った古参メンバーであり、
特に絆が強い。だから遠慮もしない間柄である。
「まあ、落ち着けって。アタイが言いたいのは、乗り始めてすぐに事故を起こせば、それはこの先ずっと続く大きな記憶になるってことだ」
「だが、その記憶は、今克服すれば、些細な出来事になる。アタイらも、一番怖い記憶は、小さい時の記憶だろ?」
「それが、寝小便や、お化けを見た等、レースに関係しないのなら、今後のレースには関係しない。バイク事故なら大きく影響を与える」
千秋が淡々と答える。
「アンタ、本当に千秋?」
二人が驚いて聞き返した。
まるで、悠翔と話してるみたいに、知識を言語化してるのだ。
「な・なんだよ。アタイも目標が出来たから、アテナに頼んで勉強してるんだよ」
「目標?」
「もうアタイの事はいい。多美の事だろ?今は」
「ああ......そうだった。三島は、明日迄って無茶振りするし、多美も......怯える。もう八方塞がりの状態なんだ」
両手を広げ、お手上げ状態のポーズをして涼子が答える。
「八方塞がりか......三島がねぇ......ん?八方......三島......」
千秋が、何か閃く。
「一つだけ、それもアタイらだからやれる事がある。
大した準備もいらない。午後のジュニ練習時間にやろう」
「しかけは、こうだ!......ゴニョ......ゴニョ......んで......」
千秋が作戦を説明する。
「確かに、それは、やれる。いや私達だから出来る」
「あんた、完全に参謀じゃん」
午後のジュニアの練習が始まった。
多美のピットでは、涼子が世話をする。
「さあ、走りな。但し、姉ちゃんと一つだけ約束してほしい。
あんたがどんな、走りをしても、お姉ちゃんは受け入れる」
「でもな、レースは、走りをやめたら、そこで終わりだ。
だから、途中何があっても最後まで走り切ってピットに戻れ」
「それだけは、姉ちゃんと約束してくれるか?」
「はい」
すこしし躊躇いながらも少し多美は返事する。
「よし、走って来い」
涼子は、元気よく送りだした。
走り始めると、やはり多美は、遅れ初めてやがて、集団から遅れ始め半周遅れのポジションを走り始める。速度が遅いわけではない。
ピタリと半周遅れを維持する。
三週目に入ったときにそれが起こった。
ピットより、三台のマシンが飛び出す。
ものすごい勢いで、あっと言う間に多美に追いつく。
アウトから二台が多美を追い抜く。
その時に二台のポジションが変わる。一台が多美の前で走り、一台が、多美の左側を並走する。
慌てて多美はスピードを緩め後方に引こうとする。
「駄目だよ。多美私が後ろにいるから」
インカムから聞こえたのは、涼子の声だった。
前とアウト側、後ろと三台に囲まれる多美。
「どうして......」
切実な声を多美が出す。
「多美、約束したよね。姉ちゃんと。
どうしても抜け出したいなら、前か後ろか、外のお姉ちゃんを
跳ね飛ばすしかないよ」
「そんな.....」
多美に突き破るテクニックなんかあるはずがない。
この三人のフォーメーションは、皮肉にも三島の試練で戦ってきた成果だ。
プロでも簡単には、破れない。いや、接触覚悟なら強引に破れるかもしれない。しかし、接触を一番恐れているのは、多美自身だ。
かと言って、速度を落とせば一番大好きな涼子が事故に巻き込まれる。
多美の絶対速度を知り、その速度域で組んだフォーメーション。
三人は、そのままで何週でも走れる持久力もある。風が吹こうが、雨が降ってもだ。
そもそも三島の試練は、異常な条件とコースで行われた。
多美は、驚いた。お姉ちゃんたちの走りを見たのは、初めてだった。
普段は、ピットクルーをしてる人が、こんなにバイクが上手いとは考えてもいなかった。
「お姉ちゃんやめて。もうこれ以上、私を虐めないで!」
インカムで、必死に多美は頼む。
「甘えるな!多美。レースは、もっと厳しいことが一杯あるんだぞ」
インカムから聞こえる声は、いつもの、やさしいお姉ちゃんじゃないかった。
練習に送り出した時の声でもなかった。
初めて知った、叱咤の声だ。
多美が、少しでも後ろに引くと、『チュン』とタイヤの擦る音がする。
慌てて速度を上げる。
引くことも押すことも、アウトにも行けない。逃げ場はないし、そもそも涼子との約束がある。
もしここで涼子との約束を破れば、もう誰も助けてくれないだろう。
人の目を気にして生きてただけに、対人関係には、敏感だった。
寮の中でも三人は、かなりの力がある。以前食堂で、喧嘩していたお兄ちゃん達が、涼子お姉ちゃんが通ると、ピタリと喧嘩をやめて頭を下げた。
そんな人達から見捨てられると、自分の居場所がなくなるくらいは、想像に難くない。
最悪、あの地獄の家に戻される。その恐怖が、走ることをやめさせなかった。
家に戻される恐怖と人を巻き込む恐怖のせめぎ合い。
ふと、沙耶香は、思う。
(千秋の作戦、考えようによっては、児童虐待だぞ)
だが、インカムからから微かな声がする。
「......が.........が......ば.......ん......れ」
鼻水をすするような音に混じって、かすかに聞こえる声。
小さな音は、しだいに言葉に纏まっていく。
「がんばれ、がんばれ、」と。
(涼子お姉ちゃんが、泣いてる?なぜ......?)
一人の言葉は、二人の声に、二人の声は三人の声に纏まっていく。
そして、その声は、四人の声になる。
(四人?......誰?)




