お嬢様「誰の為にイブはある?」
アルテミス 梓 スキー姿
その子は、十二歳だった。
冬の朝はまだ暗く、北海道の空気は肺の奥まで冷たかった。
リンクの外で、彼女はスケート靴を抱えたまま立ち尽くしていた。
氷の上に立つはずの時間だった。
それでも彼女は、今日は滑らなかった。
運動神経が良く、フィギュアスケートでは何度か表彰されたこともある。
学校では、それなりに友達もいて、家に帰れば両親がいた。
少し前までは、ごく普通の家庭だった。
変わったのは、一度の事故からだ。
飲酒運転の車が、一方的に両親の車をはねた。
その日、両親は彼女の応援に向かう途中だった。
それ以来、彼女は氷の上に立っていない。
大好きだったフィギュアスケートも、やめた。
今、彼女の家族と呼べるのは、病気がちな祖父ひとりだけだ。
事故の賠償金は、気づけば生活費と治療費に消えていた。
六年生の一年間、彼女は学校に通えない日が増えた。
祖父の体調も理由だったが、欠席そのものが、いつしか居場所を奪っていった。
彼女の目は、涙さえも忘れているようだった。
ただ一人残った肉親の面倒を見る。
それだけが、彼女の中に残った、最後の選択だった。
病院の待合室は、いつも同じ匂いがした。
消毒液と、乾いた空気と、時間が止まったような静けさ。
彼女は祖父の名前が呼ばれるまで、壁際の椅子に座っていた。
膝の上には、古い封筒が一通置かれている。
帰宅すると、郵便受けに入っていたものだ。
差出人の名前はなく、住所だけが、丁寧な字で書かれていた。
白い封筒。
不釣り合いなほど上質な紙。
開ける気にはなれなかった。
祖父の診察が終わるまで、ただそこに置いていただけだ。
名前を呼ばれ、彼女は立ち上がる。
祖父の背中は、少し前よりも小さく見えた。
診察室から出てきた祖父は、いつもと同じように微笑んだ。
大丈夫だ、と言う顔だった。
彼女は何も聞かなかった。
聞く必要がないことだけは、もう分かっていた。
会計を済ませ、病院を出た。
その帰り道で、彼女は足を止めた。
夕方と夜の境目で、空の青がゆっくりと深くなっていく時間だった。
封筒を開いたのは、そのときだった。
中から出てきたのは、紙ではなかった。
正確には――紙でありながら、絵だった。
青い夜。
どこまでも澄んだ、現実よりも濃い青。
その空に、異様なほど大きな月が浮かんでいる。
白ではなく、淡い金色。
見上げるというより、吸い寄せられる月。
そして――その月へ向かって飛んでいく、八つの影。
箒に跨った、八人の魔女だった。
(きれい・・・)
彼女が、久しく忘れていた感情が沸き上がる。
彼女は、視線を外せなかった。
大きな月に向かって、螺旋を描くように進む八人の魔女。
気づけば、街はクリスマスシーズン。
クリスマスカード?祖父が、ケーキも買えない私に
せめてもと頼んだのか......
胸の奥で、何かが、微かに動いた。
――これは、ただの絵じゃない。
そう思った瞬間、絵の下に、小さな文字が浮かび上がる。
Moon Invitation
月のインビテーション。
説明は、それだけだった。
「おじいちゃん、これ?」
「ん?なんだべ?おお、めんこんい絵だ」
そこには、一言書かれていた。
――8人のうち、1人の魔女が、
12月24日の夜にお迎えに伺います。
十二月二十四日。
その行を、彼女はもう一度だけ読んだ。
声に出すことはしなかった。
クリスマスイブ。
街が浮き立つ日で、約束があり、贈り物があり、
そして――彼女には、何もない日だった。
ケーキは買えない。
祖父は、きっといつも通り早く寝る。
テレビでは、見慣れた特番が流れるだけ。
彼女は、封筒を閉じた。
驚きは、なかった。信じたわけでも、疑ったわけでもない。
ただ―― その日が来る
という事実だけが、静かに残った。
十二月二十四日の夜。
迎えに来る、と書いてある。
来なければ、それでいい。来たなら、そのとき考えればいい。
彼女は、そうやって物事を処理する癖が、いつの間にか身についていた。
封筒を、鞄にしまう。
祖父の歩幅に合わせて、また歩き出す。
空を見上げることは、しなかった。
月が出るかどうかは、今の彼女には、関係のないことだった。
けれど――
その日付だけは、胸の奥で、静かに動き続けていた。
夕食は、簡単なものだった。
温め直した煮物と、白いご飯。
祖父は、箸を動かすのが少し遅くなっていたが、それでも残さず食べていた。
「もうすぐ、クリスマスだな」
独り言のように言って、祖父は湯のみを持ち上げた。
彼女は、うなずくだけだった。
「……夜ってのは、不思議だべ」
祖父は、ふっと笑った。
「何も変わらんようで、変わるときは、一晩で変わっちまう」
彼女は、それ以上言葉を返さず、夕餉をすませた。
「雪っこが、一晩で景色を白くするようにな」
そう言って祖父は、布団にもぐりこんだ。
彼女は、箸を止めたまま、その言葉を胸の中でなぞった。
一晩で、変わる。
そんなことは..........。
でも、あの招待状は、祖父の悪戯?
でも、十二月二十四日は、サンタの日であって、魔女じゃない。
テレビでは、いつもの番組が流れている。
特別な音楽も、特別なニュースもない。
十二月二十四日――一年の普通の日。
祖父は、早めに布団に入った。
いつもより少し早いだけの、いつも通りの夜だった。
「先に寝るべ」
そもそもプレゼントは、期待してなかった。家に今いくらあるか?
限られた金銭で日々を生きている者にとっては、知らないはずがない。
余裕なんてなかった。
それでも、なけなしの金で、あのカードを買ってくれたのだろう。
ほんの数日間位、小さな夢を見るくらい神も許してくれるだろう。
台所を片付け、時計を見るとまだ、九時少し過ぎたところだった。
ちっぽけな夢もあと3時間で消える。もう十分だ。
明日から、また色のない日常に戻るだけ.......。
街のほうから、かすかに音がする。遠くで鳴る車の音。
どこかの家から漏れる笑い声。
彼女は、窓のカーテンを少しだけ開けた。
雪は降っていない。空は澄んでいて、雲もない。
月が、出ていた。大きいわけではない。
でもその月の周辺は、あのカードの色の空にどこか思いだされた。
時計の針が、少しずつ進む。
十時。
・・・・十時半。
もう十分だ。寝よう。そして朝がきたら日常に戻るそれだけだ。
その時――外から音がした。
一定の間隔で、軽く、規則正しい音。
彼女の鼓動が大きくなる。
夢なんかみてはいけない。頭では分かってるが、少し感情が上回る。
耳に神経が集まる。
玄関の方から、聞こえる規則正しい音。
足が体を運ぶ。
不用心でも心はすでに鍵を開けていた。
ドアを開く。
そこには、箒を持った八人の魔女――その一人が立っていた。




