お嬢様 戦い終わって
アルテミス あかね 新年弓通しイラスト
レースは、激しさを増していた。
前半を水面の戦いに例えるなら、後半は嵐の中だ。誰もが一つ上の順位のために、ギリギリのラインを奪い合う。
観客席も、外のモニター前も、刹那の攻防に我を忘れていく。まるで自分が走っているかのように、呼吸まで持っていかれる。
焼きそばを焼いていた店主でさえ、両手のコテを握りしめたまま手を止めた。
SNSでは現地のLIVEが乱立し、同時接続は開始時の四桁から、いつの間にか桁が三つ跳ね上がっている。
画面はスマホにもPCにも分裂して、深夜の欧州と早朝の米国まで飲み込んだ。
“仙台サーキットLIVE”で検索すれば、百を超える配信が引っかかる。ナンバーズ中心、ひいきのライダー中心、新人中心――視点が違うだけで、同じ熱が流れている。
観客の視線も変わった。最初はナンバーズを見るためだった。だが今は、その後ろで山を越えようとしている挑戦者たちに吸い寄せられている。
「くそっ……なんなんだよ、このレース。単なる客寄せのイベントじゃなかったのかよ」
公示の時に真っ先に噛みついたライダーが、思わず漏らした。
喉が渇く。体力も削れる。
それでも蓮は集中を切らさない。気を抜けば、後ろに飲まれる。
美奈子も同じだ。背後の圧が、数で迫ってくる。
(1台……いや、3台……来てる)
センターボードでは、二つの名前が静かに押し下げられていく。
それでも絶望だけは、そこにない。
二人はそれぞれ、前の一台だけを見つめ――ほかの世界を、視界の外に置いた。
ピットからは、全くペースアップの指示はきてない。アテナも悠翔も自分達のペースが、ギリギリのせめぎ合いをしてることが分かっていたのだ。
それなのに、順位は落ちている。
プロとアマの違いをまざまざと感じていた。
しかし観衆の見方は全く違っていた。そもそもこの位置にアマの2人がいる。国内トッププロに本気のレースで2人の遺物が混じっていること自体稀有な出来ごとだった。
一般の観衆は、判官びいきからこの2人に声援を送っていた。経験も実力も足りないのに、ひたむきに走るアマのレーサーに誰もが胸の奥を掴まれた。
そして、プロのピットや、LIVE配信を見ていたレース関係者からは、その走りに観測者としての視点で注目があつまっていた。自分達のチームに呼ぶかというスカウティングの目である。
最後に市中の走り屋からの視点である。これは、”妬み” ”憧れ” ”夢”と言う複雑な感情からの視点だった。だが、大半は、『自分達もあそこで走りたい』と言う”願望”に集約される。
それは自分達の身内からの代表が、大奮闘してることが、自分達の希望になりつつあったからの、応援でもあった。
そうとは知らず二人は、ひたむきに前だけを見て走っていた。彼らの胸にはプロとアマという認識こそ残っている。それでも今、その違いは走る理由にならない。
走りという本能――それだけが動機だった。いま相手にしているのは他者ではなく、自分の内側にある境界線。能力の限界と、諦めのあいだに引かれた細い帯だ。
勝ち負けは、自分の手で整理できる。だが後悔だけは抱えたくない。
ごまかしは、機会を与えてくれた彼女たちへの裏切りになるからだ。
だから二人は、ただ正直に路面と向き合う。
前の目であり、いまの自分であり続けるために。
二人の耳から、声援は消えていた。
後に残るのは、マシンの風切り音とエンジンの鼓動、そしてそれに寄り添う自分の呼吸と、胸の奥で打つ心臓の拍だけ。
ボードに並ぶ名前の位置も、観客の姿も消える。視界にあるのは、前を走る車体と、無機質なアスファルトのみだった。
この隔絶された世界では、時間さえ意味を失う。
それは一瞬のようであり、永久のようでもある。
確かなのは、自分の存在感。
走る喜び、レースとの一体感だけだった。
チェッカーフラッグが振られている。
二人はゴールをくぐった。
――終わった。
そう感じた刹那、二人は現実へ戻される。
それまで遮断されていた情報が、体の表面を一気に覆った。
美奈子が、コースを一周してピットに帰ってくる。
ヘルメットを脱ぎ、仲間たちを見た。
皆は、何も言わない。
ただ美奈子を見つめていた。
「どうしたの、みんな?」
その問いで、はじめて空気がほどける。
仲間たちが声をあげ、いっせいに抱きついてきた。
『お疲れ様』
「ああ……無事、戻れたよ」
美奈子は顔を離すと、センターボードに目をやる。
<21 MINAKO JP>
「そうか、21位か……」
その言葉を合図に、胸の堰が壊れた。
抑えつけられていた感情が、検討も順序もなく溢れ出す。悔しさか、嬉しさか、走り切った満足か――美奈子自身にも分からない。
ただ、涙だけがこぼれていた。
それは仲間たちの前で見せた、初めての涙だった。
一方、蓮もピットに戻っていた。
ヘルメットを脱いだ瞬間、悠翔が駆け寄る。
「おつかれ。どうだった?世界は見えたか?」
「いや、全然だ。世界はおろか、日本のてっぺんさえ見えなかった」
「だが――自分に足りないものは、おぼろげに分かった気がする」
「そうか。何かは、今は聞かないでおこう」
「ああ……結果は、あれだからな」
蓮が指さした先には、センターボード。
<20 REN JP>
「総長、何て言うかな?」
「たぶん『気に入らないけど、悪くない』じゃないか?」
「お前、その言葉どこで……」
向かい合った二人は、思わず噴き出した。
コントロールセンターでは、雅と梓が話していた。
「終わってみれば、予定調和でしたね」
「ええ、さすが師匠たち。誰も寄せ付けない圧倒」
「全く手を抜かないところが、師匠らしい」
「それで、今後はどうするの?」
梓が雅に問う。
「きっと師匠たちは、このレースの本当の意味をご存じだった。
それでも私たちの道化に付き合ってくださったのね」
「じゃあ、お礼しなくちゃ」
「ええ――で、どこがいいと思う?梓」
「ふふ、そう言うと思って。鳴子温泉を押さえてます」
「足りるかしら?大宴会になりそうよ」
「全旅館とホテル、借り切りですから大丈夫」
「さすが、梓」
スタンドに、風が戻る。
旗はもう揺れていない。
ピットの奥で、白い箱が一つ開いた。中には表彰式用のワッペン。まだ誰の名も縫われていない。
「早かったね、二人とも」
通りがかった係員が笑う。
蓮と美奈子は顔を見合わせる。
雨の匂いが、薄く残っていた。
だが、足音は軽い。
雅はノートを閉じた。
次に開くのは、拍手の時間だと知って。
「検討は、これからね」
梓が一言だけ添える。
モニターの光が、ゆっくりと金色に変わった。
街の向こうでも、同じ色。
誰も気付かない小さな予兆が、静かに次の舞台へ橋を渡していた。




