お嬢様 「不可視のラインと観測者達」
出走前の慌ただしい美奈子のピットに、ひょっこり現れたのが、師匠のジーコだった。
中にいた白木は、思ぬ訪問者に白木はガチガチに固まる。
一方美奈子は、相好を崩してジーコを迎い入れる。
「あ、師匠、昨日はありがとうございました」
「いいって、気にするな。大事な弟子だからな」 なんでもないようににジーコは手を振った。
「でもそのあと、マリアベル師匠が、やってきて散々にお説教くらったよ。あの毒舌。ここにいるみんなも、アテナも言い返せなかったよ」 げっそりとした顔で美奈子は言った。
「はは、それは災難だったな。ところでお前、中段スタートだったよな?」
「うん28番目」
「レース中1度でいい。俺たちの背中まで追いついて来い。いいな」 そう言ってジーコはピッドを後にした。
「か~~神のみぞ知る領域か・・・」
そうは、言ったものの美奈子の口角はあがっていた。
なんだ?世界トップランカーが、師匠?それも2人も?それとこの化け物能力を持つAI監督、なんだこの組合せは?それに1度でいいって世界のナンバーズだぞ。美奈子お前の前の20人は、国内外のサーキットでもまれたきた猛者達たちだぞ。いわば俺が1度も追いつけなかった背中を超えろ言ってるんだぞ。
一方、蓮と悠翔は、美奈子の対策の最終調整の確認を行っっていた。
「いいか、これが美奈子や世界ランカーのあの弱S字のラインだ。青が、ナンバーズ達と美奈子のラインだ。重ねてみるとこうなる。青は、最初のコーナーでブレーキをかけ、イン=インで車体を一直線の最短ラインに載せている。たぶんだが、イン=インのブレーキングドリフトの応用だろう」
「で、このオレンジが、その他のお前を含めたラインだ。アウト=インでこの弱S字をクリアーしてる。それは、当然なんだ。最初のコーナーの先のコーナーが見てるから体が、それに対応してる。そしてこの青とオレンジのクロスする場所が、S字の中央だ。美奈子達は、弱S字を1つのコーナーとして処理したんだ」
「お前すごいな。どうやってこのデーターを集めた」
「・・・・からだ」 珍しく悠翔が口籠った。
「え?」
「アテナからだ」
「だが、アテナからもらったのは、情報だけだ。それを分析したのは俺だ」
「プッ!お前変なところが人間らしいな」
スタンドは、すでに満杯だった。
だが騒がしいというより、どこか張り詰めている。
歓声は、断続的に起こっては消える。
名前を呼ぶ声、旗を振る音、スピーカー越しのアナウンス。
それらが混ざり合っているはずなのに、不思議と耳には入ってこない。
観客たちは、自分がどこを見ているのかを、正確には把握していなかった。
モニターを見ている者もいれば、ホームストレートを睨み続ける者もいる。
普段はレースなど見ないような人間も混じっている。
噂を聞きつけて来た者。
誰かに誘われ、半信半疑で席に座った者。
彼らは専門的な知識を持たない代わりに、異様な気配には敏感だった。
ピットロードの奥、整列するマシーンの列。
まだエンジン音は抑えられている。
だが、それがかえって不気味だった。
その感覚は、妙に的確だった。
このレースは、勝ち負けを楽しむためだけのものではない。
そう、無意識のうちに、観る側も感じ取っていた。
やがて、シグナルの準備が進む。
赤が灯るたび、スタンドの空気が一段ずつ固くなっていく。
スタンドの喧騒は、その時が近づくにしたがって、逆に落ち着いていく。
サーキットから少し離れた街でも、今日は様子が違っていた。
商店街のテレビは、例外なく同じ映像を流している。
飲食店では、昼からビールを頼む客が増え、
普段は静かな喫茶店でも、カウンター越しにレースの話題が飛び交っていた。
「なんか、すごいらしいぞ」
「世界のトップが来てるとか」
「女の子が速いって話だ」
断片的な情報だけが、街を漂っている。
会社の休憩室。スマートフォンを立てかけ、数人が画面を覗き込んでいる。
誰かが言う。
「これ、決勝なんだよな?」
「それで、こんなに騒いでんのか」
主婦が、洗濯物を畳みながらモニターをちらりと見る。
学生が、講義をサボって配信を開く。理由はそれぞれだが、共通しているのは一つ。
――見ておかないと、後で後悔する気がする。
街は、いつも通り動いている。信号も、電車も、仕事も、日常も。
だがその下に、もう一つの時間が流れていた。
スタートの瞬間に、何かが変わる。
そう思わせるだけの圧が、画面越しに伝わってきていた。
巨大モニターの前では、人が密集していた。
ここには、歓声はない。拍手もない。あるのは、妙な沈黙だけだ。
誰もが立ったまま、画面を見上げている。
カウントダウンが始まると、無意識に呼吸が浅くなる。
映し出されるのは、ライダーのヘルメット。
視線は見えないはずなのに、こちらを見返されている気がする。
モニター越しにサーキット場の温度、ガソリン臭まで感じられる気がした。 なぜか、自分までが、実際レースに参加していて、選別されているような感覚が全身を覆う。言いようのない高揚感と緊張感。いつの間にか自分の握りしめてた手の甲には汗が滲んでいた。
(な・なんだよ?これ。俺がレースに出るわけじゃないのに.........)
映像が切り替わり、ピットが映る。
無言で立つ者。淡々と指示を出す者。
それは、レース観戦に慣れているものなら日常だ。
ただ、国内若手プロ達の上にアマチュアが2名異物として紛れてることを除けばだ。
コントロールセンターは、音が多い。
無線、キー入力、低い足音。
だが三条雅の耳には、それらはもう雑音ですらなかった。
彼女は、中央の席に立たない。
彼女が見ているのは、変化だった。
雅は、モニターを避け、ピットが一番見える場所にいた。どのピットが選手に寄り添えるてるか。
その視線は、選手と指示者の間――ちょっとした違和感を即座に評価して、几帳面に自分のノートに記していく。
機械にはできない自分の直観と感性を信じて。準備が整った現場ほど、余計な動きが消える。だが逆に、役割が重なった瞬間には、必ず“歪み”が生まれる。雅は、それを探していた。
アナログ的かもしれない。しかしこれこそ、自分の根底にある“我道”の所作だった。
それを補完する役が梓である。彼女のタブレットには、各チームの推定データが数値化され蓄積されてゆく。それは、ピットマンの正確性であり、速さであり、チューニングレベルであった。
感性と数値によるダブルチェック。彼女達は、甘くない
(まだ、早い・・・)
そう考えながら雅のノートからは、すでに10数チームは消えていた。
「すごいね。師匠達のピット」何気なく雅が呟いた。
「うんまったく綻びがない。あれが世界か・・・」梓受ける。
「アテナ、あなたのアテナリネージェと比べてどう?」
《故障や部品複製なら私が上です。しかしライダーとの意思疎通が絡む微妙な調整は、まだ私には無理です》
《あれは、経験と感性による微妙な言い回し曖昧さが根底にあります》
「そうか、やはり最終的には、人と人の対話の介在が必要ってことね」
《はい。肯定します》
すこしアテナのホログラムの色が変わった。
コースに、静けさが戻ってきた。
それは歓声が消えたわけではない。
四万人分の熱が、ひとつの方向へと収束した結果だった。
グリッドが整えられていく。
マシンが押され、止められ、スタンドに背を向ける。
エンジンの火は入っていないのに、路面にはすでに熱が残っていた。
先頭列――そこに並ぶ八台は、誰の説明も要らなかった。
無駄のない姿勢。無駄のない間隔。
スタートを待つというより、場を預かっているような佇まい。
世界を回り、頂点を知り、
それでもなお、前に立つ理由を失っていない者たち。
観客のざわめきが、そこで一段落ちる。
「速いから」でも「有名だから」でもない。
――この八台が、先頭にいること自体が、秩序だった。
後方のグリッドでは、別の緊張が生まれていた。
前を見据える者。前を見ない者。
ただ、深く呼吸を繰り返す者。
誰もが同じ方向を向いているのに、立っている理由は、ひとつとして同じではない。
コース脇のオフィシャルが、最終確認を終える。
無線が短く交わされ、その音さえ、すぐに吸い込まれていく。
コントロールセンターの表示が切り替わる。
スタートシグナルの基部が、ゆっくりと息を整えるように沈黙した。
赤。
ひとつ目の灯が、点いた。
世界が、そこで止まる。




