お嬢様 「背中の先へ」
ジーコの背中は、相変わらず存在感を醸していたが、不思議と怖さはなかった。
ブレーキポイントにジーコが飛び込んだ瞬間、美奈子は驚いた。
「深い・・・」
なぜそこまで、ポイントを遅らせられるのか?
次の瞬間師匠の背中が、一瞬ぶれたと思ったら、もう次のコーナーを回っている。
(美奈子、見るのは俺のブレーキポイントじゃない。そこを見ると間違うぞ。なぜこのコーナで、同じライン、同じポイントでタイム差が出るのか)
美奈子は、ただ忠実に師匠のラインをトレースしていく。しかしコーナーでは必ず差が出るのだ。焦りが心を支配していく。
その度に師匠は、決まってスピードを押さえ美奈子に追いつかさせた。
「まだわからないのか?
しかたない。本番まで取っていた技だがここで見せるしかないか」
師匠が、複合コーナーに入った。それを必死に美奈子が見る。
(え?そのラインは・・・)
師匠は、この弱S字コーナーを1度のブレーキと僅かな体重移動だけでクリア―して行った。
(そうか、そういう事か。師匠は、サーキットとストリートの違いは、ブラインドコーナーの有無を言ってるんじゃない)
「その先だ!」
美奈子が、コーナーで師匠と同じポイント、同じ速度、同じ姿勢でクリアーするのを見て、ジーコは、安心してピットに戻る。
ピットに戻ると嫌味な顔でマリアベールが呟くように言った。
「ふ~~ん。弟子には、やさしいことで」
「俺が、このコースを練習したいと思っただけだ」
「そうよね~。でないと世界のコーナーリングなんかしないわよね」
「フン!ぬかせ。お前こそなぜヘルメットを手にしてピッドに待機してる?」
「や~ね、これはヘルメットが、私の美貌を隠さないか着けてみただけ」
ピットアウトの合図とともに、美奈子は静かにアクセルを開けた。
さっきまで胸の奥を占めていた焦りは、不思議なほど消えている。
代わりにあるのは、ひとつの確信だった。
(見る場所が……違ってた)
視線を、ひとつ先へ。いや、コーナーの先ではない。
その次に来る流れまでを含めて、視界に収める。
弱S字が近づく。
以前なら、ここで一度、呼吸を整え、切り返しの準備をしていた場所だ。
だが今回は、ブレーキを一度だけ。
深く、しかし躊躇なく。
マシンが沈み、姿勢が決まる。
その瞬間、美奈子は悟った。
(あ……これだ)
恐怖はない。無理もしていない。
ただ、マシンが自然に、次のコーナーへ向かっていく。
視線はもう、出口に張り付いていなかった。
さらにその先、次の立ち上がり、その先の加速区間まで、すでに見ている。
アクセルを開ける。タイヤが路面を噛み、無駄なく前に出る。
出口で、遅れない。 それだけで、世界が変わった。
ひとつ、またひとつ。
コーナーが“点”ではなく、“線”として繋がっていく。
ラップの最後、美奈子は初めて、計器を意識した。
だが数字を見る前に、身体が先に答えを出していた。
(――行った)
ピットイン。エンジンを切った瞬間、周囲の音が一気に戻ってくる。
誰かが、モニターを見つめたまま、息を飲んだ。
「……更新してる」
その声に、美奈子はヘルメットを脱がないまま、静かに目を閉じた。
タイムは、予選通過ラインを、確実に超えていた。
しかも、余裕を持って。
ジーコが、何も言わずに親指を立てる。
美奈子は、ようやく笑った。
胸の奥に残っていたのは、興奮ではない。
勝ったという高揚でもない。
世界の入口に、ちゃんと立てたという、静かな実感だった。
あの総長が、なぜ走らなかったのか。なぜ、自分が選ばれたのか。
その答えが、言葉ではなく、走りとして、ようやく腑に落ちた。
美奈子は、ピットの向こう――コントロールタワーを一瞬だけ見上げ、
何も言わず、再びヘルメットを被った。
国内若手プロは、最初から、理由は分かっていた。
タイムが伸びないのは、当然だった。
自分の足元しかみていない。サーキットを走るには、前の目が必要だ。自分位置、先のコーナー、そこにつながる自分の未来の位置、それを持ってないと・・・
その先が、第三者が上空から見下ろす二次元識別能力に近い鳥の目だ。一流のプロになればなるほど、他のバイクの位置までほぼに脳裏に描ける。
さらに上がいる。後ろの目を持ってる超一流と言われる存在だ。
しかし奴は、まだ前の目も持っていない。
(ミナコ、お前は頑張ったよ。でも先にはいけない)
世界の連中が走り始めた。ボードの名前が目まぐるしく変わっていく。
こちらもペースを上げる。これは、国内戦では味わえない。
ラップ数に反比例して、自分の名前がどんどん下降していく。
タイムは上がってるのに、順位は下がっていくという理不尽さに耐える。
(耐えなければ消える。簡単な理屈だ)
若手プロが、この理不尽さに贖っているときスタンドが揺れた。
丁度ピットに戻ってる彼は、思わずメインスタンドへ目を移す。
世界の連中と同じ勢いでラップタイムが上がっていく名前があった。
<MINAKO JP>
(どういうことだ?前の目 いや奴らと同じ鳥の目を?)
男は、慌ててピットに指示する。”ミナコ”が最終コーナーに入ったら、「俺は出る」
確かめない訳にはいかなかった。”速さの理由”を・・・・
ピットアウトの合図が出ると同時に、男は躊躇なくコースへ出た。
狙いは一つだ。最終コーナーを立ち上がった、その背中。
すぐに視界に入る。無駄のないフォーム。派手さはない。
だが、ラインの選び方が、さっきまでとは違っていた。
(……並んだな)
並走。
ほんの一瞬だが、同じ速度域、同じブレーキングゾーンに入る。
そこで、男は気づく。”視線”が違う。
美奈子は、目の前のコーナーを見ていない。
もっと先――出口、そのさらに先のつながりを、最初から“含めて”姿勢を作っている。
(前の目……)
理解した瞬間、微妙な差が生まれる。同じポイントでブレーキを入れているはずなのに、立ち上がりで、半車身、離れる。
次のコーナー、また、わずかに差が開く。
無理に開けているわけじゃない。むしろ、余裕がある。
(違う……見えてる量が)
男は、ラインを詰める。
コーナーひとつ分、無理をしてでも前に出るつもりだった。
弱S字が近づく。
(ここだ)
本来なら、二回ブレーキを使う。
一度目で姿勢を作り、二度目で向きを変える。
それが、国内の“速さ”だ。
男は、そこで勝負に出た。
だが――
美奈子は、二度目の減速はしなかった。
一度だけ。深く、迷いのない制動。
それだけで、S字全体を一つの流れとして処理する。
(……は?)
視界から、背中が消える。
置いていかれた、という感覚が、遅れてやってきた。
ラインを外されたわけじゃない。
ブレーキが遅れたわけでもない。
“先”を、すべて持っていかれた。
(前の目じゃない……)
男は、そこでようやく理解する。
美奈子は、もう“後ろ”も見ている。
自分が、どこで仕掛けてくるか。どこで無理をするか。
その全部を、織り込んだ走りだった。
(……持ってやがる)
前の目。
鳥の目。
そして――後ろの目。
世界の頂点の連中が、持っているやつを。
気づいたときには、もう追えなかった。
ラップタイムだけが、無慈悲に更新されていく。
ピットに戻る途中、男は一度だけボードを見上げた。
<MINAKO JP>
そこに並ぶ数字は、もう“アマのもの”ではなかった。
(……そういう役かよ)
誰に向けた言葉でもない。
ただ、胸の奥で、静かに腑に落ちただけだった。




