お嬢様 始まりのライン
予選当日の東北サーキット周辺は、もはやレース会場ではなかった。
初もうでの混雑の様子に例えればわかりやすいか。
前夜から続く人の流れが、夜明けとともに可視化される。
駐車場に並ぶ車列。歩道に敷かれたブルーシート。
テント、折りたたみ椅子、毛布を肩にかけた人々。
誰もが同じ方向を見ていた。
まだエンジン音すら鳴っていないサーキットのほうを。
四万人収容のスタンドは、前夜の時点で「満席前提」だった。
いい席を取るために、順番待ちの札が並び、徹夜組が交代で列を守る。
もはや整理ではなく、共同作業に近い空気だった。
屋台は眠らない。いや、正確には眠れなかった。
店主とバイトは、ヘロヘロになりながらも、材料が切れるまで売り続けた。
焼きそばの鉄板が冷めることはなく、湯気が夜気を白く染める。
明け方になっても、ビールとコーヒーが同じ速度で売れていく。
そして、運営が動いた。
本来、開門は午前十時だったが、夜明け前の時点で、その判断は撤回されれ午前五時、前倒し開門をよぎ無くさせられる。
ゲートが開いた瞬間、人の波が一気に流れ込んだ。走る者はいない。
押す者もいない。それでも、止められない熱量だけが人を前へ前へと進ませる。
一時間。それだけで、スタンドはすべて埋まった。
通路、立ち見エリア、フェンス際。それでも入りきらない人々が、外に残された。
そして、問題は起きかけた。
スタンドはすでに埋まっている。通路も、立ち見も限界だった。
入れないと知った瞬間、空気が変わる。
荒い言葉が飛び、苛立ちが連鎖し始める。
その時だった。
運営の無線が、一斉に鳴った。
指示は短く、迷いがない。
サーキット周辺の広場。臨時駐車場。市が管理するイベントスペース。
そこへ、大型ビジョン四基が、即座に設置される。
映し出されるのは、まだ空のコース。
だが、その画面を前に、人は立ち止まり、拍手すら起こった。
逃がさない。そう言わんばかりの対応だった。
サーキットの内と外。走る者と、見届ける者。
どちらも切り捨てないという意思が、はっきりと示されていた。
それを見た屋台の店主は、ヘラを両手にポツリと呟く。
「また、徹夜か・・・」
この時点で、誰もが理解していた。これは、ただの予選ではない。
街ごと巻き込む出来事なのだと。
スタンドが、妙に静かだった。
四万人を収容するコンクリートの器に、人はすでに満ちている。
ざわめきはある。だが、それは音にならない。
誰もが座ったまま、前を向き、息をひそめている。
歓声を上げるには、まだ早い。これはレースではない。
何かが始まる瞬間を、待たされている空気だった。
一方、ピット側は、別の緊張に包まれている。
エンジンはまだ火を入れられていない。
だが、マシンの周囲に立つ人間の動きに、無駄は一切なかった。
工具が置かれる音、ヘルメットが手渡される間。
誰も声を張らない。ここにいる全員が、この場の意味を理解している。
掲示板の前に、一人の無名レーサーが立っていた。
名前も、肩書きも、まだない。よれたレーシングスーツの袖口を、無意識に引き寄せる。掲示板に並ぶエントリーリストの端から端まで、視線を走らせた。
GPシリーズを走る名。国内トップカテゴリーの名。
そして、その中に混じる、自分と同じ場所から来た者の名。
喉が、わずかに鳴る。
ここに立っていい場所なのか。
そう思う一方で、それでも——試してみたい、という感覚が、胸の奥で静かに広がっていた。
コントロールタワーのガラス越しに、サーキット全体が収まっていた。
三条雅は、最前列には立たない。
モニターが並ぶ管制卓の少し後ろ、全体が見渡せる位置で足を止めている。
スタンドは、異様なほど静かだった。
四万人分の呼吸が、同じ速度で止まっている。
雅は、それを見ない。
視線は、ピットの動きにだけ向けられていた。
工具の配置、クルーの立ち位置、ヘルメットを被る順番。
走る前の、ほんのわずかな乱れ。
世界を回ってきたチームも、国内の若手も、名もないストリート上がりも、
同じ画面の中にいる。
区別は、しない。
「……問題ありません」
管制のスタッフが、淡々と報告する。
雅は頷くが、モニターから目を離さない。
彼女が見ているのは、速さではない。誰が勝つかでもない。
“ここに立ってしまった者たちが、戻れるかどうか”
それだけだった。
スタンドの熱狂は、見ない。歓声も、怒号も、期待も。
それらは、もう走る者の背中に届いている。主催者が拾う必要はない。
代わりに、医療モニターに一瞬だけ目を走らせる。
救急動線、待機車両、ドクターの配置。
「逃げ道は……ある」ぽつりと、確認するように呟く。
それで十分だった。
アルテミスが見ないのは、“夢”という言葉だ。
だが、この場を用意することで、誰かが勝手にそれを見つけてしまうことは、止めない。“夢”という言葉だ。
午前十時。
アナウンスが、場内に静かに響いた。
拡声器越しの声なのに、不思議とざわめきが引いていく。
観客の視線が、自然とメインストレートに集まる。
そこに、八台のマシンが並んでいた。
いつからいたのか分からない。
だが、気づいた瞬間には、もう全員が見ている。
横一列。間隔は、寸分の狂いもない。
白い路面に落ちる影が、まるで一本の帯のようにつながる。
観客席のざわめきが、そこで止まったが、その走りを見て一気に感情が爆発する。感情の連鎖が、スタンド上に広がっていく。
そして、八台が、同時にゴールを切った時に、空にはブルーインパルスが、5色の帯を残す。
サーキットの興奮は最高潮に盛り上がり、コースそのものが、生き物のように雄たけびを上げる。
「間違いない。アルテミスだ」
誰かが叫ぶ。1人の声が2人に4人に8人に…指数的に広まっていく。
――そして、その声はうねりとなりサーキットを埋め尽くす。
一方ピッドの方は、違った反応に包まれる。
なぜ、あれだけ走れるのに、みずから走らない?
その理由を知っているのは、8人のプロたちと2人の推薦されたアマだけだった。
タイムアタック開始
最初に飛び出しのは、やはり市中の走り屋達だった。
タイムアタックは、駆け引きである。
すでにコース用セッティングを終えてるプロ達は、あえて時間をずらしピットを後にする。 コースがクリアな条件で、自分のラインをしっかりキープするためである。
だからと言って、限られた時間は有限である。特に後半からは、ランカー達が走り始めるので、その邪魔をするのは、暗黙のタブーである。そうやっていつの間にか住み分けが出来た。
ルナゴスペルの美奈子も、当然最初のグループであるので真っ先に飛び出した。5週走ったが、思った以上にタイムが伸びてない。
(乗れてるのに、なぜタイムが伸びない?マシーンに問題はない。ラインは外してない。アクセルも開けている。なのに……出口で、何かが遅れる)
美奈子のタイムは予想足切りタイムにも、全然届いていない。タイムは、揃っている。しかし国内の若手プロにも届いていないのだ。
ピットに戻って来た美奈子に仲間が、声をかける。
「隊長、このままじゃ・・・・」
「わかってる!」
自然と声に余裕がない。自分でも何が原因かわからないのだ。
その間国内外のプロ達は、どんどんタイムを縮めてくる。
「出る」
そう言って美奈子が、再出走しようとする直前に、インカムに割り込んだ声があった。
声の主は、師匠のジーコだった。
「美奈子、お前は速いが、サーキットの走りじゃないんだ」
「お前がタイムを落としてるのは、コーナーの走りが、ストリーターの走りになってる」
「いいかよく聞け、ここはサーキットだ。ブラインドコーナーとかないんだ」
「お前は無意識に、市街や峠と同じ安全マージンを取ってるんだ。サーキットのコーナーの先は、対向車も来なければ、エンストマシーンもない」
「ついて来い。サーキットの走り方を教える」




