お嬢様 「背負う者と支える者」
東北サーキット開設記念・オープンレース
プラクティス前日
東北サーキットは、本来なら静かな場所だった。
週末でも、知る人だけが集まる程度の規模しか持たない、そんな寂れたバブル期の産業用道路だった。
だが、この日は違った。
まだゲートは開いていない。公式スケジュールも、プラクティス開始前。
それにもかかわらず、周辺道路には車列が伸び、臨時駐車場が次々と埋まっていく。
誰かが呼び寄せたわけではない。それでも人は集まった。
理由は単純だった。
この地方の新設サーキットには、本来ならグランプリシリーズを転戦しているはずの名前が、いくつも並んでいた。
ピットエリアには、さらに異質な光景が並ぶ。
世界を回るチームの大型トランスポーター。
国内トップカテゴリーの整然としたピット。
その隙間に、規格も思想も揃っていないマシン群。
統一感はない。だが、排除もされていない。
プロも、アマチュアも、ストリート出身も、平等にピットが解放されている。
観客席は、まだ閉じられている。
それでもフェンス沿いには人が立ち、一瞬をカメラでとらえようと皆備えている。
「今日はランカーは走るのか?」
「いや、国内の若手プロとアマの練習だけだ」
「じゃあ、なんで?」
言葉は、そこで止まる。理由はない。しかし何かが始まる気がしていた。その雰囲気が、ヒシヒシとピットエリアから立ち昇っていた。
スポンサーを見れば、主催がどこかは分かる。
あの横浜埠頭のレースを仕切ったやつらに違いない。
横浜周辺の走り屋は、あの時の熱気が、思い浮かんでくる。
あるレディースがその名を刻んだ走りの祭りを。
それでも、肝心な部分が見えなかった。
なぜ、このようなレースを組んだのか?
勝者を決めるだけなら、ここまでの医療体制も、参加条件も必要ない。
そもそも世界ランカーと、市中の走り屋が同じピットに並ぶこと自体が異常だった。
サーキットのコケラ落としに、有名プロを呼ぶ例はある。
だが、これは“ゲスト”の空気ではない。
超一流のプロたちが、シーズンを外してまで腰を据える理由が、
どうしても見えてこなかった。
(賞金目当て? いや奴らは、そんなケチなプライドで走るか?)
仙台の街も、静かに反応し始めていた。
駅前のホテルでは、夕方の時点で「満室」の札が出た。
理由を聞かれても、フロントは曖昧に笑うしかない。
ただ、数が合わなかった。それだけだった。
飲食店も、空気を嗅いで動いた。
定休日の札を裏返し、仕込みを始める店が出る。
誰かに命じられたわけではない。
「今日は、そういう日だ」と感じただけだった。
SNS上にも、#仙台宿泊地無し #満員の飲食店 などが並び、空いてる周囲の宿泊所情報教えてなどのコメントがあふれる。
仙台に収まり切れない客は、自然に外へ流れていく。
名取、石巻、古川。
気づけば、百キロ圏の宿にまで灯りが点いた。
街は、理由を知らないまま、先に財布と予定を動かしていた。
動いたのは、街だけではなかった。
最初に反応したのは、市だった。
観光課が、いつもより早い時間に会議室を押さえた。
資料はまだ薄い。だが、数字だけが異様に跳ねていた。
「……これ、想定外ですよね」
誰かが言い、誰も否定しなかった。
宿泊、交通、飲食。すでに通常の週末予測を超えている。
しかも、まだ“本番前”だった。
市は、慌てて旗を振ることはしなかった。
代わりに、黙って整え始める。
臨時の交通整理。
救急搬送ルートの確認。
周辺自治体との連携。
表には出さない。だが、裏側では完全に“受け入れる準備”に入っていた。
それを見て、県が動く。
「これは、一過性じゃない」
誰かが、そう判断した。県は正式に後援に名を連ねた。
理由は簡単だった。止める理由が、もうどこにもなかったからだ。
数字が出たのは、プラクティス初日の夜だった。
速報値、まだ暫定。それでも、会議室は一瞬で、静まり返った。
「……二日で、これですか」
宿泊消費。
飲食。
交通。
関連物販。
合算された数字は、誰も予想していなかった水準を示していた。
通常の地方イベントの、軽く数倍。しかも、決勝レースはまだ始まっていない。
「本番が来たら、どうなる?」
その問いに、答えは出なかった。
ただ一つ分かっていたのは、これは単に“観に来るレース”ではない、ということだ。
人は、勝者を見に来ているわけではない。結果を消費しに来ているわけでもない。何かが生まれる瞬間を、目撃しに来ている。
経済は、それを正確に嗅ぎ取っていた。
掲示板の前に立っていたのは、チーム名も、ロゴも持たない男だった。
よれたレーシングスーツ。
色褪せたスポンサーワッペンは、すでに役目を終えて久しい。
ヘルメットには、サーキットと無縁だった頃の転倒傷が、そのまま残っている。
彼は、最初は規則の文字を流し読みしていた。
安全要項、走行判断、医療体制、どれも、ストリートでは聞き慣れない言葉だ。
だが一行で、視線が止まった。
数字だった。
一度、息を吸う。もう一度、最初から数える。
「……一、十、百……」
声には出さない。出せなかった。
周囲のざわめきが、遠くなる。
勝者のための数字じゃない。一発当てるための金でもない。
「生き残った先に、残る金額だ」
そういう配分だった。
「……十五位まで、か」
誰に言うでもなく、呟く。
ここにいる連中のほとんどは、勝つ前に、落ちる。
それでも、落ちても終わらない。
男は、無意識にヘルメットの顎紐を指でなぞった。
走れるかどうかは、まだ分からない。
だが、「見るだけで終わる理由」は、消えていた。
少し離れた場所で、一人の国内若手プロが、同じ紙を見ていた。
ワークスのロゴが入ったジャケット。新品同様のマシン。
環境だけなら、文句はない。
だが、数字を見た瞬間、彼は何も言わず、ヘルメットを持ち直した。
ぎゅっと、握る。派手な驚きはない。声も上げない。
ただ、胸の奥で、何かが音を立てて動いた。
(……なるほど)
誰に聞かせるでもない独り言をつぶやく。
(この配分は、勝者のための賞金じゃない。世界の連中が、なぜシリーズを一つ空けたのか。なぜ、医療が過剰なほど整えられているのか)
その理由が、数字の並びだけで、分かってしまった。
(試されてるな……)
勝てるか、じゃない。届くか、でもない。
“どこまで行く気があるか”それを見られている。
若手プロは、静かにピットの方を見た。
そこには、まだ姿を見せない主催者側のコントロール棟。
だが、誰がこの場を作ったかは、もう分かっていた。
ヘルメットを抱え直す。
走る理由が、一段、深くなった。




