お嬢様 「選別の意味」
海外の若手ライダーたちが異変を察知してから、数日後後のことである。
仙台サーキット完成記念グランプリの詳細は、ようやく国内にも正式に伝えられた。
専門誌や関係者向けの資料に載った大会要項は、拍子抜けするほど簡潔だった。細かなクラス分けも、排気量の制限もない。
ワークスか、プライベーターかという区別すら、最初から存在していなかった。その代わり、すべてを貫く一本の軸だけが、はっきりと示されている。
所属・肩書き不問。
事前走行判断を受けること。
国内のプロライダーたちは、そこで一度、資料を閉じた。
読み落としを疑ったのではない。
これは、読み違えようのない内容だったからだ。
プロであることは、免罪符にならない。
同時に、プロであるがゆえに、余計な足枷もない。
世界の頂点と、同じコースに立つ。
同じ条件で、同じ走りをぶつける。
賞金総額、二十億円。
その数字に驚かない者はいなかったが、国内プロたちの胸を最も強く打ったのは、金額そのものではなかった。
世界ランキング上位の者たち。常に表彰台を争う、現役の頂点たち。
あの連中と、同じ舞台で走る。
自分がどこに立っているのか?世界との差が、どれほどのものなのか?
それを知る機会は、国内シリーズでは得られない。
さらに、要項の後半に記された一文が、現実的な後押しとなった。
成績優秀者には、今後のレース活動において、主催・協賛各社が支援を行う場合がある。
三条グループ。
ビッグデータ社。
木田技術開発研究所。
フィン・マキコ。
サクラ銀行。
これは、単発の夢物語ではない。
結果を出せば、その先のキャリアに繋がる。
国内のプロたちは、そこでようやく静かに息を吐いた。
(勝てなくてもいい。だが、測られたい........)
その熱は、やがて表の世界から裏へと流れていく。
情報は、公式発表よりも早く、夜の空気に混じって広がった。
深夜の国道沿いのコンビニの駐車場。
エンジンを止めたバイクが並ぶサービスエリアの片隅で、スマートフォンの画面を覗き込む影がいくつも重なる。画面の中に並ぶ数字は、現実感を欠いたまま、ただ異様な重さだけを放っていた。
賞金総額、二十億円。
笑い声が漏れ、誰かが首を振る。こういう話は、たいてい看板倒れだ。
派手な数字で人を釣り、実際には走らせる気などない。
ストリートを知る者ほど、そういう匂いに敏感だった。
だが、画面を下へ送るにつれ、その軽さは失われていく。
ワークス、ノンワークスの区別なし。
マシン規定一切なし。国内外プロライセンス保持者、アマチュア参加可。
代わりに、事前講習と走行判断の義務。自由はあるが、放任ではない。
その構造に気づいた者から、自然と口数が減っていった。
決定的だったのは、スポンサーと後援の一覧だった。
そして、藤原医療財団、藤原医科大学。
走り屋の集まりでは、まず目にしない名前だ。
金だけでなく、責任まで背負うつもりの布陣である。
年嵩の男が、画面を見つめたまま低く息を吐いた。
医療体制の項目は、事故を想定していない人間の書き方ではない。
それでも、多くはそこで離れた。
”こんな舞台は、自分たちの居場所じゃない”
こう判断するのも、また正しい。
エンジンがかかり、夜の闇へと消えていくテールランプを、誰も引き留めなかった。
数日後。
仙台の郊外に新しく引かれた道の先で、完成したばかりのサーキットは、驚くほど静かに佇んでいた。まだ観客席も埋まっていない。
コースには一本のタイヤ痕もなく、アスファルトは昼の光をそのまま反射している。フェンスの外に、数台のバイクが停まった。
誰もすぐには降りない。
ヘルメット越しの視線が、メインストレートから最終コーナーへ、さらにその先のピットエリアへと、ゆっくり流れていく。
広い。そして、逃げ場がある。
コース脇に目を向ければ、医療棟が見える。
白衣の人影が行き交い、無線機のチェックが淡々と進んでいる。ヘリポートには、風向きを示す吹き流しが揺れていた。
ここは、無茶をする場所ではない。だが同時に、臆病者のための場所でもなかった。
フェンスに手をかけ、しばらくコースを眺めていた一人が、ゆっくりとヘルメットを脱ぐ。風の音に混じって、遠くで工事車両のエンジンが鳴った。
男は、誰にともなく言った。
「……講習、受けてみる」
その声は小さく、だが揺れていなかった。
返事はなかった。
否定も、嘲りもない。
ここまで来てしまった時点で、もう違いは生まれている。
賞金に惹かれて集まった者と、場所を見て、残ることを選んだ者。
仙台サーキットは、まだ一度も走られていない。
それでも、すでにいくつかの“選択”だけは、確かに刻まれていた。
事前講習当日。
仙台サーキットのピットエリアは、朝から静かだった。
緊張ではない。慣れとも違う。ここに集まった人間の多くが、すでに「自分の立ち位置」を測りに来ている。
受付は二つに分かれていた。
一方は、ライセンス番号と所属チーム名を告げるだけで通される列。
もう一方は、年齢、走行歴、過去の事故歴まで細かく確認される列。
誰も説明はしない。だが、並んだ瞬間に分かる。
(ああ、ここで線を引かれるのか......)
プロの列は短く、流れも速い。
慣れた手つきで書類を受け取り、淡々と次へ進む。その背中には焦りがない。ここで試されるのは、自分ではないと知っているからだ。
一方、アマチュアとストリート出身者の列は、自然と間隔が空いた。
誰も喋らない。視線だけが、コースと医療棟を行き来している。
講習は、会議室ではなく、実際のコース脇で行われた。
立っているのは、元レーサーでも評論家でもない。
現役の外傷医、走行判断責任者、そしてコース設計に関わった技術者。
最初に語られたのは、速さではなかった。ブレーキングポイント。
逃げ場の取り方。転倒した場合、どこまで自力で動いていいか、どこから動いてはいけないか。
医師が淡々と告げる。
「ここでは、止まれない勇気より、止まる判断を評価します」
その一言で、何人かの顔色が変わったのがわかった。
ストリートでは、最後まで開けた者が強い。だが、ここでは違う。
走行判断の実地チェックが始まる。
プロは、数周で終わった。速いかどうかではなく、ラインが安定しているか、無理をしないか、それだけを見られている。
合格、不合格の声もない。ただ「次へどうぞ」と言われるだけ。
アマチュアは違った。一本ずつ、区切られる。一人が走り、全員が待つ。
一台が、最終コーナーでわずかにラインを外した。
転倒はない。だが、無線が入る。
『今の周回で終了です』
戻ってきたライダーに、責める声はなかった。
医師がヘルメット越しに視線を合わせ、静かに言う。
「今日は、ここまでです」
理由は説明されない。それが線だった。
時折、怒鳴る者や抗議する者もいた。
だが、大半は悔しさを飲み込んだ表情で素直に従った。
午後。合格者の名前が、静かに掲示される。
事前講習の結果はすでに出ている。
だが、全員が納得していたわけではない。
「……ふざけんなよ」
ヘルメットを抱えたまま、一人の男が前に出てきた。
「転んでもねぇ。タイムだって悪くない。なんで俺だけ“今日はここまで”なんだよ」
走行判断責任者が、一歩前に出る。「危険だからです」それだけだった。
「意味が分からねぇ」
男は吐き捨てるように言った。
「走りたいから来たんだ。ここは走らせる場所なんだろ?」
そのときだった。
「……なら」
静かな声が割り込む。プロのピット側から、若い男が歩いてきた。
国内シリーズで名を知られ始めた、若手プロである。
「一周、俺と走るか」
「は?」
「同じ条件で。追い越さなくていい。ただ、ついてこい」
抗議していた男は、一瞬だけ笑った。
「……上等だ」
準備はすぐに整った。観客はいない。実況もない。
だが、フェンス越しに、合格したアマチュアたちと、プロたちが静かに見守っている。
シグナルが消える。
二台が、同時に加速した。
ストレートでは、差はない。エンジン音も、速度感も、ほとんど同じ。
だが、最初のブレーキングで、違いが出た。
プロは、深く、しかし無理なく減速する。
アマチュアは、わずかに遅れ、わずかに強く踏む。
差は、ほんの数メートル。それが、次のコーナーで広がる。
プロは、速くない。無駄がない。明らかに流しているだけだった。
一周目の後半には、すでに背中が遠くなっていた。
二周目は、なかった。
ピットに戻ってきたアマチュアは、ヘルメットを外さなかった。
しばらく、動かなかった。
やがて、若手プロが先に口を開く。
「悪かったな。恥かかせるつもりはなかった」
その言葉に、男は首を振った。
「……違う」
ヘルメットを外す。汗と、悔しさと、少しの笑い。
「分かった」
視線が、自然とコースの先を向く。
「あんたで、これだろ」
若手プロは、黙って頷いた。
「俺でもな」
そして、ぽつりと続ける。
「国際ランカーの背中は……まだ、全然見えない」
その一言で、空気が変わった。
抗議は、もうなかった。言い訳も、怒号も。あるのは、距離の実感だけ。
プロとアマの差。そして、そのさらに先にいる“世界”。
仙台サーキットは、何も語らない。
ただ、走りを通して、順番を示した。
フェンスの外で見ていた別の若者が、静かに呟く。
「……だから、あいつらが来るんだな」
誰が、とは言わなかった。
だが、全員が同じ背中を思い浮かべていた。
ここは、夢を見る場所ではない。
だが、夢の距離を、誤魔化さずに教えてくれる場所だった。




