お嬢様 『その日、世界が一戦を空けた』
完成したばかりの仙台サーキットは、妙に静かだった。
エンジン音もない。観客の歓声もない。
あるのは、広すぎるコースと、風に揺れるフェンスの音だけ。
「……広いわね」
三条雅は、メインストレートの端で立ち止まり、そう呟いた。
「伊豆の三倍はありますからね」隣で梓が、いつもの調子で淡々と答える。
だが、その声の奥に、ほんの少しだけ誇らしさが混じっているのを、雅は聞き逃さなかった。
「走らせたら、気持ちいいでしょうねぇ……」
宗子はコースを見下ろしながら、無意識に右手を握りしめていた。
まるで、そこにハンドルがあるかのように。
「まだ走っちゃダメよ」
雅が言うと、宗子は露骨に肩を落とす。
「わかってますよ……こけら落しまで我慢、ですよね」
「ええ。ここは......」
雅は少しだけ言葉を探し、やがて静かに続けた。
「“逃げる場所”じゃない。ちゃんと向き合う場所だから」
誰も反論しなかった。
コース脇の医療棟では、白衣姿の冬香が、スタッフと最終確認をしていた。
「救急導線、もう一度だけ確認お願いします。ドクターヘリは発進三分以内、風向き次第で第二ルートへ切り替えるように」
その声は落ち着いていて、かつて事件に巻き込まれていた少女とは思えないほど、芯が通っている。
「……すごいな」
ぽつりと、宗子が呟いた。
「走り屋のサーキットに、ここまで医療を入れるなんて」
「当たり前よ」
雅はきっぱりと言った。
「全力で走らせるなら、全力で守らなきゃ」
冬香は一瞬こちらを見て、小さく微笑んだ。
「……そう言ってもらえると、報われます」
その日の夕方。
雅たちは、コントロールルームに集まっていた。
アテナの簡易ホログラムが、空中に淡く浮かぶ。
《では、招待状の最終確認を行います》
画面に並んだ、八つの名前。
「……相変わらず、すごい顔ぶれね」
彩が苦笑する。
「現役、しかも今も世界のトップ」
「断られたら?」
あかねが聞く。
雅は、少しだけ口角を上げた。
「その時はその時よ」
《なお、賞金総額は20億円で設定されています》
「うわ……」
琴音が小さく声を漏らす。
「本当に出すんですか?」
「ええ」
雅は即答した。
「安いくらいよ。この場所で“本気”を見せてもらうんだもの」
アテナが一瞬だけ間を置いた。
《……なお、彼らだけのレースになるとは限りません》
雅は、何も言わずにホログラムを見つめる。
《このサーキットは、
“速い人だけのため”に作られたわけではありませんから》
「そうね」
雅は静かに頷いた。
「ここは、走りたい人間が、壊れずに走るための場所」
夜、誰もいないコースに、月明かりが落ちる。
雅は一人、フェンスにもたれて、遠くを見ていた。
暴走族をなくしたいわけじゃない。
力を誇りたいわけでもない。
ただ........
(走りたい、って気持ちは……止められないものね)
だからこそ、走らせる。秩序の中で、未来に続く形で。
遠くで、風がフェンスを鳴らした。
仙台サーキットは、まだ一度も走られていない。
だが、確かに“物語”だけは、もう走り始めていた。
世界を転戦する現役世界ランカーたちにとって、
一日は驚くほど淡々としている。
走る。整える。次に備える。それを繰り返すだけだ。
だからこそ、予定にない通知は、異物として強く残る。
マルケスはトレーニングを終え、グローブを外したところで端末の表示に目を留めた。差出人を見た瞬間、思わず小さく息を吐く。
「またか」同じ頃、別の国の空港ラウンジで、ベグナーはコーヒーを置いたまま画面を睨んでいた。
「……先に言えって、何回目だ」
誰に向けた言葉でもない。
だが、名前ははっきり浮かんでいる。
アントニオは国内レースの控室で、マルベリアは機内モードを解除した直後に、ジーコは自宅ガレージで、アルレグラはシミュレーターの前で、ミラーは夕暮れのピットで、それぞれが、それぞれの場所で、同じ招待状を開いていた。
東北・仙台新設サーキット。
完成記念グランプリ。
そして、目を疑うような賞金総額。
「……馬鹿だな」
誰かが、どこかで同じ言葉を零している。
数時間後、非公開の回線が、静かにつながった。
この回線が使われるのは、決まって“面倒な弟子”が動いた時だ。
「……聞こえてるな」
短く、低い声。返事はまちまちだったが、全員が揃っていることだけは分かる。
そこに、少し遅れて加わった声があった。
「突然のご連絡、失礼いたします」
丁寧で、落ち着いた声。それだけで、誰の弟子かは明白だった。
「……お前らか」
呆れと苦笑が混じる。
雅は、それを当然のように受け止める。
「仙台に、新しいサーキットを完成させました」
淡々とした報告。
だが、その一言が、どれだけの手間と覚悟を含んでいるかを、この場の全員が理解していた。
「賞金、見たぞ」
「ええ。少なすぎますか」
「馬鹿か?お前等」
そんなやり取りの裏で、師匠たちはもう気づいている。
これは、止める話ではない。
「安全は?」
「藤原医療財団が全面的に支援します」
その答えに、誰も反論しなかった。
しばらくして、マルケスが静かに言った。
「……で、結局」
「俺たちに何をさせたい」
雅は、迷わず答えた。「走っていただきたいのです」
その言葉に、回線の空気が変わる。
拒否ではない。覚悟を測る沈黙だ。
「一戦、休むことになるぞ」
「承知しております」
「現役プロだ」
「存じております」
それでも、引かない。
「責任は取ります」
その声には、逃げがなかった。
誰かが小さく笑った。
「育てすぎたな」
「ええ。私どもも、そう思います」
「なら、仕方ねぇ」
結論は、最初から決まっていた。
「弟子の祭りだ」
「顔、出さねぇわけにはいかん」
回線が切れたあと、師匠たちはそれぞれの場所に戻っていく。
だが、胸の奥に残った感覚は共通していた。
「まあ、しかたないな」と言ってニヤリと笑った。
最初に違和感を覚えたのは、世界を転戦している若手ライダーたちだった。
シリーズ戦・第七戦。
発表された最新のエントリーリストを見て、誰もが一度、スクロールを戻す。
・・・・・ない。
あるはずの名前が、揃って消えていた。
世界ランキング上位。常に表彰台争いをする男たちが、理由もなく、同じ一戦を空けている。
「怪我……じゃないな」
誰かが呟く。
一人ならまだしも、複数。しかも、同じタイミング。
それは偶然ではない。やがて、関係者の間で、断片的な情報が囁かれ始める。
舞台は日本。東北。新設のサーキット。
主催団体の名は、表には出てこない。
代わりに並ぶのは、誰もが一度は耳にしたことのある名前だった。
三条財閥。
ビッグデータ社。
木田技術開発研究所。
「……本気だな」
金がある。運営がある。技術がある。
だが、それだけでは、現役世界ランカーは動かない。
そして、最後の一行が、若いプロたちの目を釘付けにした。
医療バックアップ:藤原医療財団
専属外傷医。
常駐救命チーム。
ドクターヘリ待機。
高度外傷対応病院との即時連携。
「……サーキットで、ここまでやるのか?」
それは、F1や最高峰カテゴリに近い水準だった。
走ることそのものではなく、“生きて戻ること”までを含めて用意された舞台。
海外の若手プロたちは、直感的に理解する。
超一流のプロ達が、参加するには、何かある。
金だけで動く奴らじゃない。
なぜ奴らがシリーズ戦を一つ空けたのか?
「……確かめるしかないな・・・・」
誰に言うでもなく、そう呟く者が現れ始めた。




