閑話:王妃付き侍女の手記
まさか、こんな……こんな末端も末端、取るに足りない子爵家の娘であるこのわたしが、あろうことか、雲の上の存在でいらっしゃる王妃様付きの侍女に任命されるだなんて! 天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていた夢物語が、現実のものとなる日が来るなんて、誰が想像できたでしょう。
お父様と共に王宮へと呼び出されたあの日、わたくしたち一家は、まるで断頭台へ向かう罪人のように、ただただ震え上がっておりました。
「いったい何ごとだろう」
「まさか、あの事件のことで、何かお咎めを受けるのでは……」
そんな不吉な憶測ばかりが、古びた我が家の小さな食堂を支配していたのです。わたしは、あの忌まわしい王立学園の事件のことで、ほんの少し、本当にほんの少しだけ、調査に協力したに過ぎません。けれど、それがかえって現王家の方々の目にとまり、何かあらぬ疑いをかけられたのではないかと、不安で不安で、ここ数日、夜もろくに眠れていなかったのです。寝不足が続くとますますいけない想像ばかりしてしまって――あの数日は、地獄のような日々でした。
古めかしいけれど、祖母から受け継いだ我が家にとっては伝統のあるドレスに身を包み、王宮の壮麗な門をくぐったときのあの圧倒されるような感覚。大理石の床に響くわたしたちの足音だけが、やけに大きく感じられました。案内された控えの間で待つ間も、生きた心地がいたしませんでしたわ。壁にかけられた歴代国王の肖像画に見下ろされているようで、息が詰まりそうでした。
そして、ついに王妃様のお名前が呼ばれ、謁見の間へと通されたのです。そこは、陽光が燦々と降り注ぐ、夢のように美しい部屋でした。けれど、わたくしの目には、その部屋の壮麗さよりも、中央にいらっしゃるお方の輝きしか映りませんでした。
玉座に座るそのお方は、まるで物語の中から抜け出してきた女神か聖女のように思われました。完璧な淑女のほほ笑みを浮かべ、しかしただ可憐なだけではなく、圧倒的な存在感を放っておいででした。隣国の公爵家のご令嬢でいらっしゃったと記憶しておりましたが、その高貴な佇まいは、国の頂に立つにふさわしい――いえ、その地位が最初から約束されていたのだと、まるでそれが当たり前のことのような錯覚すら覚えました。同じ空気を吸うことすらおこがましいと感じてしまうほどに。
わたしの不安は、王妃様の第一声と、その慈愛に満ちた優しいほほ笑みによって、まるで冬から春を迎えるときに吹くあたたかくて強い風のように、あっという間にどこかへ吹き飛んでしまいましたわ。
「わざわざ来ていただいてありがとう。王妃としてこの国に嫁いだのだけれど、まだまだ王国のマナーに不安も多くて。ぜひ、あなたにわたくしの侍女になっていただきたいの」
そのお声の、鈴をころがすような美しさ、そして温かさに感激したことは言うまでもございません。
王妃様は、わたくしたちのような下位貴族のことなど、ご存じないだろうと思っておりましたのに、驚くべきことに、この国のことを本当によくお調べになっていらっしゃるご様子でした。まあ、あのような……あのような恐ろしい事件があった国ですもの、警戒されるのは当然のことかもしれませんけれど。王妃様は、わたくしが王立学園で、僭越ながらも比較的優秀な成績を修めていたこと、そして、あの事件の際に、微力ながらも真実のために行動したことをご存じで、そのことにお目をかけてくださったようなのです。
「あなたの学園での成績はすばらしいものだったと聞いております。そして何より、あの困難な状況の中で、勇気をもって正しいと思うことをなさった。その誠実さに、わたくしは心を打たれましたの」
ああ、なんということでしょう。恐ろしい事件が起き、王朝も変わり……これから我が家はどうなってしまうのか、いっそ縁故を頼って隣国へ亡命したほうがいいのではないかと、お父様やお母様と夜な夜な話し合っていた、まさにその最中だったのです。そんな明日がどうなるかもわからない身の上にいたわたしにとって、王妃様からのお言葉は、まるで天からの啓示のように、温かく、そして力強いものでした。こんなにうれしいことがあるなんて、夢にも思っておりませんでした。
王妃様は、わたしのつたない成績以外に、あの忌まわしい事件の折に、わたしがやむにやまれぬ状況であったこともあって聴取に応じたこと、知る限りの真実を包み隠さずお話ししたことまでも、それはそれはお優しく褒めてくださったのです。
「不安も多かったことでしょう。恐怖も感じたはずですわ。それなのに、あなたは正義を貫き、真実から目を逸らさなかった。その清廉な精神に、わたくしは心からの敬意を払います」
そのようなもったいないお言葉を賜り、わたくしは、堪えきれずに、その場でぽろぽろと涙を流してしまいました。みっともないとは思いながらも、感謝と感激の念が、堰を切ったように溢れ出して止まらなかったのです。お父様も、隣で感極まったように何度も頷いておりました。
王妃様は、とにかく、筆舌に尽くしがたいほどお美しくていらっしゃいました。豊かな金色の髪は陽光を浴びてきらきらと輝き、その頂に載せられたティアラが霞んで見えるほどです。透き通るような白い肌は、最上級の陶磁器よりも滑らかで、薔薇色の唇がにっこりと弧を描くだけで、周囲の空気までが華やぎ、そこにいる誰もがうっとりと魅了されているのが、手に取るようにわかりました。わたし自身、思わずぽーっと、時が経つのも忘れて見とれてしまったほどです。あの瞬間、わたくしの心は完全に、王妃様の虜となっておりました。
けれど、そんな完璧にお見受けする王妃様も、時折、ふとした瞬間に、どこか遠くを見つめるような、言いようのない心配そうな、あるいは何かを深く憂いているようなお顔をなさることがございました。その儚げな表情は、わたしの胸をしめつけ、どうかなさいましたのかしら、何かお心を曇らせてしまうようなことでもおありなのかしらと、こちらまで心配になってしまうほどです。
そんなある日、侍女としてお側に上がらせていただくようになってから数日後のこと。王妃様がいつものように、窓辺で物思いにふけっていらっしゃるご様子でしたので、わたしは王妃様のお好きな紅茶とともにそっとお声をかけました。
王妃様は最初、何でもないわといつものようにほほ笑んでいらっしゃいました。それでも、お顔の色がいつもより青白く、お心に暗がりが落ちていることは一目瞭然です。それでも王妃様がお話しになるまではとわたしは黙ってそばにいることにいたしました。
すると、王妃様が突然わたしを手招きされたのです。そして、わたしが緊張しながらお側に寄ると、その薔薇色の唇をわたくしの耳元にそっと近づけ、まるで大切な秘密を打ち明けるかのように、囁くようなお声でおっしゃいました。
「ねえ、わたくしは……その、この王国でかつて『毒婦』と呼ばれていたという令嬢と……どこか、似ているところがあるかしら?」
その一言に、わたしはいきなり頭を殴られたような衝撃を受けました! そして、考えるよりも先に、ほとんど反射的に叫んでおりました。
「あ、あり得ませんわ! 王妃様! そのようなこと、断じて、断じてございません!」
わたしの声は、自分でも驚くほど大きく、そして震えておりました。
たしかに、王妃様は、あの忌まわしい事件の発端となった元男爵令嬢――あの毒婦と同じ、美しい金色の髪をお持ちでいらっしゃいます。けれど、それがどうしたというのでしょう。 王妃様のその輝くばかりの髪の艶や、豊かでしなやかな流れは、他に比類なく上品で、まるで黄金そのもののよう。唯一無二の高貴な美しさです。
そして何より、王妃様のお肌! わたしとさほどお年が変わらないはずなのに、まるで生まれたての赤子のようにきめ細かく、つやつやとして内側から輝くような張りがあり、触れることすら畏れ多いほど。すらりと伸びた白いお手足は、その指の先の一本一本まで、全ての所作が洗練され、どの角度から見ても常に優美でいらっしゃいます。
あんな下賤な成り上がりの女などと、似ても似つかない!いえ、比べること自体が、王妃様に対してあまりにもおこがましく、不敬極まりないことだわ!あの女は、その見かけの美しさとは裏腹に、どこか薄汚れていて、計算高い、卑しい雰囲気を隠しきれていませんでしたもの。
わたくしは、こみ上げる怒りをおさえることができず、王妃様に向かってはしたなく感情的になって申し上げました。
「もし、万が一にも、王妃様に対してそのような無礼千万なことを申す者がおりましたら、たとえそれが誰であろうとも、わたしが、この身に代えても、毅然と言い返しますわ!王妃様とあの女狐とを一緒にするなど、言語道断にございます!」
わたくしの言葉をお聞きになった王妃様は、一瞬、驚かれたように大きくお目を見開かれましたが、すぐにふわりと、まるで薔薇が蕾を開いたように、それはそれは嬉しそうにお顔をほころばせました。
「まあ、うれしい! あなたは、わたくしの味方になってくださるのね?」
そのお言葉に、わたしは胸がいっぱいになり、力強く頷きました。
「もちろんでございます……!この命、この魂の全てをかけて、王妃様にお仕えし、王妃様への絶対の忠誠を誓います!」
わたしがそう高らかに宣言すると、王妃様は心の底から安心したように、ふう、と短く、しかし甘美なため息をおつきになりました。その吐息すら、まるでとろけるような芳香を放っているように感じられ、同性であるはずのわたくしの心臓は、まるで早鐘のように激しく高鳴っておりました。
そして、王妃様は、その白魚のように清らかで、一点の汚れもない美しい手で、わたくしの、平凡で何の取り柄もない手を、そっと、本当にそっとお握りになったのです。
ああ、あのときの、王妃様の指先の信じられないほどの柔らかさと、手のひらから伝わってきた温もりを、わたくしはきっと、この身が朽ち果てるまで、いえ、朽ち果てたあとでさえも、決して忘れることはないでしょう。それは、わたくしの人生で最も尊く、最も幸福な瞬間の記憶として、永遠に刻み込まれたのですから。
「あなたが侍女になってくれて、本当に心強いわ。ありがとう」
そうおっしゃって、心の底から嬉しそうに、満面の笑みをお見せになった王妃様。その太陽のような笑顔を前にして、わたしは、このお方のためならば、自分の命を差し出すことさえ何ら惜しくはないと、心の底から、強く強く思ったのでした。
あんなにも清らかで、あんなにも慈悲深く、そしてあんなにもお美しいお方にお仕えできるなんて、わたしは、この広大な王国中の全ての令嬢のなかで、間違いなく一番の幸せ者ではないかしら。ええ、きっとそうだわ。
この幸福が、永遠に続くように、わたしは王妃様をそのお心も含めてお守りし、お支えし続ける。それが、わたしに与えられた、至上命題なのだから。