70. フェンリル討伐戦(11)決着
「おい! 見たか? 今の!」
フェンリルを注視していた者すべてが感じた違和感。明らかに不自然な着地。
「黄金の時」が来たのか? フェンリルも遂に「魔力枯渇」に陥ったのか?
しかしながら、人々の心の中には同時にもう一つの言葉「擬態」も浮かんでいた。
フェンリルが魔力を消耗しているのは事実だろう。しかし、完全に枯れているという保証は無い。そして、魔物とは思えない高い知能を持つこいつが、最後の力を振り絞って逃亡するために、何らかの策を弄するとしても何の不思議も無い。
攻撃力を失ったふりをして、近づく者に特大のダメージを与えて混乱させた後、一挙に走り去る。行き先は他領へと通じる広大な草原。悪夢でしかない。
誰もが違和感を覚えている様で、間断なく攻撃を繰り返していた王国騎士団も、一旦停止して様子を見ている。擬態であれば、迂闊に接近するのは自殺行為だ。
遠距離から何か打ち込んで、フェンリルの反応を見てみたいが、バリスタは全滅しているし、魔導師部隊も魔力切れだ。戦場には不思議な静けさが訪れていた。
この場の最高司令官であるソロモン伯爵も決断を下せないでいた。
必死に知恵を振り絞るが、チャンスなのかピンチなのか? その真実の姿を見抜く事が出来ぬまま、ジレンマを抱えて歯噛みするしか無かった。
その時、突然、戦場一帯に鐘の音が高らかに鳴り響いた。
誰もが思わず鐘の音の方に目を向ける。それは、魔物フェンリルも同じだった。
次の瞬間、鐘の音がした領都正門の上から、何かが宙へ飛び出した。それは弧を描いて飛翔すると、草原の中ほどに落下したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
正門上で戦闘を注視していた者達もまた、フェンリルの異常に気づいた。
そして、他と同様、魔力枯れなのか擬態なのかを怪しみ、その場を沈黙が支配していた。しかし、その沈黙を唐突に破ったのはジェームスだった。そして、命じる。
「マルス! 投石機の用意! 油樽を撃ち出すぞ。」
「いや、絶対に届きませんよ! 第一届いても、のろすぎて避けられます。」
「構わん! 方向さえ合っていればいい! 自分に真っ直ぐ飛んで来る物を正面から見ていても、それが届くのかどうかなんて分かるわけがない。そうだろう?
フェンリルに、自分に命中するかも知れないと思わせれば十分だ。危険を感じた時に、あいつがどう動くのか? 動かないのか? それとも動けないのか?」
マルスがニヤリと笑って頷く。シュルツが弾んだ声で言い添える。
「いいですね。派手に一発かましてやりましょう。油樽は火魔石入りで。」
そしてそこへ、領都の朝の広報係ロンまでもが身を乗り出して言い足す。
「それなら、奴さんの気を引くために、鐘を鳴らしてから撃ち出しませんか?」
全員がキビキビと動き出す。直ぐに準備は整った。投石機の側のマルスが頷く。
ジェームスがロンに頷くと、高らかに鐘が鳴る。続いてマルスが油樽の中の火魔石を起動させると、真っ直ぐフェンリルに向かって樽を撃ち出した。
街壁の上から飛び出した人の頭ほどの樽は、弧を描きフェンリルに向かう。
予想どおり、圧倒的に届かない。ざっくり100歩ほど手前に着弾した。まあ、樽が地面に激突して前方に飛散した油の飛沫には瞬時に着火し、その炎はフェンリルの手前50歩ほどにまでは届いた様だ。多少の熱風は吹いたかも知れない。
もちろん、フェンリルには何のダメージも与えなかった。
しかし、その油樽は重大な事実を暴き出した。
フェンリルは動かなかった。自分に真っ直ぐ飛んで来る物体、ひょっとしたら自分を直撃するかも知れない物体。それを見ていながら、あの用心深いフェンリルが、その場から一歩も動こうとはしなかったのだ。
いや、動けなかったと言って良いだろう。そう! フェンリルに余裕は無い。
司令官のソロモン伯爵も、その光景の意味するところを理解し、腹を括った。
「赤い旗を振れ! 総攻撃だ! 今こそ、奴の息の根を止めるぞ!」
領都正門上にいたゴダード卿は、大亀拠点に翻った赤い色の旗を目にした瞬間、傍らの副官に命じる。
「全隊、正門から出撃だ!」
副官は、地表に通じる階段を駆け降りて行った。赤い旗を見た戦場の随所から、歓声が挙がる中、ゴダード卿はジェームスに歩み寄ると、その肩を力強く叩いた。
「良くやった!」
そう言葉を掛けた後、自らも副官の後を追って階段を駆け降りて行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
フェンリルにとって、20人近い魔導師達との魔法の打ち合いは堪えた。
そして、間断なく襲い掛かって来た騎兵達も、地味に彼の魔力を削っていた。
既に、自分には火球を放つだけの魔力が残っていない事を自覚していた。
使えるのは恐らく身体強化だけ。それも、あと数回だろう。
ここは逃亡の一手しか無い。眷族は、ついて来られる奴だけついてくれば良い。
問題は、どっちへ逃げるかだ。
そこまで考えた時、甲高い音がした。思わずそちらを注視すると、石壁の上から何かが飛び出した。それは、どうやら自分に向かって飛んで来ている様だと瞬時に理解する。いつもなら、さっさと移動するのだが、動くのが何とも億劫だ。
ギリギリまで見極める事にする。幸い、その物体はかなり離れた地面に落ちた。盛大にユラユラを吐き出したが、自分には何のダメージも与えなかった。
ヤレヤレである。ホッとしながら、そう思った直後だった
戦場の至る所で、大きな歓声が挙がった。それは、戦士達の咆吼だと直感した。
まずい! 自分には本来の戦闘能力など、もはや微塵も無いのに!
この場を離れるしかない。どっちへ逃げる?
逃げ出して来た南の魔の森。焼け野原になった西の牧草地。草木もまばらな北の山地。火球を放っていた敵の拠点の向こうにある、東の草原を目指すしか無いのか?
斥候の報告によれば、あの先にも二本足が大勢住んでいる。
幸い、火球攻撃は先ほどから止んでいた。今なら、あの拠点を踏み越え、草原へと逃げ出す事も可能だろう。しかし、その後、いつまで走り続けられる? 魔力が尽きたら終わりだ。残されている魔力は僅か。全力疾走出来る距離は短い・・・
果断即決! フェンリルは疾走を始める。
目前の敵から中途半端に離れようとする行為は危険だ。それならいっそ敵の懐へ。本能的にそう断を下したのだった。文字どおり、それは命を賭けた決断であった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ジェームスは、目前の光景が信じられなかった。フェンリルが向かって来る。
さっきの鐘の音や狙い撃ちした油樽の仕返しなのかと、馬鹿な考えが頭に浮かぶ。しかし、もしこの街壁を乗り越え街に侵入されたなら、本当にまずいと直感した。
普通の魔狼には届かない街壁の高さだが、フェンリルならば恐らく・・・
ズボンのポケットから濃い緑色の魔石を取り出すと、両手を突き出し、迫り来るフェンリルの方に向けて魔石を起動させる。直後にフェンリルが地を蹴った。
まさに、フェンリルにとって死力を振り絞った最速、最高度の跳躍だった。
しかし、街壁の上に身体が露出した瞬間、凄まじい暴風に見舞われた。この風が無ければ、楽々街壁上に到達していたか、そのまま街中へと突入していたはず。
ところが、現実には、フェンリルは街壁の上に両前脚の爪を突き立て、辛うじて胸の辺りまでが、街壁上に乗っかっているという体たらくであった。
ジェームスは、まさに目と鼻の先にいる、フェンリルの顔面に向かって暴風を送り続けた。フェンリルの顔がみるみる歪んで行く。あまりにも強烈な風を顔面に受けているせいで、フェンリルは呼吸が出来なくなっている事には気づかない。
その恐るべき敵は、僅か数歩先にいた。その目をしっかりと睨み続ける。
遂に、フェンリルは足掻く事をやめた。
そのまま、街壁のすぐ外側へと落下して行く。後脚で着地したものの、そこで踏ん張れず横倒しとなる。しかし、もちろん致命的な高さであるはずもない。
直ぐに態勢を立て直すと、フェンリルは再度、跳躍のための準備姿勢を取った。
そして、天空に向かって咆吼を挙げる。
人間達を威嚇したかったのか、己を叱咤したかったのか、それとも、魔狼の頂点に立つフェンリルとしての矜持を示したかったのか、それは誰にもわからない。
街壁上からフェンリルを見下ろしているジェームスにとって、そこにいるのは、これまでの人生で出会った誰よりも恐ろしい敵。そして、自分など到底及ばぬ孤高の存在。もちろん恐怖は感じている。しかし、そこには畏敬の念も確かにあった。
紛れもなく、フェンリルは最強の戦士だった。その誇りに満ちた戦士の咆吼。
しかしながら、それに対する人間側からの答礼は、真に苛烈なものとなった。
街壁の上から、火球が叩き込まれた。10歩と無い至近距離からの致命的な一撃。それが少々間を置いて、2発、3発と続いた後は、間断なく20発近い火球が降り注いだのである。あっという間に火達磨と化したフェンリルは、やがてその場に崩れ落ち、大きな炎の塊と成り果てた。魔導師3人娘の火球攻撃による決着であった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「やめろ~! やめんか~! 火球を撃つな!」
喚きながら街壁上をこちらへ走ってくるのは、ベズコフ領主の息子だった。
街壁の上から火球を放っているところは見えていたが、フェンリルの悲惨な状況までは、離れた位置からは見えていなかったのだろう。火球を撃つな。槍や剣を使えと絶叫し、息を切らせながらやって来る。
街壁のすぐ外で炎に包まれている巨体を目にし、それがフェンリルの成れの果てだと知る。もはや手遅れだと理解した瞬間、怒りに震える声で3人娘に言い放つ。
「貴様ら、自分が何をしたか、わかっておるのか! 我の・・・ 我の毛皮を台無しにしおって。絶対に許さんぞ! この責任をどう取るつもりだ!」
街壁上にいる多くの者たちは、意味不明の喚き声を挙げながらやって来た、この小太りの男が誰なのか、そして何を言っているのか、全く理解出来なかった。
彼が領主の嫡男と知っているジェームスも、あまりの馬鹿馬鹿しさに沈黙。
日頃から田舎の領都の絶対権力者として、他人の目など気にした事も無い領主の息子モーリは、一人我が道を進む。フェンリルは諦めたらしい。代わりに・・・
「ふん! 仕方無い。そこの魔導師の女、我の妾にしてやる。一生かけて償え!」
そう言うと、クリスへと歩み寄った。
咄嗟にジェームスは、その間に割って入る。
邪魔されたモーリはむっとした顔で、貴様と言いかけたところで一旦、口を噤むと
「貴殿には関係の無い話だ。邪魔をしないでもらおうか!」
嫌らしい笑みを浮かべながら、そう宣言した。
『フェンリル討伐の立役者に何という無礼を! この痴れ者が! 控えろ!』
とでも言って、追い払えば済んだ話だったのだ。
ところが何故か、フェンリルを打倒した直後の高揚か、はたまたモーリのあまりの言い草に怒り狂ったせいなのか、ジェームスは、この時とんでもない事を言い放った。
後年、思い出す度に頭を抱え、悶絶する事になる “黒歴史” 的セリフだった。
「この人は、私の婚約者だ。これ以上の無礼を続けるのなら、貴様に決闘を申し込む事になるが。どうする? 謝罪して去るか、剣を手にするか選べ!」
大義名分上も、剣の実力上も勝ち目が無い事は、流石にモーリも理解出来た。
怒りでプルプルと震え、辛うじて謝罪の言葉を口にすると、取り巻きとともに街壁上から立ち去ったモーリ。癇癪持ちの彼にしては奇跡的な忍耐だったと言える。
まあ、ジェームスにとって、真の試練はその後だったのだが。
「私、ちっとも存じ上げておりませんでしたわ! お姉様、いつの間に!」
そう言いながら、満面の笑みでジェームスとクリスに迫るキャンディ。
ジェームスは、実家で飼っていた猫が、部屋の隅にネズミを追い詰めた時の、あの何とも嬉しげな表情が脳裏に浮かんだのだった。
一方、猛然と抗議されるかと思いきや、クリスは顔を真っ赤にして、俯いているばかり。街壁上の監視隊の連中はと言えば、モーリを睨み付けていた先ほどまでの険しい表情から一転、実に “生暖かい” 視線でジェームスとクリスを交互に見ている。
「今さら嘘だったとバレたりしたら、あの馬鹿に何をされるかわかりませんわ!
ハリス卿には、きちんとクリスお姉様を守り通していただきませんと!」
何気に、退路を断ってくるデボラが恐ろしい。
「ここは、きちんと再度確認ですよね。ほらほら、鉄兜もちゃんと取って!」
そう言いながら、キャンディがジェームスの鉄兜を背後に回って外してしまう。3人娘は、何故ジェームスが鉄兜を被っているのか知らなかったらしい。
眉の無い彼の顔が白日の下に曝され、辺りは一瞬静まり返った。
しかし、それも本当に一瞬の事。ベズコフ領都正門の真上にある街壁上は、やがて爆笑の渦に包まれたのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
草原の彼方此方で、残された魔狼の掃討が進んでいた。
フェンリルへの一連の攻撃の巻き添えとなった魔狼は多く、生き残った魔狼もそのほとんどが魔力枯渇状態であり、止めを刺すのは楽な作業であった。
警戒監視は未だ怠るわけにはいかないので、ジェームス達も街壁上に残っていたわけだが、そこに伯父であり討伐軍の司令官であるソロモン伯爵が現れた。
監視隊全員が敬礼で迎える。
ソロモン伯爵は、ゴダード卿ともう一人、傭兵風の男を伴っていた。監視隊の者達に労いの言葉を述べると。その傭兵風の男を皆に紹介する。イェルマーク王国騎士団から派遣され、今回の戦いに様々な助言を与えてくれたマロリー卿だという。
彼は、街壁の上にいる全員に祝意と敬意を表した後、明るい口調で語った。
「よろしいですか? 今回の討伐戦で死者は一人も出ていないのです。我々は、最悪3桁の死者を覚悟していました。もちろん、暴風魔石という予想外の強力な道具を手に入れたせいもあります。それでも、この奇跡とも言える完全勝利については、十分納得の行く解明作業が必要だと考えております。皆さんには、ルスダンの街で我々の聞き取り調査に是非、ご協力をお願いしたいのです。」
そう言うと、ソロモン伯爵の方に視線を向ける。伯爵も軽く頷いた。
「最終的な報告書は、我がイェルマーク王国騎士団及び、騎士学院での研究課題として、向こう数年間は活発な議論の対象となる事でしょう。テチス王国騎士団にも複製をお送りします。魔物討伐の今後の指針として、参考になれば幸いです。
ところで、私がこうして伯爵閣下に同行させていただいたのは、フェンリル打倒が為った直後のこの時点で、当事者の皆さんからその率直な感想を、直接お聞きしたいと思ったからなのです。今、最も強く感じている事を。」
そして、マロリー卿はジェームスに問い掛けたのだった。振り返って、この戦いをどう思うか? 対象が広すぎるのであれば、フェンリルをどう思うかでも良いと言われた。少しばかり考え込んだ後、ジェームスは思った事を率直に口にした。
「フェンリルは、力と俊敏性、そしてその圧倒的な速さで、どんな兵士や騎士より遙かに上の存在でした。そして、恐らくはどんな魔導師よりも強力な火球を放っていました。おまけに、大抵の人間より知恵も回る存在だったと思います。
だからこそ、我々は皆で力を合わせた。徹底的に議論し、集団で立ち向かった。そうしなければ、絶対に勝てないとわかっていたから。ただし、所謂チームワークの勝利だと美化するだけでは、不十分ですよね。頑張ったから勝てたというのは、ちょっと理由にはならないでしょう。
我々は事前に、そして徹底的に準備する事が出来ました。フェンリルと魔狼集団の討伐という目的のため、各人がそれぞれの役割を持ち、様々な局面でそれを完遂しようと務めました。想定外の事態が発生しても自分たちで考え、工夫し、最善を目指して足掻けたと思います。
人間の知恵の集大成としての知識と、目的を共有した上での連係が、フェンリルの力と魔法を打ち破ったのです。
言葉があったから、何百、何千という人々が同じ目的を共有し、行動出来た。
文字があったから、遠い過去の人々の知恵や経験すら、取り込む事が出来た。
フェンリルが知ったならば、きっと羨ましがったでしょう。人間の言葉や文字を。彼からすれば、それこそがまさに、驚異の魔法だったのかも知れません。」
ジェームスのその淡々とした主張に、その場の誰もが頷いたのだった。




