69. フェンリル討伐戦(10)削り合い
西の丘陵地帯に揺らめいていた炎の点は、やがて線となり、遂に面となった。
自分の頭上で燃え続ける松明の炎。半狂乱となった雄牛の群れは、丘の起伏に足を取られ転倒するものもいれば、限界まで体力を消耗し尽くして泡を吹き、倒れ込むものもいた。その度に、両脇に括り付けられた皮袋の中身を、乾燥し茶色に変色している冬の草原にぶちまけて、角の松明あるいは、皮袋の中の火魔石により着火して周辺を火の海へと変えた。
日没から既に十分な時間が経っており、本来なら漆黒の闇に覆われているはずの西の空が、まるで夕暮れ時の様な明るさ。牧草地の広範な領域が燃えていた。
領都にいる誰もが、今や魔狼の塒と化した草原が炎に包まれた事を知る。
今頃、多くの魔狼が牧草地の中を必死に逃げ回っているに違い無い。そして、放牧されていた家畜は、未だ生き残っているのだろうか。
塒を焼き討ちされ、逃げ惑った直後の魔狼には、直ちに組織的な行動を起こす事は不可能だろうと推測されていた。魔狼が集団で動き出すのは明朝以降と判断し、見張りの者以外は就寝するように指示された。尤も、歩兵部隊の多くは正門前方の草原に配置されている大亀周辺で、徹夜の土木作業に勤しんでいたのだが。
こうして、決戦前夜の夜は更けていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝、フェンリルと魔狼の集団は、ベズコフ領都北方の川沿いに集結していた。北門、西門の見張りの報告では、散発的に川を渡って来た魔狼の小集団が、その位置で仲間を待っている状況であり、最後にフェンリルも合流したらしい。
一部の魔狼が大亀拠点からも見える位置まで姿を現した。偵察隊だと思われる。
事態はここまで、ほぼ想定どおりに推移していた。
「思ったよりも、牧草地の野焼きの臭いがきついな。風向きも影響しているのか。」
討伐軍司令官のソロモン伯爵が呟く。
彼は、今日の決戦の中心地となるであろう、領都正門前の大亀配置拠点に早朝から詰めていた。この位置から魔狼の集団は見えない。
大亀拠点の前方には領都の正門と街壁が見える。その間には大がかりな焼き肉の “宴会場” が設けられていた。大量の薪を燃やし、その周囲には家畜の肉塊を刺した太い杭が地面に突き立って並べられている。そんな “焼き場” が3カ所。
魔狼とフェンリルを誘い込むためのものだが、風向きが悪いのか、それともフェンリルの魔狼に対する統制力が想像以上に強いのか、“来客” は未だ無い。
「風の魔石で肉の焼ける匂いを送りつけますか? 強風魔石がありますから。」
海まで行って風魔石を手に入れて来たゴール卿が意見する。まあ、この際何でもありだろう。ソロモン伯爵は頷く。大亀拠点の側で待機していた騎兵3騎が、強風魔石を受け取ると、前方150歩ほどの場所にある焼き場へと駆けて行った。
この大亀拠点の場所は、正門から少々離れている。正門上からの攻撃もありとして、前後から挟撃する事も考えられたが、魔法の有効射程が約300歩。挟撃を可能とするなら、味方相互の距離は600歩以下になり、バリスタなら届く距離だ。
乱戦になった場合に同士討ちの可能性が否定出来ないという事から、大亀拠点と焼き場は、領都から距離を取ることになった。
その代わり、大亀は3台ずつが、領都側から見て「ハ」の字の配列になっており、焼き場目がけて撃つ分には、どれだけ撃っても味方には当たらない “十字砲火” の配置となっている。
一方、防御策として大亀拠点外周には、しゃがめば人が隠れられる溝、すなわち塹壕がグルリと掘ってある。さらに、そこで出た土や周辺の土を詰めた土嚢を、塹壕のやや外側に胸の高さまで積み上げてある。
魔導師が土嚢の背後に隠れる形で配置に就く。両脇には大盾と暴風魔石を持った護衛が付き、すぐ背後が塹壕である。火球攻撃や敵の接近時には、直ちにこの塹壕に身を隠す事になっている。土嚢と塹壕は、暴風魔石が持ち帰られる前から構想されていた防御策であった。
焼き場から薄らと上がっていた煙が、突如右手の方向すなわち、北側へと向きを変え、すぐに周囲に霧散した。強風魔石が起動したのだ。そのまましばらく待っていると正門上で鐘が鳴り響き、旗が振られ始めた。魔狼に動きがあった様だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
フェンリルは意表を突かれた。空腹には堪らない何とも良い匂いが漂って来る。眷属達もそわそわと落ち着きが無い。昨夜、塒の彼方此方で突然に “ユラユラ” が立ち上り始めた時は驚いた。丘陵地帯に分散していた眷属達を、なだめすかして追い立て、場所によっては強引に炎を突っ切らせて川まで辿り着いた。
元からここにいた、二本足の飼っていた獣達は、どうやら全滅した様だ。
そんなこんなで、当然誰もが昨夜から何も食べていない。腹ぺこ状態だ。
そこに、この匂い。若い連中は既に駆け出し始めている。群れ全体も、やがて匂いに向かって移動を始めた。おかしい! 明らかにおかしい。罠の可能性が高い。
それでも、皆、引き寄せられて行く。まあ、仕方無いか。
石壁を回り込むと、ご馳走が見えた。ユラユラの周りに肉が並んでいる。そこから何とも我慢するのが難しい匂いがやって来る。群れの先頭の連中はそのまま飛び込んで行き、大きな肉塊に齧りついた。一心不乱に食べ始める。ユラユラに炙られた肉は、どうしてこんなに良い匂いを発するのか。味もきっと良いに違い無い。
『駄目だ! 食い物の事で頭の中が一杯になる。これは、罠なんだ!』
そう心の中で叫んではみたが、目の前の誘惑には勝てず・・・
その直後、後方で魔力の急激な高まりが感じられた。それもたくさんの数!
咄嗟に魔力を漲らせ、横へ思いっ切り飛んだ。次の瞬間、自分のいた場所を何かが通り過ぎていった。そして、自分が噛み付いていた肉に細長い棒が2本、突き立っていた。
横に飛んだ勢いで、草原を転がる。すると今度は、たくさんの火球がさっきまで自分がいた場所に殺到した。危なかった! 先ほど感じた魔力の高まりは、こいつだったのだと得心した。一緒に肉に齧り付いていた眷属達は吹き飛ばされるか、火達磨となってのたうち回っている。本当に危なかった!
二本足にも火球を放てる奴がいる。しかも大勢。驚きと恐怖が心を満たす。
いや! そうじゃない! 火球は事前に予見出来た。本当に怖いのは細い棒の方。
そう! 先日、森の中で味わった、あの恐怖! そうだ、あれと同じ物だ。
後方を見ると、そこに並んでいる物体は、先日、森の中で木々の隙間に見えたのと同じ物だと思えた。まずい! こいつが一番厄介だと直感した。潰せ!
フェンリルは敵に向かって火球を2つ放つと、身体強化を使い、猛然と駆けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
前方の焼き場に魔狼が殺到していた。フェンリルまでが、そこへ近づいて行く。
そして、肉塊の1つに齧り付き、一心不乱に貪り始める。遂に来た! 好機到来!
騎士団で全体攻撃の指揮を任されているアッカーマン卿は拳を握り締める。
魔導師のリーダーがこちらに頷く。口元を引き締め頷き返す。ルスダンの街で何度も訓練したとおりだ。魔導師が杖を掲げ詠唱を始める。次々に火球が出現する。
そして、一斉に火球を放つ。それを合図に次の瞬間、6台の大亀の上に備え付けられているバリスタからも即座に矢が放たれた。目標は、フェンリル一択の斉射!
バリスタの矢が一瞬にして魔導師の火球群を抜き去り、白銀の的に向かう。
そう思った瞬間、フェンリルが “ぬらり” と横に動いた。そのまま草原を転がる。
草原上で静止したフェンリルがこちらを見つめる。咄嗟に「防御」と叫ぶ。
訓練どおり、魔導師が背後の塹壕の中に飛び込み、身を屈める。両脇にいた護衛の騎士達が土嚢の陰に身を潜め、次々に暴風魔石を起動させて行く。
辺り一帯に、暴風魔石の発するゴゥ!という音が鳴り響く。
次の瞬間、フェンリルが火球を放った。1発、2発。
そして、火球は頭上を通り過ぎて行った。こちらの被害は・・・
無い! 暴風魔石は見事にその役割を果たしていた。こちらは完全に無傷!
だけど、いない! フェンリルがいない! 視界から消えた! そして、頭上に影?
何と、大亀拠点の脇からフェンリルが空中に躍り上がり、一番右端の大亀の上に着地! 後脚でバリスタを蹴り飛ばすと、そのまま隣の大亀の上に飛び移り、再び、バリスタを蹴り飛ばす。流れる様な動作で繰り返して行く。
こちらが正気に戻った時、6台全てのバリスタが破壊され、フェンリルは焼き場に向かって疾走しているところだった。
『フェンリルが一番怖れていたのはバリスタだったのか!』
そう思い知らされた。しかし、既に “後の祭り” だ。
塹壕から出て、護衛騎士の横に立った魔導師達が、各個に火球を放ち始めるものの、疾走するフェンリルに命中させるのは難しい。そして、再び静止した。来る!
フェンリルの火球は、またしても暴風魔石によって上へ逸らされた。
気のせいだろうか、フェンリルもこの結果には驚いている様な気がする。
静止しているフェンリルに対して、魔導師達が再び一斉に詠唱を開始する。
しかし、その魔導師達が詠唱を中断して膝を着いた。どうしたという攻撃指揮官の問い掛けに、魔力波だと魔導師の1人が苦しげに答える。
フェンリルが放ったのであろう強烈な魔力波によって、詠唱を妨害されたのだ。
魔導師達とフェンリルが睨み合いながら、戦場には不思議な膠着状態が訪れた。
「騎士団! 風魔石を受け取り、フェンリルに突撃開始!」
この停滞を打破すべく、総司令官であるソロモン伯爵の命令が轟く。
魔物の異常種に対する騎士団の十八番である、集団突撃が開始されるのだ。
本来は、魔導師の火球群による集中攻撃を受けた直後の魔物に対し、一列縦隊の騎兵が投げ槍を片手に突撃し、接近しては次々に投擲し離脱する戦法。
複数の縦隊が魔物に息つく暇を与えず、次から次へと攻め続けるため、騎兵の連係は極めて重要である。そのため、今この場にいる騎士達はすべて、王国騎士団の者達となっている。
テチス東方諸領の騎士団員は、魔狼のここからの逃走を阻止するため、ルスダンに向かう街道の入口周辺に配置されていた。大亀拠点からも時折、後方にいる彼らの一隊が周回しているところが目撃される。最終的には、ルスダンの街やボーア領の村々の防衛が彼らの任務だ。
そして、大亀拠点後方に待機していた騎士団が司令官命令で動き出す。
あたかも、鎌首を持ち上げる大蛇の如く、10人からなる騎兵の縦隊が次々に左右へと分かれ、ゆらりと大きく迂回しながらフェンリルの方向へと進み始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「始まったな。副団長も腹を括ったと見える。」
ジェームスの隣でそう話すのは、領都駐留騎士団の指揮官、ゴダード卿。
配下の部隊をベズコフ領都の中央付近で待機させた後、副官を連れて領都正門上の街壁から観戦中である。
「先頭と最後尾は、槍を持ってないんですね。」
傍らで観戦するジェームスが応じる。この場には、監視隊のマルス卿やシュルツ、そして、宮廷魔導師の3人娘もいる。さらには、自警団の者達や少し離れた所には、例によって取り巻きを引き連れたモーリの姿もあった。
「例の魔石を持たせて、防御に専念という事だな。有り難い話だ。」
そう言うと、3人娘の方を見て、軽く頷く。彼女達が風魔石のアイデアを出した事を知っていた。暴風魔石のおかげで、命懸けの突撃が危険な突撃へと軟化した。
もちろん危険は十分にある。それでも生き残る可能性は格段に高くなったのだ。
そして、最初の縦隊がフェンリル目がけて突進する。
横合いから5,6頭の魔狼が接近して来たが、接触する前に吹き飛ばされた。
最後尾の騎士が暴風魔石を使ったようだ。そのままフェンリルへと向かう。
フェンリルが火球を放つ。既に先頭の騎士は魔石を起動した状態で走っていた。しかし、フェンリルの火球は縦隊の手前の地面を狙っていた。慌てて、暴風の向きを下に向けるが間に合わない。縦隊のすぐ横の地面を火の帯が通り過ぎて行った。
幸運にも難は逃れたものの、馬が怯えてしまった。先頭の馬はコースを外れて、フェンリルから逃れる方向に走りだす。後続も追従して行くしか無かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
離れて行く第一波の攻撃隊を見つめるフェンリル。縦隊最後尾の騎士が、背後を振り返りながら片手をフェンリルに向けて突き出していた。しかし、火球が逃げ去る縦隊の背後から襲いかかる事態にはならなかった。フェンリルは絶好のチャンスに撃てなかったのだ。
複数の火球がフェンリルに迫っていた。身体強化で咄嗟に火球の射線から外れ、魔導師達に魔力波を放つ。火球とは違い、魔力波なら即座に放つ事が出来た。さらに、火球を邪魔する強風らしきものも、魔力波には影響しない事も知った。
ただし、相手は横に広く布陣しており、咄嗟の一撃で無力化出来たのは、ほんの一握りの魔導師だけであった。
すると、その直後、先ほどの縦隊とは反対方向から接近して来る部隊に気づく。既に、かなり近くまで迫って来ていた。次々に細長い棒を投げ込んで来る。咄嗟に身体強化を使って、その場で高くジャンプし、その棒の群れを避ける。際どい!
着地した時には、縦隊は遠ざかりつつあった。そして、再び火球が迫って来る。
息つく暇も無い! 何というしつこい攻撃。こんなものは魔の森時代も含め、今まで経験した事が無かった。それは、人の連係のみが可能とする高度な波状攻撃。
フェンリルの脳裏を、逃亡という考えが過る。いや! 難しい。逃げるとしたら、東しか無い。それは、あの火球を放つ連中のいる方向だ。
どちらも厄介だが、まだ火球の方が事前に予測出来るだけ対処しやすい。
これは、恐らく魔力の削り合い。敵の火球が無ければ脱出は容易になる。ここは、魔力を温存しつつ、敵の魔力が無くなるのを待つしか無い。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「見事ですね!」
「ああ、これほど見事な連係は初めて見るな。」
ジェームスの感嘆の言葉に、ゴダード卿も同感だと返す。
「騎士団同士の連係は通常どおりだが、敵さんから離れた時に魔導師の火球が絶妙のタイミングで放たれ、騎士団の接近と離脱が実に容易になっている。
魔導師の取りまとめ役をやってくれた宮廷魔導師ロイス卿の協力には感謝しか無い。宮廷魔導師団のいつもの幹部達とは大違いだな。
フェンリルもこの波状攻撃の下では、逃げ出すのも難しいだろう。このまま魔力枯渇状態まで押し切れそうかな?」
ゴダード卿が、そう話して魔導師3人娘を見る。クリスが厳しい顔で応じた。
「フェンリルの魔力保有量がどの程度なのかに掛かっています。魔導師の魔力残量は、今までに撃った火球の数から見て、そろそろ限界が近いはずです。」
戦場は魔力の削り合いの場と化している。ふとそこで、ジェームスは気づいた。
先ほどからフェンリルは、火球を放っていないのでは? しかし、それは楽観的な考えだと自戒した。利口な敵なのだ。魔力を温存している可能性は十分にある。
そして、魔力勝負の結末が遂に戦場に訪れた。誰の目にも明らかに。
騎士の縦列突撃を援護するため、フェンリルへ放たれていた魔導師の火球が、徐々に減少して行き、遂に無くなってしまったのである。
大亀拠点では、多くの魔導師が地に両手を着き、荒い息を吐いていた。
バリスタに続いて魔導師の火球という、フェンリルに有効打を与えられる遠距離攻撃の手段を、人間側は失った。
街壁上の者達、そしてこの草原の誰もが表情を硬くし、唇を噛みしめる。
それでも、攻撃は続いていた。もはや、唯一の攻撃手段、騎兵突撃。
そして、今まさにフェンリルに肉薄していた縦隊が、思い切った手段に出た。
縦隊後方の4人が、前方の4人の槍の投擲から、ほんの一呼吸待ったのである。その時、フェンリルは真上へのジャンプで躱そうとした。それを見越して、縦隊後方の4人は、敵の頭上に向けて渾身の投擲を放ったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ジャンプの瞬間と着地の瞬間だけの “省エネ” 身体強化は、魔の森の深奥で幼い頃に覚えたフェンリルの特技だった。普通なら飛べない高さまでジャンプする身体強化。当然、着地時の衝撃は大きいから、着地にも身体強化は必要なのだ。
身体強化は、火球を放つ事に比べれば、魔力の消費はずっと少ない。それでも、飛んで来る細い棒を避けるためには、身体強化の瞬間行使だけでは難しかった。
ようやく敵の火球が飛んで来なくなり、そろそろ脱出のチャンスかと。ほっとしながら安易に真上へ飛んだ時だった。ジャンプした位置に細長い棒が飛んで来る。
咄嗟に再度、身体強化を発動し、前脚で棒を払い除けた。そして、着地。
ところが、着地が上手くいかなかった。バランスを崩す。着地の瞬間の身体強化がすんなりと発動しなかったのだ。まさか・・・




