舌戦
「やっと二人きりになれた。ね、沢木さん」
そう言った少女、早紀が音楽室のドアを閉める。その瞬間、見慣れているはずの音楽室が、雨海には知らない場所のように冷たく感じた。
ゆっくりと振り向いた早紀は、人好きのしそうな笑顔で雨海に近づいてくる。
だが雨海には、その笑顔が気味の悪い何かに見えて仕方なかった。
「……あなたの用事はもう済んだのでは? なら出て行ってください。練習の邪魔になりますから」
「いやいや、私は沢木さんに用事があって来たんだってば」
はっきりと退室を促されても、早紀はお構いなしにパイプ椅子に腰を下ろした。
正直に言えば雨海は、この少女と関わりたくないと心底思っていた。
本当ならこの不気味な少女から逃げ出したい。けれど逃げたら負けだ。関わりたくない以上に雨海は早紀に負けたくなかった。
「沢木さんには、ちゃんと春のことを諦めてもらわないとだからね」
「そればっかりですね。やっぱり暇なんじゃないですか」
「それはこっちのセリフだよ。沢木さんこそ暇なんだね、そんなもので遊んじゃって」
そう言う早紀の視線の先、そこには雨海が春からもらった、裁縫セットが広げられている。
苦々しく思うも、今更片づけたところでもう遅いことも、雨海は理解はしていた。
「ピアノの練習もしないで、そんなおもちゃで遊んでるなんて、どれだけ暇なの?」
「……ないわよ」
「え? なんて言ったの?」
「遊びじゃないって言ったのよ」
雨海は語気が強くなるのを抑えられなかった。怒気を強める雨海に対して、早紀は余裕の笑みを崩さない。
「そんなに怒らないでよ沢木さん。私はピアノやらなくていいのって思っただけなのに」
「あなたには関係ないでしょ」
「でも、特待生が練習しないで裁縫してたら誰でも思うよ」
「……私にとってはこっちのほうが大事なのよ」
「大事って、もし指を怪我したら大変なんじゃない?」
「そんなの関係ないわ。言ったでしょ、私にとってはこっちが大事なのよ」
「ふ~ん、そうなんだ」
雨海からはもう、いつもの仮面が完全に外れていた。
最初から気に食わなかった目の前の少女、早紀を鋭い視線でにらみつけ、言葉にも怒っているという気持ちがのっていく。雨海にはもう、それを抑えようと思う気持ちもない。
「でもそれ、春のだよね? もしかして盗んだの?」
「バカじゃないの。もらったのよ」
「まぁそうだよね。じゃあやっぱり春とは何度も会ってるわけだ。迷惑だなぁ」
「迷惑? 私たちのことはあなたには関係ないでしょ」
「春の将来にとって余計なんだよ。だから沢木さんには早く諦めてほしいんだけど」
雨海が何よりも我慢できないのは、早紀の春に対する考え方だ。
早紀は春が将来バドミントンの選手として活躍すると思い込んでいる。そのために不要なことを、春の意思とは関係なく、勝手に間引こうとしているのだ。
それは春が一番されたくないこと。自分のことを他人に決められ、意思のない人形として生きるなんて、春は望んでいない。
幼い頃から一番春の近くにいて、どうしてそれがわからないのか。
そう考えるだけで雨海は、目の前の少女に憎悪が無限に湧いてくる気さえした。
「あなたこそ、春の将来には必要ないわ」
雨海が言ったその一言で、場の空気が凍りついた。少なくとも雨海にはそう感じた。
「何言ってるの沢木さん。ふざけたこと言わないで」
早紀の顔には、先ほどまでの笑顔はもうない。怖いくらいの真顔で訂正を求めてくる。その身体から威圧するような気迫を、雨海はたしかに感じた。
それでも雨海だって、一歩も引くつもりはない。
春と一緒にいるのは自分だと、目の前の少女に分からせたくて、気持ちを込めて睨み返す。
「ふざけてないわ。あなたが一緒だと春がかわいそうだと思ってね」
「はぁ? 私と春はね、今までずっと一緒にいたの、わかる? 沢木さんがはいる余地なんてないの」
「幼馴染のくせに、春のことを何もわかってないじゃない。辞めたら? 幼馴染」
雷が落ちたかと錯覚するような音が響く。
早紀が勢いよく立った反動で、パイプ椅子が派手に転がった音だった。
「そこまで言うってことは、沢木さんも春が好きなのね? 身の程をわきまえて今否定するなら、それと春なんて、馴れ馴れしく呼ぶのをやめたら許してあげてもいいけど?」
最後通告のように語りかけてくる早紀。
早紀が本気でかかってきたら、運動すらまともにできなかった雨海には、どうすることもできないだろう。
それを理解して雨海は、薄い笑いを浮かべた。
「私は春が好き。そして春も私が好きなの。あなたこそもう諦めたら」
言い切って、雨海は歯茎を見せる。
早紀の感情を煽って手を出させるため。
取っ組み合いなんてするつもりは雨海にはない。はじめから勝てる見込みなんてないし、手を出さなければ雨海はただの被害者だから。
怪我のあとでも残れば、早紀を追い詰めるのなんて簡単にできる。
そう考えていた雨海の前で、早紀は、
「あははっ!」
愉快そうに笑っていた。
「何がおかしいのよ」
「全部上手くいったからね」
それだけ言うと、早紀は雨海に背を向けた。
挑発に乗ってとびかかってくることなんてなく、淡々とにドアに向けて歩いていく。
その異様なまでの冷静さが、先ほどまでの様子は演技だったのだと、そう物語っているようで。
「どうぞ入ってください。ちゃんと聞こえてましたか?」
雨海の目の前で、早紀が音楽室のドアを開ける。
ゆっくりと開かれたドアから中に入ってきたのは、雨海がよく知る人物だった。
「えぇ、全部聞かせてもらいました。本当に残念よ雨海ちゃん」
そこでやっと、雨海は早紀にはめられたことに気がついた。
「せ、先生……」
「今聞いたことは全部お母さんに報告させてもらうわよ」
けれど気づいたところで、もう何もかもが手遅れだった。




