やっとキミとふたりきり
翌日の昼休み。
今日は予定通り講師が休みだと聞いた春は、二日ぶりに雨海とふたりきりの放課後を過ごせることを喜んだ。
雨海のその表情からも、彼女の嬉しさが伝わってくる。
「緊張したぁ。なにかの合格発表みたいな気分になったよ」
「私も直接聞くまで気が気じゃなかったわ」
二人で胸をなでおろす。
これでもし今日の放課後ダメになっていたら、期待していたぶん大きなダメージを受けていたに違いない。
春は安堵と同時に、緊張していたぶんの疲労を感じた。それだけ雨海と一緒に過ごせるかどうかが、今の春にとっては大きなものになっているということだろう。
「それにしても、今日は平気だったのね?」
「ん、あぁ、早紀ね……」
雨海の心配はもっともなことだ。昨日まで春は早紀に付きまとわれていたせいで、音楽室に行くのも簡単ではなかった。
雨海が来てくれて、言い争いにまでなりそうなほどだったのだから。
そんな昨日までとは違い、春はすんなりと音楽室まで来ることができていた。
春は別に早紀を言いくるめて逃げてきたわけではない。
今日は早紀があまり教室までやってこなかったのだ。
いつもなら休み時間のたびに春の様子を見に来ていたのだか、今日は一度来たきりだった。
その時に早紀から「ごめん春。今日はちょっと忙しいからあまり来れないの。寂しいかもしれないけど我慢してね」と言われていた。
若干の苛立ちを感じつつ、それでも春に文句はなかった。早紀がいなければ、それだけ春が行動しやすくなるからだ。
そんな状況を自ら逃すほど春もバカではない。適当に返事をして了承しながら、内心では喜んだ。
それから早紀は彼女が言っていた通り、春の教室まで来ることはなかった。おかげでこうして春は自由に行動しているというわけだ。
春からすれば、かなりラッキーな状況。なのだが、
「あら、もしかして寂しいの?」
「いやいや、かなり嬉しい状況だよ。なんだけどね」
「どうかしたの?」
「なんていうか、おとなしすぎて怖いっていうか」
例えるなら、嵐の前の静けさというやつだろうか。特に何か根拠があるわけではない。だが春は、なんとなく早紀の動向が気になっていた。
「一応気を付けてて、直接変なことをしてくるかも」
「そうね。あの子なら何かしてくるかもしれないわね」
「そっちの教室とか、僕がいないところで何かしようとしてるかもしれない」
「そしたら貴方のところに逃げるから、助けてよね」
わざとらしい上目づかいで見つめてくる雨海。春はからかわれているとわかっているのに、その可愛らしさに何も言えなかった。
「まぁ、今は忘れましょう。せっかく二人きりなんだから」
「そうだね。放課後もあるし、今日はいい日だと思っておくよ」
こうして昼休みの間、春は雨海との束の間の時間を過ごした。
二人きりの時間は、時が加速しているかと錯覚するほどに素早く過ぎ去り、あっという間に午後の授業が始まる。
先ほどまでの時間の速さが、嘘のように遅々として進まない授業を乗り越え、迎えた放課後。
まとまった時間を、雨海と一緒に過ごすことができるのは今だけだ。
このときを待っていた春は、内心の嬉しさを隠すことなく、意気揚々と音楽室へ向かったのだった。
「なんか、少し上手くなった?」
春が音楽室に行くと、雨海はすでに裁縫セットでぬいぐるみ作りをしているようだった。
はじめたばかりの頃は、かなり危なっかしい手つきだった雨海。だが、今は針を扱う様子も様になっているように見える。
「言ったでしょ、私は器用なの」
「そうやって言い切れるところが、かっこいいと思うよ」
春は隣に座って、雨海の手元に視線を落とす。
以前見せてもらった時は、辛うじて人の形かもしれないと推察できるくらいだった。
それがはっきりと、男の子と女の子のぬいぐるみだとわかるくらいに進歩していた。
それを見ただけで、数日前からしっかりと、雨海は進歩しているのだとわかる。
こんなにも上手くなったのは、本当に手先が器用なのもあるのだろうが、それ以上に、本心からやりたいと思えることだからなのだろう。
「え、すご! ちゃんと男の子と女の子だね」
「貴方と私よ。まだ似てはないってことね」
「あ、いや似てるよ。髪が長い!」
「貴方はもっと女性への気遣いを学んだほうがいいと思うわ」
春が反省しますと頭を下げれば、すぐに微かな笑い声が聞こえてきて、二人は一緒になって笑った。
久しぶりにむかえた穏やかな時間。
春は雨海と一緒のこの時間が好きで、目の前で笑っている雨海も、きっと同じように思ってくれていて、かぎられたこの時間を二人で楽しもうと、春はそう思っていたのだ。
『二年の泉田春君。職員室まで来てください。二年の泉田君。職員室まで来てください』
急に鳴り響いた校内放送。
名指しで呼ばれた春はもちろん。雨海も驚いたように身体を固めている。
放送が鳴り終わった後、二人はしばらくその場で動けずにいた。
まるで、怪物から隠れるホラー映画の登場人物のように、物音を立てないように一歩も動かず、息すらも吸うことを忘れていた。
「……どう思う? 早紀が何かしたかな」
「わからないわ」
春の頭に真っ先に浮かんできたのは、幼馴染の顔だった。
早紀が教師に、特待生の春が練習をサボって遊んでいるとでも伝えたのだろうか。そうして部活に連れ戻そうとしているのかもしれない。
けれど、こうして考えていたところで真相がわかることはない。
何が起きているのか、行ってみるべきかと考えた春は立ち上がる。が、雨海に袖をつかまれた。
「行かなくていいと思う。もう帰っていたことにすればいいのよ」
「そう、だね。それなら仕方ないと思える言い訳にはなるか」
雨海に同意して、春はパイプ椅子に座りなおす。
何があるかわからない。いろいろ想定しておいて、少しでも対応できるように、身構えてから行った方がいいかもしれない。
冷静に考えて動かなければ、そう考えていた春のまえで、何故か音楽室のドアが一人でに開いた。
「あ~! やっと見つけた! 探したんだからね春!」
音楽室に響く遠慮のない声。
当然ながら、ドアは一人でに開いたわけではなかった。声の主、ドアを開けて入ってきたのは早紀だった。
春の中で嫌な予感が一気に加速していく。
慌てて立ち上がるも、春にはそれ以上できることがなかった。
早紀に、雨海と二人でいるところを見られた。どう見ても備品の整理なんてしていないタイミング。
いつもなら、近づいてくる足音に雨海が気づいたはずだ。
だが、先ほどの校内放送で動揺していたのだろう。雨海も気が付けなかったことに驚いているらしく、固まってしまっていた。
この状況、春にできることは、すでに限られている。必ず来るであろう追及へ備えるために、春は必死になって言い訳を探した。だが、
「おじ様が来てるから、職員室に急いで!」
「は?」
早紀の口から出た言葉は、春が想定していたようなものではなかった。
予想もしていないことを告げられて、春はうまく頭が働かない。
早紀は今なんと言ったのか。何度頭の中で反芻しても早紀の言葉は変わらない。
「さっきの放送聞いてなかったの? ちょっと時間たっちゃってるから急がないと」
早紀は慌てているように見える。その様が春の焦りを募らせる。
「な、んであの人が」
「私も聞いてなかったの。部活に行く途中で会って、探してきてくれって、それよりこれ以上待たせると春が何を言われるか」
早紀が荒い息のまま、早口で状況を伝えてくる。どうやら早紀は、待たせすぎたせいで、春が怒られてしまうのことを恐れているようだ。
そんな彼女の様子を見て、春の頬を一筋の汗がしたたり落ちる。真に迫るその姿からは、早紀が嘘をついているようには見えなかった。
雨海のほうを振り向く。
状況についてこれていなそうだった雨海は、それでも視線が合うと頷いてくれた。
「行って、私は大丈夫」
「……ごめん。すぐ戻ってくるから」
「えぇ、待ってるわね」
「うん、また」
そんな短いやり取り。
けれども春には、それだけでも充分だった。
職員室にいる父親をなんとかして、すぐに雨海の元に戻ってくる。
それだけを考えて、春は職員室へ向けて走り出した。
「気を付けてね、春」
通り過ぎる間際、早紀が声をかけてくる。
早紀も本気で心配してくれているのだろうか、本心は分からない。春は頷きだけを返して通り過ぎた。
「やっとふたりきりになれた。ね、沢木さん」
雨海は目の前の少女をじっと睨みつけた。
それでも少女、早紀は気まずそうな感じさえ見せず、にこにこと気味の悪い笑顔のまま近づいてきたのだった。




