作成過程
「ねぇ春、最近帰りが遅いっておじ様心配してたよ。何かあったの?」
春が覚悟していた日常への変化は、想像とは違うところからやってきた。
昼休み。雨海との待ち合わせ場所である音楽室に向かう途中のこと。目の前に現れた早紀は、春にとっていつも以上の厄介者として見えた。
「別に何もないよ。学校で勉強してただけ、学生なんだから普通でしょ」
「でも、おじ様心配してた。春が部活にもう復帰したのか私に聞いてきたのよ?」
「それは本当に心配してたの?」
「もちろん。下手な練習をしちゃうと怪我の治りが遅くなるし、休むなら家で治すことに専念した方がいいって」
「それは単に……いや、とにかく別に心配されることでもないから」
「春は自分だけの身体じゃないんだって、もっと自覚して? おじ様だけじゃなくて私も心配なんだから」
廊下の端にまで聞こえるような遠慮のない声量。
早紀の言葉が聞こえたのだろう。離れたところいる数人の男子が妬ましそうな視線を向けてくる。
ちらちらと春を見ながら何やら喋っているが、どう考えても聞こえない方がマシな内容だろう。
そもそも春はそんなことを気にしてはいなかった。
今、春が一番気に障ったのは、自分だけの身体じゃないと早紀に言われたこと。
はたから聞けば、可愛い幼馴染に身体の心配をしてもらっているとでも聞こえるのだろう。だが春にはそうは思えない。
この身体は自分だけのもので、他の誰のものでもないのだから。
叫び返してやりたい衝動をなんとか抑え込む。前まではもっと簡単に自分の心を静められていた。この程度の物言いに、いちいち腹を立てることなんてなかった。
けれど、春はもう変わってしまった。それがいいことなのかは春には分からない。けれど事実として変わったのだ。
これからの早紀との会話は、春の想像以上に苦痛なものになるかもしれなかった。
「とにかく、これから放課後は私が一緒に過ごすから、部活に出るか帰るかは、その日で決めよ?」
「は? なんで?」
さも当然の決定事項のように、朗らかにとんでもないことを口にする早紀。春が思わず睨みつけても、明るい表情は崩れない。
「なんでって、さっきから言ってるでしょ、春が心配だからよ」
「だから、心配されることなんてなにもないってば」
「もう! 春はいつも我儘なんだから。私の言う通りにするのが、春の将来にとっても一番いいんだよ?」
「知らないよそんなこと、だいたい僕の将来は…」
「はいはい、駄々っ子はやめて諦めましょうね~。おじ様からもそうしてくれって頼まれてるんだから」
もはや春は限界だった。
父親も早紀も、いつもそうなのだ。
人のことをなんでも勝手に決めて、その通りなることになんの疑問も持たない。そうして春の全てを奪っていく。
かみしめた唇の感覚がない。口の中にはどろっとした温かい液体があふれ、鉄のような独特の匂いが春の嗅覚を直に刺激する。
「心配しなくても大丈夫。おじ様には私から怒らないように言ってあげるから、ね? じゃ教室に戻ろ、お昼まだでしょ? 一緒に食べよ」
早紀に手を取られる。
その瞬間、限界を超えた春がその手を振り払おうとして、
「あの、すみません。貴方が泉田 春さん、ですよね?」
聞こえてきたのは、まるで初めて会う人とする会話の定型文。けれどその声は、春にとって聞き間違えようもないほどに知っているもの。
声をかけてきたのは、他でもない雨海だった。
「あ、えっと、はい。何でしょうか?」
「よかった。先生に言われて探していたんです」
何かは分からないながらも、とっさに合わせるだけの臨機応変さは春も持ち合わせていた。やんわりと早紀の手を剥がして雨海の元に向かう。が、その前に早紀が春の前に躍り出た。
「春に何か御用ですか?」
「え? えっと、こちらの方は?」
戸惑ったような演技の雨海が、春に視線を向けてくる。その様子は可憐な少女が困っている姿そのものだ。
彼女の本性を知らない人たちが見たら、雨海がか弱く愛らしい女性だと、無条件で信じてしまいそうだ。
きっと普段の雨海は、この仮面をかぶって過ごしているのだろう。だからやたらと評判がいいのかと、春は少し場違いなことを考えながらも演技を続けた。
「あ、幼馴染の…ただの知り合いです。特に気にしないで」
「ちょっと春? ただの知り合いはないでしょ」
「そんなことより、先生が用があるとか」
早紀のことは無視して雨海に話をふる。雨海も春の考えを理解したのかそのまま合わせて会話を続けてくれた。
「これから音楽室の備品の片付けがあるんです。私一人でやる予定だったんですが、先生が泉田さんのことを紹介してくれて」
「えっと、僕をですか?」
「今は部活をしてなくて暇だろうから、手伝いに丁度いいと」
「ははは、まぁ暇ですね」
「先生からも話をしてくれると言っていたのですが……もしかして、聞いてませんか?」
「あぁ~そういえば、言ってたような。すいません。今からですよね? 行きましょうか」
話を適当に合わせていれば、雨はここから連れ出そうとしてくれているのは、春にもすぐにわかった。
そうして話がついて歩き出そうとした春と雨海。だが納得できない者が一人。予定調和のように立ちふさがってきたのは早紀だった。
「ちょっと待ってください。沢木さんですよね? ピアノの特待生の」
「は、はい。そうですけど」
「あのですね。春は確かに部活を休んでますけど、それは怪我をしているからなんです」
「そうなんですか? それで、何か?」
「何か? じゃなくてですね。手首の怪我なんですよ。備品の整理って、負担がかかりそうなことは出来ませんから」
「あの、一応先生からの指名なのですが」
「そんなの関係ありません。春は今大事な時期なんです。怪我をしっかり治さないと将来にも影響するかもしれないんですよ。どの先生か知りませんけど、いったい何を考えてるんでしょうね」
妨害しようとする早紀は道を開ける気はないらしい。学校の教師という存在を出しても引く気配が一切ない。
雨海の様子を見ると、若干頬が引きつりだしていた。春は雨海に早紀の話しもしていたけれど、実物は雨海の想像をかるく超えていたようだ。
「どの先生か教えてください。私が直接こういうことは困ると伝えてきます」
「ええと、ですね」
さすがの雨海も困り顔だった。その表情からはこれ以上の策はないのだろうということがわかる。
けれどもこの流れを無駄にはできない。春は多少強引にでも切り抜けることにした。
「いや、それくらいなら大丈夫。手伝います」
「ちょっと春!」
「大丈夫だよ。重いものとかは持たないから」
「なら私も一緒に行って、大丈夫かどうか確認するから」
「いや、早紀はそれよりも先生に言ってきたら? この前うちの担任が何か頼むって言ってたから、たぶんこれでしょ」
「え、そうなの?」
「ほら、丁度あっち歩いてるし行ってきたら?」
「あ、ホントだ! ちょっと言ってくる。そこで待っててね」
言いながら駆け出していく早紀。その背中を見送ることなく、春は雨海を連れて歩き出した。
「あの子、相当ヤバい子ね」
「でしょ? いい加減にしてほしいよ」
そんな春と雨海の呟きは、もうだいぶ遠くにいる早紀には聞こえていないだろう。
それから、音楽室に着いた春は、雨海から今日は講師が予定通りに来ることを聞かされた。
つまり今日は、雨海と一緒に放課後を過ごせないということで、春は自分で思っていた以上に、落ち込んでいる自分がいることに気が付いた。
「せめてお昼だけでも一緒にいたい」
「私もよ。まぁあの子のおかげで時間も削られちゃったけど」
「ちょっと怖いんだけど、早紀がここまで来たりしないかな?」
「大丈夫じゃない? 本棟の音楽室に行くでしょ。もしきたらすぐに聞こえるから安心して」
「そういえばそうだったね。頼りになります」
「もっと敬ってもいいのよ」
結局、昼休みの間に早紀がやってくることはなかったおかげで、春は雨海との時間を過ごすことができた。
休み時間の間だけ、短すぎると感じつつ、それでも春は、確かに幸せだった。
放課後。今日は雨海とは一緒にいられない。それはわかっているというのに、春の足は自然と音楽室に向かっていた。
バカな事をするつもりは春にはない。ただ、一瞬だけでも雨海を見てから帰りたかったのと、少し心配だっただけ。
一応お昼のことを考慮して、早紀に見つからないように注意する。まっすぐ音楽室には向かわず、別の場所で適当に時間を潰してから、頃合いを見て音楽室に向かった。
この時間ならもう部活もとっくに始まっていて、さすがに早紀も体育館にいるはずだから。
結果としては春の考えた通り、早紀には出会うことなく音楽室の近くまで来ることができた。
いつもと変わらない廊下。違うことがあるとすれば、廊下の突き当り、音楽室のドアの向こうからピアノの音が聞こえてくること。
綺麗な音色なのだろう。
よどみなく響いてくるその旋律は、思わず足を止めて聞き入ってしまうような、音楽のことを何も知らない春にさえ、そう思わせるような魅力があった。
ドアの前まで来た春には、もうはっきりと聞こえているピアノの音色。けれども、春はその美しい旋律が好きにはなれなかった。
この音が雨海を、春の大切な人を苦しめている。そう思うと憎しみすら湧いてきそうだった。
『やめてやめて! 全然ダメじゃない!? どうしたっていうの?』
突然、ドアの向こうからもれてきた声。それと同時にピタッと止まるピアノの音。
『ねぇ、適当に弾いてるでしょ? やる気ないの?』
『いえ、そんなことは』
『技術以前の問題だわ。感情がまるで入ってないのが丸わかりよ』
『すみません』
『はぁ、こんな演奏聞いたら沢木さんがどんな顔するかしらね』
『すみません。しっかりやりますから、母には……』
『なら初めからちゃんとやりなさいよ。あなたの出来は私の信用にも関わるのよ。わかる?』
『はい、すみません』
『……最初から』
あの演奏のどこがダメだったのか、素人の春には考えてもわからないし、そんなことはどうでもよかった。
このドア一枚向こう側、そこにいるのは春と父親そのものだったから。
本人の意思は関係ない。親や同じ立場の大人たちは、自分たちの面子のために練習を強制する。
上から押さえつけられ、向こうが満足するまで、何度も何度も繰り返しやらせれる。
やりたくなくても、疲れていても関係ない。
そういう扱いを受けているうちに思うのだ。
自分はこいつらの作品だと。
そう身体と心に刻み込まれ、すっかりと道具のようになり、逆らう気なんてなくなってしまう。
春はそうなった。
父親は物凄く嫌いなのに、反抗したいのに、いざ本人を目の前にするとできなくなる。
雨海もそうなのだろう。今音楽室の中にいる講師と、ここにはいない母親。それが雨海にとって春の父親と同じもの。
普段はあんなに強気な雨海が、今聞こえる声からは見る影もない。
春はただ辛かった。
怒りたかった。
雨海を連れ出したかった。
でも、それはできない。
これ以上聞いていられなくなった春は、ピアノの音から遠ざかりたくて、足早にその場を離れた。
追いかけてくるようなピアノの旋律。
美しいその音色が春には、トラウマになりそうな恐ろしいものに聞こえた。




