指を切る
「これ、よければ使って」
「……これって」
翌日の放課後。
春があるものを差し出すと、雨海は面白いように目を見開いた。
春の顔と差し出したものを、交互に見やる雨海の表情があまりにも可愛らしくて、ちょっとくらい揶揄おうと考えていた春は、そんなことをする気にもならなかった。
「昨日話しを聞いてて思い出したんだ。小学校の時に僕が使って裁縫セット。おもちゃみたいなもんだけど、布とか綿とかも入ってたし、それにコンパクトで逆に隠しやすいかなって、あ、もちろんよければどうかなってだけで、いらなければー」
「ありがとう」
逆に気恥ずかしさを感じて、まくしたてるように喋っていた春の言葉を途中で遮ったのは、雨海のお礼。
「ありがとう。大切にするから」
春が差し出した裁縫セットを、まるでこの世で一番貴重なものであるかのように、優しい手つきで胸に抱く雨海。
無邪気に歯を見せて笑う彼女の笑顔は、春にとってこの世で何よりも尊いものだと思えた。
「ど、どういたしまして」
その時だろう。春が自分の気持ちを自覚したのは。
一度自覚してしまえば、それはもう抑えることなんて、到底できるものじゃない。
一度超えてしまえば、もう戻ることができないのは世の常で、それは春も同様だった。
これまで帰る合図にしていた、学校の下校時間までだなんてとても足りない。
もっと一緒にいたい。
もっと、ずっと一緒にいたい。
春の中でその想いが抑えきれなくなり、あふれ出す。
そして、
「ねぇ、ちょっとくらい寄り道していきましょう?」
そう思っているのは、雨海も一緒だったのかもしれない。
それからは毎日帰り道の途中で寄り道をして、春は雨海と二人きりの時間を過ごした。
いつもの帰り路とは違う方向。学校からそこまで離れていない場所にある、なんの遊具もないような小さな公園。
遊んでいる子供すらいない。そんな、ただベンチだけがあるその場所で、春は雨海と肩を寄せ合って過ごす。
夕日が沈みそうな黄昏の中、どちらからともなく手を繋ぐ二人。
気恥ずかしさなんて感じる隙間は微塵もないほど、春の心は、幸せという感情でいっぱいで。
初めて二人で過ごした時にあったお互いの距離は、今は零になっていた。
唯一のベンチに座って、足りないものを埋めるかのように言葉を交わす。
もちろん繋いだ手はそのままで。
春も雨海も、はっきりと口にしたわけではない。
それでも、はたからみれば二人の関係はあきらかで、この光景を見れば誰でも恋人同士に見えるだろう。
春の肩に感じるのは、程よい重みと温かさ。
最初に見たとき、鉛のように重そうだと思った雨海の黒髪は、天使の羽なのかというほど重みを感じない。
サラサラと流れていく髪に街頭の灯りが反射して輝く。その光景は、春にはそこに、もう一つの星空があるように見えた。
「ねぇ、子供は何人ほしい?」
「……あの、僕もたいがいな事考えてたし、似たような気持ちなんだってわかって嬉しいけどさ、さすがに飛躍しすぎじゃない?」
「いいのよ。だって私、もう貴方以外の人とは一緒にいれる気がしないもの」
ふざけているのか思えば、そうではなく真剣だと訴えてくる雨海の瞳。
春は初めて雨海と会話をしたとき、どこかズレていると言われたことを思い出す。その言葉を否定する気はないが、春には雨海の方がよっぽどズレていると思えた。
それでも雨海は見る限り真剣そのものだ。
この先二人で人生を歩むなら、些細とは言えないその質問に、春は一瞬こたえづらさを感じた。
春は自分の答えが、あまり褒められたものではないことなのだろうと思っていたから。
けれど、それでも雨海ならきっと分かってくれるはず。そんな根拠のない確信が、春に口を開かせる。
「僕は、子供はいらないよ。自由に使える時間があるなら自分と……キミのためだけに使いたい」
言い切って雨海の方を見る。彼女は、
「……ほらやっぱり、私には貴方しかいないわ」
わかり切っていたかのように、安心して春の肩に頭を預けたままそう答えたのだった。
それから、春には世界が本当に輝いて見えていた。
雨海との出会いが春の人生を変えた。過言ではなく事実としてだ。
春にとって雨海が全てになり、雨海もそう想ってくれているかは……もう春が不安に思うことすらない。
初めて帰り道の途中で寄り道をして数日、今ではあの公園で過ごすのは二人の日常だった。
今日も放課後に音楽室に行けば、春があげた裁縫セットで、必死に何かを作っている雨海がいた。
「何作ってるの?」
「見てわからない?」
そう言って、手に持った布と綿の塊をふたつ見せつけてくる雨海。
きっと繊細な指裁きから作り出されたはずのふたつのその塊は、雨海にとっては会心のできなのかもしれない。それだけ彼女は自信満々だ。
「隠し事はしたくないから正直に言うけど、全然わからないかな……いや、うそ! なんとなくわかる。うん、たぶん人だね」
あからさまに凹む雨海の様子を見て、春は慌てて思考と想像力をフル回転させるも、結局は明確な答えは導き出せなかった。
「正直はいいことだけど、優しい嘘っていうのも覚えた方がいいわ」
本当に珍しく、頬を膨らませて拗ねる雨海。普段は同学年かと思うほど大人びている彼女の、そんな可愛らしい仕草に、春は心を打ち抜かれた。
けれどいつまでも惚けているわけにもいかず、女性経験のない春には至難の業だったが、いじけてしまった雨海をなんとか必死になだめたのだった。
その後、やっと機嫌を直してくれたらしい雨海は、不格好なぬいぐるみを愛おしそうに撫でながら教えてくれた。
「私と貴方よ。言っておくけどまだ完成してないから。完成したら絶対わかるから」
言われて見れば、たしかに特徴的なところがあるかもしれない。そうは言っても、春には長い黒髪のような部分で雨海がこちらというくらいしかわからなかったが。
けれどそんなできは関係なく、ただただ嬉しくて、それ以上に雨海が愛おしくて、春は笑みが浮かぶのをこらえきれなかった。
「いつか笑ったことを後悔するようなの、作ってあげるから覚悟しておきなさい」
「あはは! 楽しみにしてるよ」
春の笑みを宣戦布告ととった雨海は、八重歯を見せて不適に笑い、春はそんな彼女に今度こそ声を抑えずに笑った。
結局その日雨海は、下校時刻が来るまで悪戦苦闘しながら二人のぬいぐるみを作っていた。
春はそんな雨海を見守って、時間になれば二人で学校を出て、いつもの公園へ、
「指先は器用なほうだと思っていたけれど、ままならないものね」
「練習あるのみだねぇ。積み重ねは何よりも大事」
「そうね。上手くなる可能性があるから面白いのよね」
「そうそう。ほら、これでも飲んで」
雨海は随分と集中していたらしく、さすがに疲れたのだろう。春は凝り固まった肩をほぐそうと腕を回している雨海に、自販機で買ったお茶を渡した。
お茶を受け取った雨海は、豪快に一口飲むと、そのままペットボトルを春に返してきた。
内心ドキドキする春、それでも今更気にすることでもないかと思い、思い切ってお茶を口にする。
「間接キスって、ファーストキスとはカウントしないわよね?」
「ッ!?」
危うくむせ込みそうになって、非難の視線を向ければ、心底おかしそうに笑う雨海がいて、春はこの少女のすることなら、自分はなんでも許してしまうのだろうと負けを認めた。
「……ねぇ」
楽しい話題じゃない。
自分への呼びかけ方だけで、そう察することができるくらいには、もう春は雨海のことを理解していた。
「どうしたの?」
「明日からは、毎日一緒には過ごせないと思う」
「……それは、どうして?」
考えていたよりも数十倍は楽しくない話題で、春は普通の声を出すだけで精一杯になった。
「先生が戻ってくるから」
「先生?」
雨海の話しによれば、雨海の練習には、学校の顧問とは別に、外部からも講師が来ているという。
顧問は基本的に名ばかりで、練習には口を出してくることはない。何故なら外部からの講師が指導を一任されているかららしい。
だから顧問が部活に来ることはなく、春は雨海と過ごすことができていたのだ。
だが今後は、どうやらそうもいかないらしい。
「あの人の友達なのよ」
あの人、雨海がそう呼ぶのは、自分の母親のことだ。
ピアニストとして名をはせた母親。その友人ともなれば、その講師も只者ではないのだろう。
「昔から私の指導を頼んでる人でね。先生はあの人と同じで、私をピアニストにしたくて必死なの。私はまるであの二人の作品だわ」
「……完全にあっち側の人なんだね?」
「完璧にね。指導はあの人以上に厳しいかも、だから先生が来る日は、音楽室には入れないと思ってて」
元々、その先生とやらは毎週三、四日は学校に来て、放課後の指導を担当していたらしい。最近いなかったのは、しばらく海外に出張していたからなのだとか。
「明日からは、また以前のように学校に来ると思うの、だから……ごめんなさい」
「謝ることないよ! 来る曜日とか決まってるの?」
「だいたいはね。でも変更になることもあるから、その時はあの人に連絡が入って、それから私」
「直接やり取りはしてないんだ?」
「えぇ、私はスマホ、持ってないから」
「え?」
言われて目が点になる春。思い返してみれば、確かに雨海がスマホを持っているところは見たことがない。
春は今更、雨海の連絡先を知らないことに気が付いた。
「あの人の方針でね。余計な情報は必要ないんですって」
「あぁ、もしかしてガラケーすらない?」
「ないわね。我ながら頭おかしいと思うけど」
「じゃあ、その、今更だけど連絡先交換して夜中に電話したり、メッセージのやり取りをしたりとかは」
「もちろん、できないわね」
二人きりで過ごせる時間が大幅に減るだけじゃなく、その時間を埋めるための、最も簡単に思いつく方法すら使えないときた。
ショックなことが続きすぎて、春は声すら出なくなりそうだった。
「……じゃあ、講師が来るか来ないかもスマホでやり取りはできないわけだね」
「そうなるわね。基本の曜日は教えるけど、急な変更は結構あるから」
「毎日確認した方がいいわけだ。ならやっぱり直接話すくらい?」
「そうするしかない、と思わ。現状できるのは、どこで会うか決めておくくらいかしら」
そうして雨海からの提案で、明日からは昼休みに一度、音楽室で待ち合わせることになった。
急に雨海と一緒にいられる時間が少なくなり、心に穴が開いたような感覚を味わった春。
唯一の救いといえば、昼休みをそのまま二人で過ごせそうなことくらいだろう。それでも、その程度では春の感じた寂しさを埋めれるわけがない。
「ごめんなさい。私も昨日急に知らされたから」
「いや、仕方ないよ。全然気にしないで……」
珍しく弱弱しく視線を落とす雨海。きっと、彼女も春と同じ気持ちなのだろう。
二人の時間としては、初めて音楽室で過ごした時以来の沈黙が場を支配する。いや、あの時よりもこの沈黙は重い。
そんな重い空気の中、先に口を開いたのは雨海だった。
「ねぇ、もしこのままピアノだけを強制されて、今みたいな些細な時間もなくなって」
雨海は無表情で、淡々と、思いつく限りの最悪を、一つ一つあげていく。
「自分の夢さえ追えなくて、貴方にも会えなくなる。そんな他人に決められた人生になるのなら、私は死んだ方がマシだと思うの」
そう言い切った彼女の顔から感じるものは、絶望なのか希望なのか、今の春には判断ができなかった。
「はぁ、前まではこんなこと考えもしなかったのにね。昔のままなら、不満をためながらうじうじ生きていたでしょうね」
「……もうそうじゃないってこと?」
「えぇ、貴方と出会ったから」
春も同じだった。
以前までの春なら、いずれ怪我が治れば、また心を殺して父親の指導を受ける日々に戻っただろう。
それは今までの人生で魂まで染みついた汚れだ。洗ってもそうそう簡単にはとれることはない。
身体と心に染み込んでいるその汚れのせいで、父親に逆らおうなど、そんな事を考える前に身体が震えて、心が死んでしまう。
そうして不満を抱えながら、それでも何もできず、ただ親の言いなりの人生を送るのだ。
けれど、今は違う。
春は雨海に出会った。
雨海と一緒に過ごし、自分と同じ彼女の心に触れ、癒しを得た。
雨海と今まで経験したことのない時間を過ごし、何のために生きるのかを意識して、雨海の夢をきいた。
春は想像してしまったのだ。お互いが自分で決めたやりたいことができる日々を。
それがたとえ間違った道で、成功とはほど遠い未来に繋がっていたとしても、そこにあるのはきっと充実と満足の日々。
自分たちだけのために、二人でこれからの将来を生きてみたいと、そう思った。思ってしまったのだ。
春はもう知ってしまった。今から昔のような自分に戻れる自信はない。自分を殺すことなんてできはしない。そしてそれは、きっと雨海も一緒。
「そうなったら、僕ももう我慢できそうにないかな」
春は自分でも困ってしまうほど、素直に心の内を吐露する。
キミと一緒にいれないのなら、死んだほうがマシだなんて、映画でしか聞かないようなくさいセリフ。
普通ならこっぱずかしくて言えるわけないと思っていたというのに、春は自分が本当に変わってしまったことを自覚した。
「嬉しいわね。私はそれくらい貴方から想われてるってことよね?」
「そうですよ。お互い様だけどね」
からかうような雨海に、そっくりそのまま返すと、雨海は少し恥ずかしそうにはにかんで夜空を見上げた。
「ねぇ、天国って本当にあると思う?」
「いけると思ってる?」
「どうかしら、基準を知らないもの。貴方はいけると思う?」
「僕は……天国に行くより、もう一回初めからやりたいよ。もちろん違う場所で」
「そうね、いいわねそれ。もしダメになったら、次は最初から一緒にやりましょ」
笑ってするような明るい話じゃないことくらい、春も当然わかっていた。
それでもこうして和やかに話すのは、どうしようもない人生に、次でもいいから希望を持ちたかったから。
「もちろん、次は一緒にやろう。約束」
春は小指を差し出す。
指切り。人生で一度もやったことはなかった春には、初めての体験。
同じく初めてだろう雨海も、そっと小指を絡めてくれる。
「ん、約束。嘘ついた方は、そうね。次は一生逆らうの禁止。どう? 嫌でしょ?」
「ふふ、確かにそれは嫌だね」
「なら約束は守ることね」
「了解。お互いね」
「えぇ、もちろん」
こうして、春は雨海と初めての大事な約束をした。
はたからみれば、幼い子供のお遊びのような、すぐに冗談だとわかるような約束。
けれど、二人の間には冗談なんて空気は微塵もなく、バカみたいに真剣だった。
それだけお互が、これから起こる日常への変化を恐れていたから。
このまま二人で一緒にいたい。そう願いながらも、それが叶わないかもしれないと、心のどこかで感じていたからなのかもしれない。




