雨上がりに雨海と
春の人生は、これまでずっと雨が降っていた。
他人から見れば、羨ましいくらいの環境かもしれない。
その生活から逃げ出したいだなんて、贅沢すぎる我儘かもしれない。
嫌なら変わってくれという人が何人もいるかもしれない。
それでも、春にとってこの人生は、毎日が雨のようなものだった。
父親に練習を強制されるのが嫌だった。
母親が何も口出ししないのが嫌だった。
早紀が理想を押し付けてくるが嫌だった。
何のために生きてるのか分からない人生が嫌だった。
友達と遊んでみたかった。
自分でやりたいことを見つけたかった。
自分のために生きてみたかった。
父親の作品として、決められた道を歩くのではなく、自分でどこに行くか決めてみたかった。
そう思っていたところで、春には何もできなかったが。
誰にも共感されず、一人でどうすることもできなかった。
だから雨が降ったままだった。
けれど、ある少女と出会い、春の人生の雨は上がった。
沢木雨海。春と同じ境遇の少女。
母親がピアニストの雨海は、幼い頃からピアノ漬けの日々を送ってきた。
そんな雨海は、春に向かってはっきりと言ったのだ。
ピアノは嫌いだと。
お互いが同じ。親と、自分が他人の意思で打ち込んできたものが嫌い。
初めてできた本当に理解し合える存在。
雨海に出会えて、春の人生の雨は上がったのだ。
初めて雨海に音楽室へ招待された日。春が雨海と分かり合えたあの日から、春は毎日、放課後は音楽室で雨海と一緒に過ごすようになっていた。
クソみたいだった日常から切り離された穏やかな場所。
そこは誰の邪魔も入らない、二人だけの空間。
「何をしても褒められたことなんてないよね? だって出来て当然だと思ってるから」
「わかるわ。あと、変なプライドがあるから、簡単にやりすぎると逆に機嫌悪くなるのよね」
「あぁ~、わかりすぎる」
「自分で教えて嫉妬して、バカみたいな人よね」
「アハハ! うちの父親とホントそっくり」
ある時はお互いの親への愚痴を言いあった。盛り上がりすぎて、春も雨海も口から出てくる親への不満が止まらない。
その日の夜、春は人生で一番すっきりと眠ることができた。
「で、その幼馴染は、僕がこのまま競技を続けていくって思い込んでるわけ、勝手にね」
「何それ、気持ち悪いわね。貴方がバドミントン嫌がってることに気づいてないの?」
「全然。むしろ大好きだと思ってるんじゃないかな」
「こんなに嫌がってる貴方のそばにずっといたのよね? それで気づかないって……私以上に友達がいないのかしら」
「残念ながら、人気者ですねぇ」
「あっそ、世の中ってやっぱり理不尽ね」
またある時、春は幼馴染である早紀の話をした。
押し付けられることの辛さを理解してくれる雨海は、心底早紀の事を嫌悪している様子だった。
早紀の不満を言うと必ず春が悪者になって、最終的には早紀に謝ることになるのが、これまでの普通だった。
だけど、雨海はしっかりと望んでいた反応を返してくれた。
「何か楽しい遊びって言われても、何も知らないよ」
「よっぽど寂しい子供時代だったのね……かわいそう」
「大丈夫? 自分にもブーメランかえってくるよ?」
「……悪かったわ」
「うん、よく言えました」
何か二人でできる遊びをしてみようともした。
二人とも友達と遊ぶことができなかったせいで、何も思い浮かんでこなかった。
けれど、それこそが雨海と自分は本当に同じなんだと思わせてくれて、春は少し嬉しかった。
「僕らの話題ってさ、暗いのしかないよね」
「仕方ないじゃない。楽しいことなんてなかったもの」
「は、はは、その通りなんだけど、改めて実感すると凹む」
「あら、私は最近毎日が楽しいのだけれど」
「え、そ、それって」
「貴方は楽しくないの?」
何気ない会話の中でドキドキしたり、からかわれても嬉しかったり、春は今まで生きてきて感じたことのない感情を、この数日だけでいくつも経験した。
最初はまだぎこちなさのあった雨海との関係も、すぐに何の壁もなくなった。
言葉遣いも軽くなり、遠慮もなくなった。
たった数日のうちの数時間。それだけで、まるで何年も一緒に過ごしてきたかのように、実は春と雨海こそが、本当の幼馴染かのように、二人の距離は一気に縮まっていった。
そんなある日のこと、
「本当にやりたいこと?」
春は雨海から聞かれたその質問を、真剣に考えてみることにした。
「わかんない。むしろ見つけたい」
「……そう」
「そっちは? 本当にやりたいこと、あるの?」
「ふっふっふ、アハハ!」
雨海が急に笑い出す。まるで映画の終盤、殺人のトリックがバレた犯人のようだと春は思った。
けれど雨海は、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべていて、そこにはむしろ余裕すら感じられた。
「まさか! あるの?」
「あるわ! 私、手芸に興味があるの!」
若干興奮気味に語る雨海。初めていたずらをした子供のように、そわそわしながらも妙な達成感を感じているようだった。
春も負けないくらい興奮していた。自分はまだ見つけられていない目的を、雨海はもう見つけていたのだ。それは尊敬に値することで、素直に凄いと思えることだから。
「手芸って、縫物的な? 服とか作る感じ?」
「そういう系全般ね。デザインの道、詳しくは決めれてないけど」
「何かきっかけとかあったの? 人生の参考にしたいんだけど」
「やたらと重いから、もっと軽く聞いてちょうだい」
一度咳払いをした雨海は、春がしっかりと聞く体制を取っているのを確認してから、幼い頃に行った展示会の話しをしてくれた。
出かけた先で開かれていた展示会。雨海がそこを訪れたのは、本当に偶然だったそうだ。
よくわからないまま入ったそこで見た光景は、雨海にとって一生忘れられないものになる。
一般からの応募で集められた数々の作品たち、中には子供が作ったのか不格好なものもあったという。
それでも雨海には、そこに展示されていた作品の全てが、キラキラと輝いて見えた。
一生懸命で、それでいて作っていて楽しいと、見ているだけでそんな感情を、雨海は感じることができたのだという。
「あの時、一回だけしか見てないけど、それでも未だにはっきりと思い出せる。別に有名なデザイナーが作ったわけじゃない。皆趣味でやってる人たちの作品だった。けれど、一つ一つに確かに感じたわ。これを作った人はきっと楽しかったんだろうって、そう思えるようなクリエイティブなことへの魅力を、あのとき私は確かに感じた。だから、私もいつかああいう物を作ってみたいの」
静かに、けれどその内には灯した炎を持って、雨海は彼女の想いを語ってくれた。
それこそが雨海自身の本当の気持ち。やりたい事。目的。
春は素直に雨海が羨ましいと思った。自分もこんなふうに思える何かを見つけたい。今までなぁなぁで我慢してきた自分に恥ずかしさを感じ、本気で生きる意味を探したくなった。
「実際にやったことは……あるわけない、か」
「えぇ、ピアニストにとって指は命だから、針なんて一切触られせもらえなかったわ」
「小学校とか授業であったよね?」
「やらなくていいって、横暴よね? でもそれも通しちゃうんだから、子供ながらに無茶苦茶だと思ったわ」
「じゃあ、ホントに一切ってこと?」
「えぇ、一時期頼み込んだことがあるから、私が興味を持ってると思ったんでしょうね。家じゅうの裁縫セットとそれに関係するものがなくなったわ」
「ピアノで食べていこうとしてる人って、そんなに気を遣うものなの?」
「それは知らないわ。私が知ってるのは、あの人のやり方だけだから」
「そっか。じゃあよっぽど面倒なとこに生まれたのかもね」
「かもね。でも、私は絶対そういう道に進みたい」
決意を宿した瞳。雨海の気持ちが確かなものだと、その瞳を見れば疑う余地もない。
「貴方に話して自分の気持ちがはっきりしたわ……ありがとう」
すっきりとしたような、晴れ晴れとした表情でお礼を言う雨海。
そんな彼女の表情に見惚れていた春は、自分も雨海のように何かを見つけたいと思うと同時に、何か雨海のためになりたいと、そう強く想うようになっていた。




