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嫌いだ


「よーし、そろってるねぇ、じゃあ早速始めようね、君たちも忙しいと思うしね」


 がらんとした教室に、急ぎ足で入ってきた教師の声が虚しく響き渡る。

 返事をする者はいない。


 放課後。春が指定されていた教室に向かうと、そこには女生徒が一人いるだけだった。

 教師がそろっていると言った以上、この時間にテストを受ける生徒は二人だけなのだろう。


 こうして後日テストを受けるのは、何かしらの事情がある場合だけだ。

 春のように部活関係か、それとも他のやむにやまれぬ事情があったのか。どちらにしても、他人の事情を詮索するつもりは春にはない。

 ただ今回は、もう一人の女生徒も部活関係だろうということは、春にも簡単に予想がついていた。


 長い黒髪の女の子。

確かにそこにいる少女は、まるで人物画かのようにピクリとも動かない。

 夜陰の如き純な黒髪は、見ているだけで重そうな重圧を感じるが、重さなんてまるで感じていないかのように、女の子は微動だにせず座っている。

 伸びた背筋は張りつめた弦のようで、ただ座っているだけだというのに、見る人に美しさを感じさせる存在感があった。


 間違いなく、誰に聞いても美人だと答えるはずだが、きつそうな性格だという印象も大部分が抱くかもしれない。

 その印象を裏付けるかのような切れ長の鋭い目を、無感情に教師へ向けたままのその少女を、春は知っていた。


 沢木雨海さわきあみ

 幼い頃からピアノのコンクールで数々の賞を受賞し、注目を集めていた同学年の少女。春のように特待生としてここに入学していたはずだ。


 目立つ存在である雨海についても、嘘か誠か様々な噂が聞こえてくる。

 母親が有名なピアニスト。

 幼い頃から英才教育を受けており、その腕前はプロでも一目おくほど。

 音楽だけでなく、学業の成績もよく、それでいて美人。


 春が耳にしたことがあるのは、だいたいそのような内容で、主に話をしていたのは男子が多かった。

 春とは違って良いイメージが先行しているのだろう。どれもこれも雨海をほめるようなものばかり。

 だからといって春は、羨ましくして嫉妬したから、この少女を覚えていたというわけではない。


 母親が有名なピアニストで、幼い頃から教育を受けてきたという境遇に、ちょっとした親近感を感じたからだ。

 だけどきっと自分とは違うのだろうと、春はそうも思っていた。


 春も雨海も、はたから見ればどちらも人々から羨ましく思われる環境にいる。

 自分の親がその業界の実力者で、トップクラスのノウハウや技術を、ただで受け継ぐことができる。他人が普通に指導を受けるには、月々けして安くはない金額を使う必要があることをタダだ。

 しかも、幼少期という圧倒的に他人よりも早いタイミングでその道の一歩を踏み出せる。単純にかけた時間はアドバンテージになる。


 たとえ、あまりためにならない練習だとしても、何年もやっていれば、始めたばかりの者に負けることは少ない。

 逆に短時間でも、下手な練習より効率の良い練習の方が技術は身につく。

 時間の積み重ねと経験をひっくり返すには、よほど質のいい練習と、圧倒的な才能がなければ不可能だ。


 だから春も、自身が恵まれた環境にいることは理解していた。

 もし将来選手として活躍して、有名になりたいと考えている者が春の立場に生まれたならば、歓喜に震えるだろうことは想像に難くない。約束された将来がある立場だから。

 それを自ら捨てるような奴はあまりいないはずだ。


 そんな奴は、自分のようなバカだけなのだろうと春は思っていた。

 だからこの少女。いい噂しかない雨海は、自分とは違うのだろうと、そう思っていたのだ。


「一応テストだからね、君たちにはそんな重要じゃないけど、でも一応やらないとだからね、仕方ないと思ってね」


 どこかそわそわしているような教師が、早口で喋りながらテスト用紙を配り始める。

 こちらに言い聞かせるようなその言葉は、教師自身にも言い聞かせているようで、あまりやる気はなそうに見えた。


「まぁでもテストだから教科書とかみないでね。カンニングになっちゃうから。一応先生は終わるまでいるけど、それだけだから、それじゃはじーー」

「先生、よろしいですか?」


 パパっと済ませてしまおうという感じが満々だった教師の言葉を遮ったのは、それまで一切微動だにせず座っていた雨海だった。

 春としては以外だった若干ハスキーなその声に、教師は自分の態度を責められているかと思ったのか、慌てて姿勢を正していた。


「な、何かな沢木さん?」

「いえ、先生がずいぶんとお忙しそうでしたので」

「え、いや、そんなことはない、わけでもないけど」

「ですよね。そんな先生を私たちのテストにつき合わせるのは申し訳ないと思いまして」

「いやいや、沢木さんがそんな事を気にする必要は」

「いえ、私たちなら大丈夫ですので、先生はご自身のお仕事をなさってください」

「え、でもそういうわけにもねぇ?」


 何故か教師に話を振られ、春は我関せずの姿勢でそっぽを向くことにした。


「時間になったら職員室に提出に行きますよ。それに、私たちにはこんなテストあまり意味がありませんし、カンニングする必要もありませんから」


 口調は丁寧なのに、命令のように有無を言わせぬ迫力のある言葉。

 教師は少しの間困ったように固まっていたが、何度か時計を確認すると「き、君たちなら大丈夫だよね?終わったらテスト用紙は僕のデスクに置いてくれればいいから」と足早に教室を出て行ってしまった。


 予想もしていなかった光景に固まるしかない春。あの教師は何か弱みでも握られているのだろうかと思わずにはいられなかった。


「別に弱みなんて握ってないわ。あの先生、放課後になると毎日誰かと長電話するんですって、噂で聞いたの。浮気相手との電話らしいわよ」

「……はぁ、そうなんだ」


 顔に出ていただろうか。心を読まれたようで動揺した春は、情け無いことに曖昧な返事しかできなかった。

 教師が出て行った今、この教室には春と雨海の二人きり。

 得体の知れない何かを感じた春は、早く帰るためにもテストに取り組むことにした。


「ねぇ、このままサボってどこか行かない?」


 のだが、思いもしていなかった言葉に春は顔を上げる。

 見たものを切り裂いてしまいそうな、鋭い視線を向けてくる雨海がいた。


 まっすぐに切りそろえられた前髪。その下からのぞく鋭い瞳のせいで、春は蛇に睨まれた蛙ように動けなくなる。

 春には目の前の少女が、何を考えているのか分からなかった。

 もしかして噂が全部嘘で、本当は筋金入りの不良なのだろうか。停止してしまいそうな脳を必死に働かせても、当然答えはでない。


 女子と見つめ合っている状況すら、今の春には意識できていなかった。

 教室の壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、正確に時を刻み続ける。


「……もしかして勉強嫌い?」


 春がやっとのことで絞り出せたのは、そんなよくわからない質問だった。


「貴方、ちょっとズレてるわね。友達少ないでしょ?」


 あからさまに顔をゆがめて笑う雨海。

 どうやら目の前の少女は、噂通りの人物というわけではないらしいことを春は理解した。

 はっきりとバカにされたことはもちろんムカついたが、悪口は言われ慣れている春は、努めて冷静に答える。


「よくわかったね。あいにく小さい頃から遊ぶ時間もなかったからさ」

「……知ってるわ」


 煽りたいだけ煽ればいい。あえて大人の対応で全部受け流そう。そんな春の思惑はすぐ無駄になった。


「どういう意味?」

「私もそうだったから」


 頬をぶたれたような衝撃を感じて春は息をのむ。

 雨海は母親が有名なピアニスト。それは、父親が元選手だった春と同じ立場ということ。


「貴方バドミントン部の特待生さんでしょ?」

「知ってたんだ?」

「けっこう学校の中じゃ有名人よ貴方。友達なんていない私すら知ってるくらいね」


 なんでもないことのように、雨海はさらっと自虐的なことを口にする。

 きっと春の想像どおり、雨海もそうなのだろう。


 幼い頃から練習の日々。時間があれば他はなにもせず、ひたすらピアノだけに向かってきたはずだ。

 雨海の挑発的な態度には嫌気がさしていたが、春の中には少しの親近感がわきだしていた。


「反応に困る言い方はやめてよ」

「あら失礼」


 それでも春には、目の前の少女が何を考えているのか分からない。

 真面目なのかふざけているのかすら分からない。

 だいたい、どうして雨海は、接点のない春に、急に話しかけてきたのだろうか。


「貴方の噂、どんな噂か知りたい?」

「いや別に」

「親が有名な選手だったとか、すごい才能の塊だとか」


 春の返事をまるで聞いていないかのように喋りだす雨海。

 無視されて褒められても、春にはどんな顔をすればいいのか分からなかった。


「英才教育のおかげで小・中学生の時だけはすごかったとか、その割に今は伸び悩んでて成長してないとか」


 だが、この段階で春にもだんだんと雲行きが怪しくなっている事がわかった。


「特待生のくせにあまり活躍できてないとか、怪我してばかりで役に立たないとか、もはや幽霊部員だとか」

「あの、悪口やめてください」

「あら、それは私じゃなくて最初に言った人に言えば?」

「……はぁ、機会があればそうするよ」


 すましたまま、まるで人を食ったような態度の雨海に思わず春はため息をついた。

 いったい何のために話しかけてきたのかと思えば、単に煽ってくるだけ。

 春は少しでも親近感を持ってしまった自分が情けなかった。


「ねぇ……」

「今度はなに?」


 もう気はつかわない。そう決めて若干ぶっきらぼうに返事をする春。次はどんな悪口を言われるのだろうかと、身構えていたのだが、


「貴方は、バドミントン好き?」


 雨海の口から出てきたのは、そんな、ただの、質問だった。


 先ほどまでの、人を見下したような態度は鳴りを潜めている。

 本当にそうかはわからない。それでも春は、今はただ純粋に質問の答えを知りたいと、雨海からそんな気持ちを感じ取った。


「嫌いだよ」


 だからはっきりと答えた。むしろこの質問に関しては、喩え誰に聞かれても、春には偽るつもりはなかったのだが。


「……そう」


 そんな短い返答だけでは、春にはこれが雨海の求めていた答えかどうかは分からない。だから春も聞いてみることにした。


「そっちはどうなの?」

「何が?」

「ピアノ、好きなの?」


 眉をひそめて嫌そうな顔をする雨海。まるでストーカーか蛆虫でも見るような目を向けられて、さすがの春も心にひびくらいは入りそうだった。


「知ってたの?」

「まぁ、そっちもたいがい有名人だよ。僕とは違っていい噂ばっかりみたいだけど」

「いい噂?」

「ピアノ上手いって評判だし、あとは美人だって男子がよく話してる」

「何それ、口説いてるの?」


 さらに顔を歪め、靴の裏についたガムでも見るような目を向けてくる雨音。

 春は今度こそしっかりと心に傷を負ったわけだが、美人の顔が歪むさまは少しだけ愉快だった。


「言ってるのは僕じゃないよ。そんな話する相手いないし」

「そうだったわね。まさか独り言で言ってたわけじゃあるまいし」


 いちいち人をイラっとさせるのが上手い方である。もし勝負事をやらせたら、絶対に嫌らしい戦法でネチネチ攻めてきそうだ。


 だが曲がりなりにも春はプロの勝負師から指導を受けてきた身だ。これくらいでいちいち心を乱していては、試合でも冷静ではいられない。


「で、どうなの特待生さん、ピアノは好きなの?」

「そんなの、決まってるじゃないーー」





 帰りのバスの中。

 雨が降る黒い景色を眺めながら、春は今日初めて喋った少女との会話を思い返していた。


 『嫌いよ』


 ただ一言。

 その一言に、いったいどれだけの感情が込められていたのか、春にはそれがなんとなくわかる気がした。


 そんな気がしただけ、もしくはわかった気になっているだけかもしれない。

 けれど、あの少女も自分と同じなのだろうと、そういうある種確信めいたものを春は感じていた。

 そう感じてくれたのは、あの少女も同じだったのだろうか。


『貴方、部活行ってないなら放課後は何してるわけ?』

『別に、ぶらぶらしてるだけだよ』

『それで授業や学費も一部免除なんだから、悪口言われて当然ね』

『……人を虐めて楽しいですか?』

『暇なら音楽室に来なさい。放課後ならB棟の方は私しかいないから』


 そう言って、少女は白紙のテスト用紙を持って教室を出て行った。時計を見れば制限時間をとっくに過ぎていて、春も白紙のペーパーを持って職員室に向かった。


 暇なら音楽室に来なさい。


 おざなりではあったけれど、誘ってくれたのは、向こうも春に対して、何かしら仲間意識のようなものを持ってくれたからかもしれない。


 不思議なもので、春は明日の放課後、音楽室に行くことをすでに決めていた。

 あんなにバカにされたのに、あんなに嘲笑を向けられたのに、それすらも気にならないほど、雨海が自分と同じなのかが気になっていたのだ。


 春にとって帰りの時間は、一日の中で一番憂鬱な気分に包まれる時間だった。

 なぜなら、これからあの父親のいる空間に戻らなければならないから。


『まだ治らないのか? 自己管理が甘いんじゃないか?』


『お前にはバドミントンしかないのは分かっているな? 余計な事はせず怪我を治すことに専念するんだ』


『治ったら遅れを取り戻すくらい練習をするぞ。体力維持くらいはしておきなさい』


 顔を合わせても言われるのはそんなことばかり、心配しているわけじゃないだろう。

 自分が心血注いで作り上げた作品が、ただのガラクタ、不良品だと認めたくないのだ。


 気にしているのは、自分の面子だけ。

 わざわざ部屋にまで来ては、一言二言小言を言って帰っていく。

 そんな人間がいる空間に、自分から帰らなければならないのだ。憂鬱なんて生ぬるい。

 それでも今日は違った。


 憂鬱じゃないなわけではない。

 けれども、なんとなく、春は少しだけいい気分だった。

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