残念ですが
「やっときたか春、さぁ座りなさい」
職員室についた春が、教師から案内された応接室に入ると、そこには本当に父親が来ていた。
教師が座ったのを見て、それから空いている席に座る春。ここまできたらもう逃げることなどできはしない。
「先生、話しというのは最近息子が勉強のために遅くまで学校に残っていることなんですが、早紀ちゃんから聞きましてね」
そう話しを始める父親に、春は思わず目を丸くしていた。
ここに来るまでに春は様々な憶測を立てていた。
その中でも確立が高いと春が考えたのは、早紀が父親を呼び寄せたというもの。
雨海とのやり取りで仲を疑った早紀が、部活をサボって女の子と遊んでいると伝えたのではないかと、春はそう考えていたのだ。
だが事実はどうやら違うらしい。
いや、正確には、早紀が呼び寄せたのは間違いないらしい。けれどこれはどういうことだろうか。
「もちろん学校側としては勉強が大事なことはわかります。しかし、怪我は将来にも関わるかもしれないことで…」
春の父親は教師に向かって、残って勉強させるより、怪我の治療に専念させたいと、懇切丁寧に訴えている。
その口ぶりから、どうやら春が勉強をしているのは、学校側、もしくは一教師の意向があると思っているようだ。
早紀がそう報告したのだろうか。
だとしたら何故?
まくしたてる父親と、困惑していそうな教師を意識から外し、春は早紀が何をしたいのかを考える。
早紀は常日頃から春を部活に戻そうとしていた。
けれど、普段ならそれだけで、春の父親まで動かそうとはしていない。
なぜなら、春が父親を苦手としていることを、早紀も当然知っているから。
幼い頃から、練習で上手くできなかった春が怒られると、早紀は心配して寄り添ってきた。
早紀としても、春が父親から怒られるようなことは、できるだけ避けたかったのだろう。
なら何故今回は父親を動かしたのか。
春が怒られないように、わざわざ嘘の理由を用意してまでだ。
これまでとは違う要素、早紀が最近知った新しい事実。それが関係しているのだろう。
それは何か。そんなものどう考えても、雨海の存在しか春には思いつかなかった。
「すみません先生! 腹痛がするので一度トイレに行ってきます!」
「なんだ春、トイレくらい済ませておきなさい。今は大事な話をしていてー」
「すみませんもう限界なので!」
退室する理由を考えている余裕もなかった。
先生に許可を求めたのに、なぜか出しゃばってくる父親を無視して部屋を飛び出す。よほど限界に見えたのだろう、さすがに父親からも、それ以上呼び止られはしなかった。
歩いている生徒の脇を抜け、春は廊下を駆け抜ける。
向かうのは音楽室。
雨海を置いてきてしまったことを後悔するが、それ以上に足を早く動かすことに集中する。
早紀の狙いは、おそらく雨海だ。
本当に焦って春を探しに来たのなら、いつもの早紀なら職員室までついてくるはずだった。けれど、早紀はあの場に残っていた。
春を傷つけないように雨海から引き離して、二人きりになった早紀は、いったい雨海に何をするつもりなのか。
考えても春には分からなかった。そうこうしているうちに、音楽室のドアが見えてくる。
春は躊躇せずに飛び込んだ。
「……え?」
そこには雨海がいた。もちろん早紀もいた。
けれど、そこにいたのは二人だけではなかった。
「何ですか騒々しい……あぁ、これが例の男子生徒ですか」
生ごみでも見るような視線を向けてくる中年の女性を、春は見たことがない。
それでもその声は聴いたことがあった。
忘れもしない。雨海に指導をしていた講師の声。
この女性がそうなのだろう。春はすぐに理解した。春に理解できないのは、今日休みのはずのその講師が、どうしてここにいるのかということ。
「なんで、今日はや……」
春は呆然としたまま口から出かかっていた言葉を慌てて飲み込む。春は本当なら講師の予定を知っているわけがないからだ。
視界の端、早紀が首を振っている。まるで、春のその努力は、もう意味のないものだとでも言うように。
春は雨海に視線を向けた。うつむいたままの彼女、その目は前髪に隠れてみえない。
腕を抱いているその姿は、震えそうな身体を無理に押さえつけているように見えた。
が、その姿もすぐに見えなくなる。講師が春と雨海の間に入って、彼女を背中で隠してしまったからだ。
「たしか、泉田君でしたね。貴方はもう二度と雨海ちゃんに関わらないで頂戴」
「……どうして貴女にそんなこと言われなければならないのですか?」
「まぁ、口答えなんて野蛮な生徒ね。教育がなってないみたい」
「失礼ですが、教育が足りなかったのはそちらでは? 初対面で自己紹介もしないなんて」
「ふざけないで! あなたなんかに自己紹介なんて必要ないのよ!」
ヒステリックにわめく講師。耳が痛くなる声に、春は思わず顔を歪めた。それがまた癪に障ったのだろう。講師はよけいに声を荒げる。
「あなたみたいな不良生徒のせいで、雨海ちゃんが非行に走ったのよ!」
「雨海さんは何も悪いことはしてませんよ」
「雨海ちゃんが自分から指を傷つけるようなバカなことはしません! あなたが変なもの渡したせいです! そうに決まってます!」
唾を飛ばして叫び散らかす講師を見て、春は怒り以上に悲しくなった。
どうして大人はいつも決めつけるのだろう。
子供を自分にとって理想的な存在にしようとして、その理想から外れることは一切認めてくれない。
子供が自分の意思でやってみたいと思ったことも認めない。認めないどころか、子供の気持ちすら捏造して、自分の思ったとおりの感情を押し付けてくる。
春の父親、この講師も、そして雨海の母親も、春にとって周りの大人はどれも一緒に見えた。
やり場のない感情が、春の中で行き場を求めている。
春はそんな想いが勝手に出ていかないよう、震える拳を握りしめた。
「本当にそう思いますか? 雨海さんの意思を、一度でも聞いたことがありますか?」
春はもはや懇願している気分だった。
これ以上失望させないでくれと。
「何を言うのですか、私は雨海ちゃんが生まれた頃から彼女を見ているのよ! 雨海ちゃんの気持ちなんて聞かなくても分かるわ! バカにしないで頂戴!」
けれど返答はそんなくだらないもので、もはや春は我慢ができそうになかった。
「じゃあ僕は貴女をバカにします。雨海さんのことを何もわかってないのに、わかった気になっているだけの人だって!」
その言葉が決定打だった。
「何よあなた! スポーツ特待生だか知らないけど生意気よ! あなたは何の教育も受けていない落ちこぼれよ! 年上に敬意を持ちなさい!」
目前まで近寄ってきた講師は、タガが外れたかのように罵倒を繰り返さす。
「あなたみたいなのは雨海ちゃんに悪影響よ! 二度と近寄らないで、ストーカーで訴えるわよ! いいわね! 身の程をわきまえなさい!」
望むところだと、春は講師を睨みつけながら思っていた。
横暴な大人の対応に怒りがわいて、刹那的思考に心が支配されていく。
このまま、感情にまかせて何かをすれば、大きな問題になるだろうか。そんな考えが春の脳裏によぎる。
間違いなく、春は大変な事になるだろう。けれど醜聞がついたら、父親は春から興味をなくして、今までの生活は終わるかもしれない。雨海も解放できるきっかけになるかもしれない。
真っ赤になった頭の中、微かにそんなことだけ考えて、春は握っていた拳を動かした。
「ありがとう」
振り上げようとした右腕は、いつの間にか近くにいた雨海によって抑えられていた。
耳元で伝えられたお礼。それにどんな意味があるというのだろうか。
「すみませんでした先生。言われた通り、もう家に戻ります」
信じられないことに、春の目の前で、雨海は講師に頭をさげた。
春は慌ててやめさせようとした。が、今度は早紀に腕をつかまれて止められた。文句を言う前に早紀が雨海の隣で同じように頭をさげる。
「申し訳ありません。春にはこちらで言い聞かせますので、どうか怒りを収めて頂ければと思います。春の父親も著名な方ですので、どうか穏便に」
二人の有無を言わさぬ行動で、春は冷静さを取り戻し、それ以上は口をはさめなかった。
そんな春と同じく、講師の女性も、少しは自分の大人気のなさを自覚できたらしい。
「ま、まぁ私も変な子供の相手をするほど暇ではありませんから、雨海ちゃんが言う通りにしてくれたらそれでいいのです。えぇと、樋口さんでしたね、そちらの父兄へは問題にはしないとお伝えください」
あくまでも上から目線の講師。
そんな傲慢な態度にも、二人は下げた頭をあげようとしない。
「すみませんでした先生」
「お伝えいたします。寛大なお心遣いに感謝いたします」
あんなに仲が悪そうにしていたというのに、今は示し合わせたかのように行動を合わせている二人。
雨海と早紀が誰のためにそうしているのか、それくらいは春にもわかっていた。
だからこそ恥ずかしくて、それ以上に悔しかった。
「では急いで帰りますよ。雨海ちゃんは家で沢木さんに自分の口から報告してもらいますからね」
「わかっています」
「あのおもちゃはもう捨てましたし、とりあえず今ある荷物だけ持って帰りましょう。他に置いてあるものは後日取りにきましょうね」
春は近くにあったゴミ箱の中に、雨海にあげた裁縫セットが無残に捨てられているのを見つけた。
名状しがたい感情が込み上げてくる。けれどそれ以上に、講師の言った言葉の意味が引っかかった。
「ど、どういうことですか? 荷物はあとで取りに来るって何のために」
思わず口にした質問に雨海はこたえてくれない。講師も、まるで汚物でも見るような視線を向けてくるだけだった。
「沢木さんは転校するかもしれないんですって、この学校は沢木さんに相応しくないかもしれないそうよ」
淡々と教えてくれたのは早紀だった。説明はありがたいが、到底納得できるものではない。
「待って! 急にどうして!?」
「決まってるでしょ! あなたみたいなのがいるからです! 金輪際あなたを雨海ちゃんには近寄らせませんからね!」
講師は春から雨海を庇うように立つと、そのまま雨海の肩を抱いて連れ出そうとする。
春はもちろん追いかけようとした。が、早紀が目の前に立ちふさがる。
「今は抑えて、春が暴れるほど印象が悪くなる。そうすると沢木さんが家で責められるよ。転校する可能性もあがるんだよ」
早紀の忠告は、たとえききたくない相手から言われたことでも、納得するしかないほど正論だった。
春がこの場で縋り付こうとするほどに、ただでさえ最悪に近い講師の印象はますます悪くなる。そして報告をうけた母親から、家で雨海は様々なことを言われてしまうのだろう。
「くそっ! なんで」
春は動けなかった。
雨海はさっき、春のために頭をさげた。本当は反抗したい自分の心を押し殺して。
それがわかっているからこそ、春はこれ以上、雨海に負担をかけるようなことはできなかった。
ただその背中を見送ることしかできず、やるせなさと薄暗い感情に全身を支配される。
雨海は講師に連れられて音楽室を出ていく。
一言も声をかけてくれることもなく遠ざかっていく雨海。彼女がドアを開けたときに見えた横顔。
その頬には、一筋の涙が光っていた。
結局、春は何もできず、連れられて行く雨海を最後まで見送ったのだった。
春の目の前で閉じられるドア。
春には、ドアが閉じられた瞬間、雨海とは存在する世界が隔絶されてしまったかのように感じた。
膝から崩れ落ちた春はもはや無気力だった。早紀に連れられて職員室に戻っても、もはや父親の話しも、なにもかもが頭に入ってくることはなかった。




