望まれて、押しつけられて
雨。
ここ連日、まるで課せられたノルマをこなすかのように、その雨は降り続いていた。
テレビのノイズのような雨音が、いい加減に耳から離れなくなりそうなほどに聞きなれた頃。雨音に雑じって、春の耳に聞こえてきたのは、そんな陰気な天気にふさわしい会話だった。
「あいつ今日もサボりっすかね?」
「いいよなぁ~、特待生さんの特権。オレも欲しいわぁ」
「おい、一応怪我してるから休みなんだろ。まぁ休みすぎだとは思うけど」
「ぶっちゃけさ、下手とまでは言わないけど、アイツって微妙だよな」
「才能あるからって、まともに練習する気のない奴は伸びないよ」
「自分才能あります! つっておいて弱いとかw」
「おいやめろよ……ぶふっw」
「お前だって笑ってんじゃねぇか!ww」
「あんな凄い親がいるのになぁ、マジでこの世は不平等だよなぁ」
誰の事を言っているのかと言えば、それはもちろん春のこと。そんな、自分をバカにして笑う会話を聞いても、春は今更どうとも思わなかった。
(てか、自分才能あります。なんて言ったことないし……)
泉田 春は、バドミントンの特待生として、この私立高校に入学した。現在は高校二年生である。
春の父親は元バドミントンの選手で、国の代表にも選ばれたことがあるほどの名選手だった。そんな父親によって、春は物心ついた頃から練習に連れまわされることになる。
子供という吸収力の高い時期に、実力者からの的確で無駄のない指導を一身に受けてきた春は、ジュニアの世代では、圧倒的な実力と才能の持ち主として認知されていた。
将来は国を代表するような選手に育つだろう。誰もがそう疑わないような逸材。春がそのような存在になれたのは、一重に父親のおかげだった。
自分の知識や技術を、惜しげもなく春に教え込み、睡眠時間を削ってまで、練習メニューの考案や、食事管理を徹底して行ってくれた。
暇さえあれば、いや、暇がなくても何かの時間を削っては、春のために指導してくれたのだ。
そうして日々、練習だけに明け暮れる特訓の日々を過ごし、春は着実に力をつけていった。自分のために必死になってくれる父親。
春はそんな父親に感謝、
なんて、微塵もしていなかった。
春は父親が嫌いだ。
父親のせいで、好きでもないことをやらなければならなかったから。
父親のせいで友達と遊ぶこともできなかったから。
父親のせいで食べたいもの食べれなかったから。
父親のせいでやってみたいと思うことも見つけられなかったから。
父親が自らの時間を削れば、それだけ春の時間も削られた。父親のせいで春には、バドミントンしかなくなった。春はそれ以外のすべてを父親に奪われたのだ。
だから春にとって、この世でもっとも嫌いなものは父親とバドミントンだった。
そして、春が実力者として有名だったのは、今となっては少しだけ過去の話になってしまっている。
今の春は、同世代の中だけで見ても特に目立った存在ではなくなってしまっているのだ。
(まともに練習する気のない奴は伸びないっていうのは、僕もその通りだと思うけど)
幼い頃から自分の感情を殺して練習に打ち込んできた春。だが、この年頃になると、それも難しくなっていた。
自分の現状と父親への不満があふれ、好きでもないのにという気持ちが止まらなくなる。
そんな心理状態で練習をしても、向上する気持ちがなければ新たな発見もない。つまりは成長もしないということ。
さらに春が伸び悩んだもう一つの理由、それは単に、身体の成長だった。
幼い頃はまだ、周りと身体能力にはそこまで差がなかった。けれど年齢を重ねるごとに、見てわかるほどの明確な差が体格に表れてくる。
春はこの歳になってもあまり身長が伸びなかった。幼少期から厳しいトレーニングをした影響かは分からないが、身体能力の差というものを着実に感じるようになった。
それに加えて怪我だ。
数か月前に痛めた手首。日常生活に支障はないが、春は未だに練習には復帰できていない。ただ、怪我をしたことについては、春はラッキーだったと思っていた。
高校に入ってからの春は、大きな大会でいい成績を残すことができていなかった。そんな状況に春の父親が納得できるはずもなかったのだ。
厳しくなる父親からの管理と指導。少しのミスでもとんでくる怒声。
『違う! そうじゃない! どうしてこんなこともできないんだ!』
『何度言えばわかるんだ!? 動き出しが遅い!』
『休んでる暇があるなら少しでも練習しろ!』
『私の息子ならこれくらいできるはずだ! 集中しろ!』
『やる気がないなら帰れ! お前は将来成功を収める気はないのか!?』
『なんで勝てないかわかるか? 技術はあるんだ。私が教えているんだからな。あとはお前の気持ちだけなんだぞ!』
(……うるさい)
伸び悩み、成績が落ち込む。
父親が怒り、練習の厳しさが増す。
練習への意欲がなくなる。
成績はもっと落ちていく。
父親がさらに機嫌を悪くする。
負の無限ループ。
その流れを一時的にでも止めてくれたのが、手首の怪我だったのだ。
自分の席で突っ伏したまま、開けた窓から聞こえてくる雨音を聞いていた春は、無意識に右手首をさすっていた。
早く治りませんようにーー。
そう、おまじないでもかけるかのように。
「やっぱりまだ痛む?」
心配しているという気持ちが、全面に押し出されているような声色。不意に聞こえたそれは、春にとっては聞きなれた声だった。
「早紀……わざわざ毎時間来なくていいのに」
声の主は樋口早紀。幼い頃から一緒にいる春の幼馴染だ。
幼馴染の早紀とは、幼少期からバドミントンの練習を一緒にしてきた仲で、春は常にと言っていいほど早紀と一緒に過ごしてきた。
ちなみに、春の父親からの直接指導を、一緒に受けてきた早紀も、女子の中では実力者として名をはせる存在であり、春と同じくスポーツの特待生でもある。
「そんなこと言わないでよ。私は春の事が心配なんだから」
春が窓の外に視線を戻すと、早紀は回り込んで正面から覗き込んでくる。
女子の中では背の高い早紀が屈みこむと、頭の後ろでまとめられた小さなポニーテールがふわりと揺れた。
大きな紫黒の瞳に見つめられる。純粋さしか宿していなさそうな無垢な瞳に突き刺され、居心地の悪さを感じた春は、逃げ道を探すかのように、自分の手首に視線を落とした。
「教室にいるだけで心配されても困るんだけどなぁ」
「そう嫌がらないでよ。春の観察は私の日課みたいなものなんだし」
「僕は動物かなにかなの?」
「春は春でしょ? むしろ慣れてよ。何年一緒にいると思ってるの?」
「いや、早紀が教室まで来ると、変に目立ってヤなんだってば」
特待生という立場の春は、ただでさえやっかみの対象になることが多々ある。その立場に相応しい活躍をしていない春は、先ほどのように陰口を言われるのは日常茶飯事だった。
それに加えて、早紀という幼馴染の存在が拍車をかける。
早紀の容姿の良さを否定する気は春にもない。化粧っけのない整った顔立ち。幼い頃から続けてきたスポーツの影響で、しっかりと引き締まった無駄のない肉体。
この学校の男子生徒にアンケートでもとれば、九割くらいは可愛いと答えるだろう。
容姿端麗なだけでなくスポーツの特待生、そんな肩書を持った幼馴染が、毎時間のように春の教室まで、わざわざ様子を見にくるのだ。
ちょっとやそっとの嫉妬を、男性陣からかってしまうのも必然というもので、特に仲間であるはずの男子バド部からは、春は目の敵にされていた。
だからこそ春としては、あまり教室まで来ないでほしいと思っているのだが、早紀はまったく気にしてくれない。
だいたい、高校生にもなって女の子に心配されて様子を見に来られるなど、年頃の男子なら普通に恥ずかしいことだろう。
それ以上に、そもそも春は、この幼馴染のことがあまり好きではなかった。
春とは違い、早紀は春の父親のことを尊敬しているから。
早紀は、幼い頃に父親がいなくなった過去がある。母親は仕事で忙しかったのだろう。孤独に泣いていたのを見かねたのが、春が早紀をバドに誘ったきっかけだった。
あれ以来、春が練習するときは、常に早紀も一緒だった。
春の父親も早紀の境遇を聞いて、まるで面倒を見るかのように、能動的に早紀を連れて行くようになった。
ラケットやシューズなど、必要なもの一式を揃えてあげるくらいには面倒見が良く、早紀が嬉しそうにはしゃぐ様子を見ている姿は、まるで本当の父親のようだった。
早紀からしても、本当の父親のように思っているのだろう。
ろくでなしの自分の父親とは違い、有名な元選手であり、幼い頃から適格な指導をしてくれた恩師。
早紀にとって、春の父親はそういう存在で、普段から敬意を抱いているのがよくわかるのだ。
これだけでも春は、早紀とは相いれないと考えていた。
そして、春が早紀を敬遠している理由はそれだけでない。
幼いころから純粋なところがあった早紀は、春がこのままバドミントンの選手として大成し、国を代表する有名な選手になると、そう信じて疑っていないのだ。
早紀から向けられる理想。
まっすぐで不純物のない綺麗な憧れ。
それは春にとって、ただただ厄介なものでしかなかった。
「それって、私たちが付き合ってるとか噂されてること?」
「まぁ……それ以外にもいろいろ言われてるみたいだけど」
「そんな小学生みたいな人たちの言うこと、気にしなきゃいいのに?」
「別に気にしてるわけじゃないけどさ、なければその方がいいじゃんか」
「ていうか私たちずっと一緒にいるし、そう見られても当然じゃない?」
どうやら何を言っても無駄らしい。改めてその事実を理解した春にできることは、早紀に聞こえるようにため息をつくことくらいだった。
けれども早紀は、春のわざとらしい嫌がらせにも動じていない。春の前の席の椅子を丁寧に引き出して座ってしまう。これだけ邪険にされても、すぐに帰るつもりはないらしい。
「ねぇ春、今日こそは部活に来なよ」
「まだ痛むって言ったばっかりなんだけど」
「それは分かってるってば、バドはまだできなくても他にできる事があるでしょ? 少しでも筋肉落とさないようにしておいた方がいいよ」
早紀の言っていることは正しい。
休んでいる間に技術は錆びつくし、基本的な筋力も、使わない分だけ落ちていく。
春がラケットを握らなくなってもうずいぶんとたつ、豆だらけで硬くなっていた掌は、今では見る影もなく柔らかくなっていた。
復帰した後のことを考えるなら、今のうちから少しでもできる事をしておいた方が、実力を取り戻すために必要な時間も少なくできるだろう。
けれどそれは、早く復帰して、たくさん活躍したいと考えている場合にかぎるのだ。
「ランニングで体力維持したり、体幹トレーニングしておくだけでも、何もしないよりだいぶ違うはずだよ」
「まぁ確かにそうだよね」
「でしょ! 春のトレーニングには私が付き合うから、二人で一緒に頑張ろ!」
「……早紀だって自分の練習があるでしょ?」
「気にしないで、私にとって一番大切なのは春のことだから」
春には、早紀の言葉の中に嘘があるとは思えなかった。たとえ誰が聞いたとしても、早紀は本心から言ってくれていると確信するのではないだろうか。そのくらい、早紀は普段から献身的なのだから。
早紀から春へ、無条件で与えられる信頼と献身。
「だって春は将来絶対にトップ選手になるんだよ! そのために春を支えるのが私の役目だから」
そして理想。
早紀は昔からこうだった。
遊びたい盛りの年頃のすべてを練習に費やしてきた春。
本当なら友達をたくさん作って、いろいろなことをして遊んでいたのだろう。
けれどそうはならなかった。
春があの父親の子供として生まれた時から、この運命は決まっていたのだから。
友達からの誘いは断らなければならなかった。
そのうち誘いはなくなった。
そうなると、自分から声をかけても無駄だった。
いつの間にか、友達と呼べる存在もいなくなった。
そんな春とずっと一緒にいてくれたのが早紀だ。
辛い練習も二人で耐えた。
本当に珍しい休みも二人で過ごした。
小・中・高とずっと同じ学校に通ってきた。
早紀は、私がずっと春を支えるんだと、それが自分の夢だとでもいうように、昔からそう語っていた。
そのうち、一緒に練習をすりだけではなく、食事管理のやり方も学び始めて、春の家の食事の準備を手伝ったりもしていた。
現状、春がまったく活躍できていない状態でも、早紀が不満を口にすることは一切ない。
期待外れだなんて悪態をつくこともないし、これ見よがしにため息をつくこともない。
こうして毎時間春の元にやってきては、まるでまだ足りないとでも思っているかのように、春のために何かをしようとする。
きっと早紀は、言葉の通り、春が将来大成することを微塵も疑ってはいないのだろう。
幼い頃から春の父親を尊敬して、その息子である春もそうなると、盲目的に信じている。
春は、そんな早紀が苦手だった。
自分の意思とは関係なく築かれていく自分の偶像。そして、その通りになるように作り変えられていく、本当の自分。
けれども他人に勝手に作られたそれは、本当に自分だと言えるのだろうか。
選手として活躍し、有名になる。それは本当に素晴らしいことだと春も思っている。
だがそうなるべきだと、その理想を押し付けてくる父親には感謝なんてない。
唯一近くにいた幼馴染とも分かり合えず、むしろ早紀は、父親と同じように春の将来を勝手に決めつける。
そんなふうに何もかもを周りに決められて生きていた春。
何のために自分は生きているのか。
いつの頃からか、春がそればかりを考えるようになったのは、必然の流れだったのかもしれない。
「いいや、部活には行かない」
「な、なんで? 私には遠慮しなくていいんだよ?」
「別にそういうんじゃなくて、放課後は予定あるから」
「予定って?」
「まえの大会とかぶってて受けれなかったテストだよ」
「あ、春は今日なの?」
「そうそう、僕は部活できないからやっちゃおうって先生がね」
「そっか、そういうことなら仕方ないね」
どうやら早紀も納得してくれたらしい。
丁度そのタイミングで、休み時間が終わったことを告げるチャイムが鳴り響いた。春にとっては救いの音。
また来るねと言って、早紀は教室を出て行った。
早紀の背中が見えなくなってから、やっと肩の力を抜くことができた春。次の休み時間は、早々に教室から逃げ出しておこうと固く決意したのだった。




