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雨の匂いがし始めたとき・道なき道で・知識の断片を・話し相手に暇をつぶしていました。

 埃が混じったような臭いがする。森の中でも、まるで都会の真ん中にいるかのような臭いがするものなのだな、と男は苦笑いをした。ここは森である。道はない。道なき道を進んでいる。草をかき分け、獣が踏み荒らしたと思われる草の低いところを突き進む。前へ前へ。男は一人であった。男は森を歩いている。男は何を目的にしているというのか分からぬが、ただ森をかき分けて進んでいる。もう夜は更けている。真っ暗の中を、手にしていた懐中電灯の明かりだけで進んでいた。さすがに森の中で光が無いのは心細かったと見え、足下ではなく進む先を照らしながら歩いている。森は静寂であった。獣の声も聞こえそうなものだが、虫の羽音すら聞こえない。しじまである。真っ黒の森が吸い込んでいくかのように、何の音すら聞こえない。男はその事象に恐怖を覚えなかった。むしろ好都合とさえ考えていた。だが息切れをし、懐中電灯をつかむ手は時折力が入っているので、体は暗闇の森に恐怖を覚えているようだ。だが彼の頭の中は、

そんなことはどうでも良かった。ここで熊にでも猪にでも遭ってしまうかもしれないが、それでもどうでも良いと考えるほどだった。男はただ前へ進んでいる。いつになったら目的地が来るのか、男にもよく分からない。時折思い出したように懐中電灯で周囲を照らしてみた。立ち並ぶ真っ黒な木々が、その時だけぱっと白い肌を浮かび上がらせていた。この木はだめだ、この木もだめだ。そんな選別を意味もなく繰り返す。だが男は帰ろうとは思わなかった。この気味の悪い森から暖かい我が家へ戻ろうなど、彼にはその暖かい我が家という想像力が欠如しているようだが、微塵も思わなかった。

 「ああ」

 「お前は何をしているんだ」

 「ああ。探してる」

 「何を探しているんだ」

 しじまの影響か、彼の耳には別の人間の声が鼓膜に聞こえるようになっていた。彼はその見えない誰かとの会話をしている。

 「忘れてない。忘れてないんだ。ただ良い場所が見当たらないだけで」

 「見つかったらどうするんだい」

 「見つかったら」

 男はそれ以上口にするのは躊躇った。だが別人の声は、頭の中から響いてくるように尋ねてくる。

 「何をしたいんだい」

 「もうやめておきなよ。それ以上は口にするべき言葉じゃない」

 もう一人の別人が、最初の別人Aの追求を止めた。別人Bとする。

 「口にすると今うるさいんだよ」

 「うるさいって、何が」

 「コンプライアンスだよ。みんな過敏になっているのだから」

 「仕方ない、それなら仕方ない」

 別人AとBは、男を放っておいて話し合って納得したらしい。男は耳元がにぎやかだが、自分が答えなくて良くなって安堵していた。

 「でもでも、私は知りたいんだよね」

 別人Cが出てきた。男が高校時代に好きだった同級生の声に酷似している。しゃべり方も彼女そのものだ。

 「知りたくても言わないのが華だ」

 「えーつまんない」

 男は別人Cであれば言っても良いかと口を開きかけた。だがBに止められる。

 「おっと、いけない」

 別人Bはよく考えれば、小学校中学校と長く過ごしてきた親友の声に似ていた。しっかり者の親友だ。今もこの瞬間も、幸せに彼は生きていることだろう。別人Aは大学時代に出会った飄々とした風体の先輩に似ている。先輩なら分かっていても尋ねてくるに違いない。

 「別にいいんだけどさ、いつまで歩くんだい」

 別人Dが出てきた。子供の声でふてくされている。よくよく思い出してみると、男が幼稚園が一緒だった友人の声だろうと思われた。すぐ気にくわないことがあるとふてくされる性格だった。彼はもう成人してとっくに性格も容姿も変わっていることだろう。

 「あの木がいいよ、あの木はイヤだね」

 別人Aがそう言ったのに、男はふっと顔を上げた。別人はみな声だけの存在であるのに、男は何故か別人Aの指さしたものが分かった。別人と書いているものの、それらは

皆男の幻聴に似たものだからその通りなのだろう。

 「ああ、いいな」

 男はそう口にした。そうして目当ての木に近付くと、首にひっかけていたロープを、手頃な枝に引っかけようと試みた。何度も投げるが、なかなか届かずに歯がゆい思いをする。脚立を持ってくるべきだったと後悔するが、仕方なく何度も投擲を繰り返した。ようやく枝に引っかかると、太い部分に引っかかるように横に引っ張っていく。その手つきは慣れてはいないが、男は妙に冷静だった。太い部分に引っかかると、自分の体重を預けてみて大丈夫なことを確認し、ロープの端をするするとおろして石を結わえ付ける。

 「いくのかい」

 「うん」

 男は答える。別人たちはその成り行きを見守っているのか、急に息を潜めて男を見守っていた。先ほどまでうるさかったはずなのに、森の静寂が戻って身に迫ってきた。男はそのしじまに耐えきれず、自らの首にロープを引っかけた。石をぐんと放り投げた。自動的に首が締まり、男はあの世への旅へと飛び立つ。だが。

 「やっぱり、死にたくない」

 男はつぶやいた。こんな素人目線の装置などうまくいくはずもない。男は目の前に来た死神に瞬時におののき、はっと目が覚めたらしかった。今から歯が鳴る。暗がりの森への恐怖に、両足ががくがくと震えだした。

 「死にたくないよ」

 「今更かい?」

 別人Aがそう囁く。そういえば妙な寒さを男は感じていた。暗がりの森への恐怖が身に染みているのだろうと思っていたのだが、それにしては歯が鳴るほどの寒さだ。妙な現象である。 

 「もうとっくに」

 誰の声かは分からないが、男は絶望した。

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