2.聖女は勇者と出会う
鬱蒼とした森の中では、妙に甲高い鳴き声が響いていた。聖魔法を放出することで魔物は近くに寄ってこないが、当然動物には効力がない。魔物が出没するこの森には大型の獣はいないと聞いているけれど、それでもこの声は不気味だった。
地には木の根が張って非常に歩きにくい。その上、至る所に踏むと滑りそうになる苔まで生えて、中々思うように進むことができなかった。
とにかく下を見ながら慎重に歩くことにする。
ふと顔を上げると、周りは木ばかりなのでどちらの方向が入り口かわからなくなってしまっていた。
それでも途方に暮れている暇などない。とにかく早く勇者に会わなければならないので、適当な方向に歩くことにする。
しばらく歩いていると、何かが爆ぜるような大きな音が聞こえてきた。
「よっしゃ! 残り三匹撃破!」
しかも男性の声も交じっている。勘を頼りに歩いてきたが、神が勇者のいる方向へと導いてくれたに違いない。神に感謝しつつ、勇者のもとへと急いで駆け寄ろうとしたけれど、躓いて転びそうなったのでゆっくりと近寄ることにする。
まず目に入ったのは醜悪な魔物の群れだった。絵では見たことがあるけれど、実際に見ると思った以上に迫力があった。不気味にうごめく巨大な芋虫のような魔物が、尖った口から闇魔法の塊を飛ばしている。闇魔法に当たると、人の皮膚は溶けてしまうのだ。少量でも火傷のような跡が残り、大量に浴びると命さえ危なくなる。これも聖魔法の結界を体の周りに展開することで防ぐことができるが、魔力が尽きると終わりだ。しかも、あまり勢いよく闇魔法を飛ばされると、聖魔法の結界を突き破ってくる。ここにいる魔物が飛ばす闇魔法の塊はとても速く感じる。とりあえず放出する聖魔法を小さくまとめて結界を濃くすることにした。
「残り一匹! どっからでもかかってこい!」
黒髪の男性がそう叫ぶと、長い金属の筒のようなものから聖魔法の小さな塊を撃ちだした。闇魔法でできた結界を突き破ってその塊は魔物の体にめり込んでいく。
とても不思議な戦い方だ。普通は聖魔法をあのように飛ばすことができないので、聖騎士は剣に聖魔法を込めて戦う。しかし、さすが勇者だ。彼は聖魔法を飛ばして遠くの魔物も倒すことができるらしい。
魔物も負けてはいない。闇魔法の塊を何個も吐き出して勇者に向かって飛ばした。それらを華麗に避けながら、勇者が聖魔法の塊を連射している。
その無駄のない動きが美しいと思った。瞬きをすることも忘れて私は見つめ続けていた。
急に静寂が訪れる。
辺りにはすえたような嫌な臭いが充満していた。直径が私の身長ほどもある芋虫のような魔物の死体がいくつも連なっている。
勇者は無傷らしく悠然と魔物に近寄っていく。いくら数が多くても、このような下級の魔物に勇者が負けるはずはないとわかっていたけれど、心配で息をするのを忘れていたみたい。ようやく深呼吸をすることができた。
すると、うごめく何かがふくらはぎに当たっている。今まで勇者の戦いに夢中で気がつかなかったのだ。
「キャー!」
思わず叫んで走り出してしまった。
「痛い!」
そして、恥ずかしいことに苔に足を取られて見事に転んでしまった。咄嗟に手を着いたので顔を地面にぶつけることはなかったが、膝を木の根で擦ってしまう。
「何者だ!」
勇者が金属の筒をこちらに向けながら私を睨んでいた。無様に転んだところを見られたなんて恥ずかしい。慌てて起き上がろうとしたけれど、足首が痛くて力が入らない。とにかく両手を地につけたままでいるのは恥ずかしいので、勇者の方を向いて座ることにした。
「は、初めまして。わ、私は聖女です。勇者様に会うためにこの森に来ました」
座ったままで変な挨拶になってしまったけれど、とにかく敵ではないとわかってもらいたい。しかし、その目論見は外れたかもしれない。
勇者が持つ筒から光る塊が出て私の方に飛んでくる。それを咄嗟に手で受け止めた。すると、勇者は私の膝や足首にも塊を撃ち込んだ。
「いやー! 死ぬ!」
魔物の最期を見てしまった私は、思わず目を閉じて叫んでいた。
「あんたが人間なら死ぬはずないだろう。それとも、そんな姿をしているけれど、魔物か?」
「魔物じゃないわよ! 聖女と言ったじゃない!」
私に当たったものは聖魔法の塊なので、魔物は傷つけるけれど、人に対しては癒しの効果を持つ。強く打ってジンジンと痛む掌も、ズキンズキンと脈打っているような足首も、そして、血が流れ出ている膝も、嘘のように痛みが引いていた。もちろん、私だって聖魔法が使えるので怪我を治すことができるけれど、こんなに早くは無理だ。しかも、直接手を触れなければ癒すことができない。
私は驚いて勇者を見た。
「本当に人間みたいだな。それにしても、スカートでこんな森に入るなんて正気か? だから、リスの尻尾に脚を触られただけで叫んで走り出したりするんだ。ブーツを履いているだけマシかもしれないけどな」
「リス?」
後ろを振り向くと、小さなリスが木を登って行くのが見えた。あのふさふさの尻尾がふくらはぎに触れていたらしい。
あんな小動物に驚いたことが気恥ずかしくて、慌てて立ち上がりスカートに付着した土を払って胡麻化そうとしたけれど、こびりついた苔の緑色は残ったままだった。
「助けていただきありがとうございます。私は聖女のシルヴィと申します。勇者様、お会いできて光栄です」
開き直って転んだことなどなかったように勇者に微笑みかける。だけど、勇者は微笑みを返してくれることはなく、その涼しげな黒い目が不審そうに細められた。
「勇者って何だよ? 俺はただの冒険者で、魔物の討伐依頼があったのでここへ来ただけだ。人違いじゃないか?」
「勇者の鏡にお姿が映ったので、貴方が勇者です」
そう断言すると、勇者は少し戸惑っているようだった。
「勇者の鏡って?」
「勇者が現れるとそのお姿を映すのです。私も確認しました。間違いありません」
「この世界には不思議なことが沢山あるから、そんな鏡があってもおかしくないかもしれないけどな。俺がこの森に来たのは二回目なんだよな。前の時は映らなかったんだろう? じゃあ、やっぱり俺じゃないと思うけどな」
「二回目ですか?」
勇者の言うことが本当なら、なぜ勇者の鏡に映らなかったのだろう?
「ああ。二年前トラックに轢かれて死んだと思ったら、この森で目が覚めたんだ」
「トラックと何でしょうか?」
勇者の言葉は理解できるのに、その言葉に聞き覚えはなかった。大きな魔物の名前かもしれない。魔物の中には地を転がるようにして移動し全てを圧し潰していくようなものもいるらしいから。
「鉄製の大型荷馬車のようなものだな」
「まあ、それは大変です。お怪我はありませんでしたか?」
神殿がある町でも、たまに馬車の事故が起こり、聖女として怪我人を治療をすることがあった。多くの人は重傷で、力及ばず亡くなる人もいる。
「不思議なことに怪我はなかった。でも、いつまでもこんなところにいるわけにもいかないから、適当に歩いていると、たまたま魔物の討伐に来ていた冒険者ダーフィットに出会って助けてもらったんだ。ダーフィットはベレンセの冒険者ギルドに所属していたので、そこまで連れて行ってくれた。それから、ダーフィットのパーティに加えてもらって冒険者として鍛えられたんだ。お陰で、今はこうして単独で魔物討伐ができるくらいになった」
ベレンセというのは隣国の町の名前だ。我が国は聖騎士団が魔物の討伐を行うが、隣国では冒険者が請け負っていると聞いている。
「勇者の鏡は我が国に勇者が現れた時に反応するのです。おそらく勇者様は隣国の方へ行かれたので、勇者の鏡に映らなかったのでしょう」
二年前、神は勇者を我が国に導いてはくださらなかったらしい。
「仮に俺が勇者として、なぜあんたがこんなところまで会いに来たんだ?」
そうだった。早く本題に移らなければ。
「勇者様。お願いです。魔王を倒してください」
このお願いをするために、私はここまでやってきたのだ。勇者の戦いに見惚れていたり、転んでしまったりしたので、話をするのが遅くなってしまったけれど、ようやく魔王討伐をお願いすることができた。
「はぁ? それは討伐依頼か? それなら報酬は?」
「魔王討伐には私がご一緒します。それから、見事魔王を討ち果たした暁には私を妻としてください」
これで受けてくれるか不安だけれど、歴代の勇者は魔王を倒してくれたのだから大丈夫のはず。
そう思って勇者を見ると、不機嫌そうに片目を閉じている。気分を害したらしい。何がいけなかったの?
「あのな、俺はこう見えてもプロの冒険者だぞ。適正な報酬を払わないような依頼を受けるわけないだろうが!」
「私では報酬になりませんか? 次の聖女はまだ十三歳で、聖魔法も十分に使いこなせない状態です。ですから、魔王討伐の旅に同行するのは無理なのです。私ではご不満だと思いますが、どうか、今だけでも私で我慢していただけないでしょうか? 二年後には新しい聖女と結婚できるように交渉いたしますので」
やっと国に貢献できて母にも喜んでもらえると思ったのに、私では駄目だったみたいだ。勇者に拒絶されて泣きそうだけど、今はそんな場合ではない。とにかく、魔王討伐を受けてもらわなくては。
「あんたが不満だと言っているんじゃない! あんたは見たこともないほど綺麗だと思うけど、今会ったばかりだし、いきなり妻にしろと言われても困るから」
勇者の語尾が小さくなっていく。