安倍晴明
夜にやり込められた道長は、香子の元を訪れることが減った。
夜はあまり気にしていなかった。
権力者の寵を得るのは、この時代の最適解の一つのはずなのだが⋯⋯。
香子の方には、道長からの文が時々来ていたが、彼女の返事はつれないものだった。すでに彼女の興味は道長の元にはなく、自分の書く物語の上にあった。
創作者の鑑とでも言うべき姿である。
夜は見習って欲しい。
その夜はと言うと、香子のところでゴロゴロしたり、倫子の代筆を申し付けられたりして結構自堕落に過ごしていた。
そんなある日のことである。
彼女は暇を貰って、外出していた。
宮廷絵巻の描写は香子に勝てる気がしない。
なら、自分ができることを探そう。
つまりは市井の人間観察を進めるぞと言う話だ。
庶民の様子は、貧乏とはいえ箱入り貴族のお嬢様である香子にはなかなか理解できないものだった。
それに引き換え、夜は、何年も庶民に混じって旅をしていたことからもわかるように、何も頓着せずに歩き回ることができる。
とりあえず大内裏に向かって歩いていく。
土御門邸は、大内裏の東側、土御門大路と京極大路の間に存在している。
市場へは、大内裏に向かい、大宮大路を南下することが求められる。
夜はそんな土御門大路の一つ北の一条大路を歩いていた。
どうせだし、洛中を一周してやるかとでもいった心構えだった。
それが、面倒ごとを呼んでしまうとは、この時の夜には想像もつかないことだった。
一条大路の途中、一条戻橋のたもと。
そこに屋敷を構えているのは、陰陽道の大家、安倍晴明である。
そのことを夜は忘れていた。
正確に言うと、自らの能力を過信して、調べることを放棄していた。
真夜が言っていた、相打ちになった退魔師の話を聞いていたはずなのだが⋯⋯。
迂闊であった。
晴明の屋敷前を歩いていた夜は、いきなり白い紙のようなもので視界を奪われた。
その紙が巻き起こす風に、抗うこともできず吹き飛ばされてしまう。
「なんだよこれは。」
「これはこれは。このような魔の者が、素知らぬ顔で都大路を歩いているとは。我の力も衰えたか?」
紙吹雪が収まった夜の目に映ったのは、どこかの屋敷の邸宅内の光景、そして白髪の少年だった。
幼い顔に似合わない豪勢な白の狩衣姿をしている。
老成した雰囲気も見た目を裏切っていた。
「誰だお前。」
夜は鋭い表情で問うた。
首筋がチリチリする。目の前の相手は危険だと、感覚が告げていた。
「へーえ。なかなか乱暴な言葉遣いの妖だねえ。おもしろい。」
「妖と、わかるのか。」
夜は警戒を強めた。
久しぶりに超自然的な現象に行き当たってしまった。
その現象を起こしたのは、おそらく目の前の人物だ。
「しょうがないか。名乗ろう。我は安倍晴明。陰陽師だ。」
「安倍晴明って、もう70歳を超える爺さんって話じゃなかったか?」
「老化を止める術くらい簡単だが?」
「すごいな⋯⋯。」
「我が名乗ったのだ。お前も名乗れ。」
「夜だ。土御門殿で女房として働いている。」
「妖でか?」
「別に俺は人を食う必要はないぞ。人は好きだしな。」
「なるほどな。」
晴明は頷いた。
とりあえず、戦いは回避されたような気がする。
夜は安堵した。
安倍晴明の噂は聞いている。
とても有能な陰陽師であり、怨霊調伏の才に富んでいるらしい。
この頃は歳をとり、第一線からは引いていると聞いていたため、深く調べてはいなかった。
「お前の力が知りたい。やらないか?」
「この屋敷を戦場にしても良いのか?」
「ああ。我の屋敷をなめるな。」
「殺してしまっても恨むなよ?」
夜は笑う。久しぶりに全力で戦っても良さそうな相手だ。
良い戦闘の、引いては戦闘描写の訓練になるだろう。
「大口を叩くやつだな。面白い。」
晴明もニヤリと笑った。いずれも、己の力に絶対の自信を持っている。
激戦は必至だった。
「「いざ尋常に、勝負。」」
声が重なった。
不老不死の吸血姫と、陰陽術の第一人者。
その戦いが幕を開ける。
膝立ちの姿勢から、晴明は式神を飛ばす。
飛来するそれを伸ばした爪で叩き落として、夜は口から牙を覗かせた。
とても楽しげな表情だ。
「それだけか?」
「無論違うとも。」
晴明の指が鳴らされる。
貫かれた式神がどろりと溶けて、夜の体にまとわりついた。
「小癪。」
振り払う夜だが、紙は離れない。
「もったいないだろうが。紙は本にしろよ!」
「そこに怒るか。ますます面白いやつだ。」
ニヤニヤしながら、彼は次なる一手を繰り出す。
燃え盛る腕を持つ鬼神が呼び出された。
「さあて。これを凌げるか?」
まとわりついた紙に燃え広がった場合、大火傷は必至だ。
流石に夜の顔色も変わった。
爪を構えて、迎撃の備えを取る。
「それでいけると思っているのか?」
嘲る晴明に、夜の視線が向けられる。
殺気のこもった力のある目だった。
「お前は俺を怒らせた。紙を無駄にするやつは俺の敵だ。」
足の筋力を収縮して、夜は飛び出した。
速度が段違いになる。
鈍重な動きの鬼神の腹を貫いて、彼女の爪がまっすぐに晴明に迫る。
紙に移った炎が燃え上がるが、その前に晴明を殺せば良い。
もはやこれが単なる手合わせであることを忘れている。
「素晴らしいな。」
突き出された彼女の爪が、晴明の出した、盾のような紙に防がれる。
五芒星が光って防御力に補正をかけているようだ。
だが、本気の夜の爪は、それを容易に貫通にする。
「この守りを貫くか。」
ピシピシと壊れる盾紙を見ながら、晴明は感嘆する。
「だがこちらとしても命を取られるわけにはいかないからな。」
呟いた彼を式神の紙が覆っていく。
盾紙を貫き、晴明に突き立てた夜の爪は、空を切っていた。
「はあ?!」
「消火はしてやるよ。」
捨て台詞気味に言葉が消える。
「決着つけろよ!!!!」
「我の勝ちだろ。」
「畜生。」
炎に巻かれて、彼女は苦しむ。
「ほらよ。」
宙に浮いた甕からざぶんと水がかけられた。
「乱暴だな。着物代払えよ。」
「気にするなよ。幻の炎だ。」
気がつくと、焦げ果てた着物は元どおりになっていた。
「マジかよ⋯⋯。」
「我は安倍晴明だからな。」
いつの間にか目の前に晴明の姿が戻ってきた。
「で、どうだよ。俺は。」
少しふてくされて、夜は言った。負けだ。転移までされてはどうしようもない。
「いい実力だな。面白いやつだ。」
「だろう。」
夜は胸を張る。
「ふふふ。お前の実力なら、問題ないようだ。」
「何がだ?」
「帝から、大江山の鬼退治に同行するように頼まれていたのだが、流石に我も歳だ。どうするか悩んでいたが、お前が行けば解決だろう。」
「は?なんで俺が。」
「土御門殿に仕えているのだろう?この我が、物の怪がいるとでも言えば一発で追放されるぞ。」
「それが目的で名乗ったのか?」
「いやそれはそっちが勝手に教えてくれたんだが⋯⋯。」
「なんたる卑怯者。」
過去の自分を棚にあげる夜だった。
「迂闊なお前にそれを言う権利はないぞ。それに何より鬼退治だ。ワクワクしては来ないか?」
「まあ、それなりにはな。」
「戦うの、結構好きだろ?今は足を洗ってるかもしれないが、その好戦性は隠せないからな?」
「バレてるか⋯⋯。」
「だから頼む。なに、悪いことばかりではないさ。我の弟子にしてやろう。陰陽術、知りたくはないか?」
「よろしくお願いします!先生!」
今回はだいぶ男として粘った夜だったが、最終的に、丁寧語の女言葉堕ちした。
もはや様式美である。




