藤原道長1
15歳になった藤原為時女は、源倫子付きの女房として出仕することになった。父である為時が失職し、家庭基盤が不安定になったためである。
裳着を済ませた彼女は、香子と名乗るようになった。
源倫子の結婚することになる相手は藤原道長である。のちの摂政関白太政大臣を歴任した、この時代随一の権力者だ。
もっとも、今は従三位。22歳の新進気鋭の青年貴族だった。
これから権力者になるか、それとも、夢半ばで破れるか。
未来は、誰にもわからない。未来を知っている夜も、道長に関しては忘れている。
というか彼女は平安時代の知識のほとんどを失っている。
なんのための転生なのだろうか。
猛省してもらいたい。
ちなみに、香子にくっついて夜も源倫子付きの女房になっている。左大臣邸の土御門殿という大邸宅での居住だ。
香子と源倫子は遠縁の親戚であるため、素性の怪しい夜も許されたのだ。
夜は取り繕えば、どこぞのお姫様かと思えるくらいの気品を醸し出すことができる。少なくとも外面だけは完璧だった。
この時代の結婚制度は、通い婚である。
男性が強い権力を持つ場合以外、男が女の家に通うのが一般的だった。
女性優位だったと言い換えても良い。
今を時めく道長も例外ではなかった。
結婚が決定するまでは、彼も土御門殿に通うしかなかったのだ。
文を出して、女官が受け取って、それを主人が読んで返す。
これが結婚前のやりとりであり、暇がないとき、通うことのできないときにも、少なくとも文は出さなくてはいけなかった。
気分が乗らないときは、女官が代筆することもある。
香子や夜も時々担当した。
このとき、より評価が高かったのは意外なことに夜の方だった。
古今集に通暁し、それより前の歴史にも明るい夜の返しは機知に富んでいると評判だった。
自分が欲しい才能はそちらではないと夜は不満だったが、香子は純粋に憧れの目線を向けてきたのでむず痒く、不満を漏らすのは自重した。
道長も政務が忙しく、なかなか訪ねてくることはなかったが、たまの訪問の時には、源倫子のほうも心込めて歓待するのだった。
その日も、道長が来るということで、屋敷はてんやわんやしながら準備を進めていた。
夜も香子も、忙しく働いている。
そんな中、驚かせようとでも思ったのだろう。
道長が、先触れも出さずにふらりと屋敷の中に入ってきた。
「道長様?!」
そこに出くわして驚いた香子が、大慌てで連絡しようとするのを手で制して、道長は言った。
「驚かせたいのだ。黙っていてくれないか?」
道長22歳、光り輝くばかりの貴公子っぷりである。
普通の女房なら、声をかけられたことに舞い上がり、何をして良いかわからなくなるところだったはずだ。
だが、香子は普通ではなかった。
小説への拘りが高じて、初見の相手に人間観察から入るようになってしまっているのだ。
「かしこまりました。お伝えいたします。」
少しも顔を赤らめることなく、冷静に対応する香子。
そんな彼女に、道長はかえって興味を惹かれてしまった。
今風に言うと、おもしれー女という興味である。
「待て。お前、ちょっと俺に抱かれてみないか?」
恋心を伝えるには和歌を用いた言葉を送るのが常識だが、あまり大声で吟じるとあたりにバレる。
それを両天秤にかけて、道長の取った戦略は、直接的な誘いだった。
「は?」
香子はあまりの事態に呆然とする。
未だ15歳。心構えなどできてはいなかった。
何より、今を時めく従三位の青年貴族である道長には太陽のような魅力が備わっている。
「光栄だろ?妾として、可愛がってやるよ。」
道長のこの言葉は、当時の価値観では何も間違っていない。
権力を持つ男が妾を持つのは当たり前であり、三、四人は当然という雰囲気があったのである。
悩む香子の頭の中に、昔、夜が言っていたことが蘇る。
曰く、最高の小説は実体験からと。
実体験に勝る描写練習はない。
それを夜は実感として持っていた。
今香子が書こうとしている小説はちょうど道長のような男が主人公だ。
なら、そんな相手に愛されるという体験は、しておくべきものだ。
確実に小説の糧になる。
惚れた腫れたなどとは程遠い、創作者としての冷徹な計算が、香子の中で組み立てられる。
「わかりました。」
熱に浮かされた風でもなく冷静に、妾になるということを受け止めた香子に、道長は口の端を上げた。
全くもって、初めての反応をする女だ。面白い。




