オモイカネの依頼
武蔵国に、武甲山という名山がある。それを遥拝する地に、そこそこ立派な神社が存在していた。名を知知夫神社と言う。
その軒下に、俺は潜んでいた。
人に会うのが怖くて、夜の間移動して、ただひたすら都から離れようとしていた。なんでもできると思っていた吸血姫としての特性のその全てが今となっては恐怖の対象だった。都の火事と化け物の噂は聞かなくなったから、距離も時間もそこそこ空いたはずだ。それでも、俺はずっと隠れて過ごしていた。
都で無差別吸血を行なった影響か、何も食べなくても腹は減らない。
だが、それも罪悪感に繋がってしまう。
種族が吸血姫であっても、あくまで人としての価値観にどっぷり浸かっているのだ。良いことなのか、それとも悪いことなのか。俺の中では判断がつかない。
ただ、あの時みたいなことは二度と起こしたくない。
それだけは固く心に刻みつけている。
時が経ってゆっくりとあの時のことについて考える余裕ができてきた。
意識を受けてから何百年も経ったけど、あそこまで理性のタガが外れたのは初めてだった。確実に要因があるはずだ。
大切なものを傷つけられたからか?
大麻はめちゃくちゃ大事にしていたから、その可能性はなきにしもあらずだが、流石にそれだけが要因とは考えにくい。
もう一つくらい、何かあるはずだ。
あの時の状況を思い返す。辺り一面はもうもうと大麻から出る煙で覆い尽くされ、俺は思いっきりその煙を吸い込んでしまっていた。
思えばあれから俺の思考回路はおかしくなっていったように思う。
そういえば、大麻って前世知識で麻薬とか言われてたような気がする。
それが吸血姫に特異的に超絶作用して俺の理性を溶かしたのではないだろうか。
じゃあ俺が大麻作っている間、俺はずっといつ暴発するかわからない火薬庫だったのか? ここまで来るとあれだな。よく暴発しないで済んでたな。
実は俺すごいのでは。
まあ、紙づくりには燃やす工程なんて含まれていないから、煙が発生しようもなかったからだろうけど。
多分おそらく確実にそれが原因だ。
原因がわかったならあんまり気に病むことはない気がしてきた。
大麻が植わっているところに行かないことで対策可能だ。
ただ、俺が品種改良して広めてしまったせいで、大麻はわりとどこにでも存在しているんだよなあ。ひょっとして不可能か? 俺のせいで俺が詰んだぞ。
⋯⋯うん。如何にかこうにか消火能力を身につけるしかなさそうだ。
水を常備しよう。いや、水を掛けても煙が出るだけか?
煙を吸い込む方がまずいからこれは却下だな。ガスマスクを作成するしかない。
でもどうやるんだよ。前世知識があればまだなんとかなったかもしれないが、ほとんど忘れてるんだぞ。
やっぱり引きこもるしかない。
前世でもこんな感じだった気がするなあ。体のスペックは桁違いでも、運用する魂が同じなら、結局こうなるのか。悲しくて、悔しいけど、仕方ないや。
俺は、体育座りで、ただ時間が過ぎるのを感じていた。
何かやろうなんて思っちゃダメだ。俺はただの人間の害悪の化け物なんだから。
負の思考スパイラルは俺を捕らえて離さなかった。
ぽっと軒下に明かりが灯った。
外は真っ暗でおそらく真夜中。
妖怪がねぐらにしていたのだろうか。
それなら別のところに行って引きこもろう。
争う気は無かった。
「誰かと思えば、こんなところで何してるんだい、夜? 」
その声は聞き覚えがあった。
100年ぶりくらいに聞いた声だ。
「あなたは⋯⋯。」
見上げた俺の目には、縁側の外に見覚えがあるような足が映っていた。
「久しぶりだね。」
しかし足しか見えない。
「そんなところにいないで出ておいで。歓迎するよ。」
のろのろと俺は這い出した。
「はっはっは。ひどい格好じゃないか。ひとまず社殿にお入り、ここは私の神社だからね。」
そこにいたのは、優男風の知恵の神、オモイカネだった。
ニニギのところからいつの間にかいなくなって数百年。彼は自分の神社を手に入れていた。白も俺たちが下界に降りるときには神社持ちになる感じだったし、元々持っていた可能性も高いか。
オモイカネなら俺が多少暴走しても大丈夫だろう。
そんな信頼のもとに俺は彼の神社内に足を踏み入れる。
御神体であろう鏡と、その前のお祈りするための空間。
そこに、祭神と向かい合って座るのはなんだか変な感じだった。
「さて、君がそういう風になるのは想像していなかったが、理由は予想できるよ。何かやらかして排斥でもされたんだろう?」
「その通りです⋯⋯。」
初っ端から看破された。本格的に排斥される前に抵抗せずに逃げ出したな⋯⋯。
「それでやることがなくなって引きこもっていると。天照様とどっこいどっこいだね。」
天岩戸時点の天照はスサノオのいじめに耐えきれなくなって引きこもったんだったな。俺と同一視していいのか? 不敬じゃない?
ただ、その言葉自体には俺は何も反論できなかった。
夢を遠くに追いやって、ただ震えているだけの毎日は、恐ろしい深淵の淵に沈んでいくようで、でも、そこから浮かび上がる術もない。
ただ無為に日々を消費するだけの存在だったからだ。
「しょうがないね。もうしばらくしたらお前に連絡を取ろうと思っていたんだ。その計画を前倒しにしよう。」
「計画とは?」
「夜。君は歴史書を作るんだ。」
「今なんて言いました?」
「歴史書だよ。そろそろ神々の時代も終わりだけど、私たちの歴史も神話として残して置きたいんだ。そのためには、その歴史を知っているものがいることが必要不可欠だからね。」
「なるほど?」
「お前を高天原に招いたのは、それを作らせたかったからなのさ。だから歴史を覚えてもらった。ひょっとして忘れてるって言わないよね??」
「いや、正直忘れてますが⋯⋯。」
何百年前のことだと思ってるんだよ。大麻の品種改良で忙しくて忘れたわ。
「まあそれならそれでいいよ。また覚えさせるだけだから。」
オモイカネはニヤリと笑った。それは強制的に学習させようとしていた初めて会った時のあの時の表情によく似ていた。まあ、一回覚えた知識だから、そんなに苦労せずに覚えられるだろう。なんとでもなるさ。
「あ、それと、その後の歴史に関しても補足があるので、そちらも覚えてね。大丈夫。同じくらいの分量だから。」
優男風の顔立ちで意地悪な表情作ったらギャップがすごいな。
そして面倒臭いことになった。あれは元からかなりの分量が有ったと思うんだけどそれを二倍か。やめて欲しいぞ。
「もう逃がさないよ。」
微笑む彼は悪魔のような顔をしていた。背筋がゾクゾクする。
でも、歴史学習をやっている間は、やってしまったことを思い返さなくて済む。
なら、これでいいか。
俺はそう考えることにした。
ちなみに大麻で頭がやられたか、歳をとりすぎたからかはわからないが、今回の歴史学習には手間取ることになった。もう、若くないんだな⋯⋯としみじみした。




