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駄目

 翌日、バイト先で加那から聞くまで、宏太は加那がアイドルを辞めたことを知らなかった。

「卒業ライブをやってほしい」と園田から依頼があったが、それを固辞したため、アイドルとしての松岡加那のツイッターアカウントも、おやつ食べたいなのツイートから何も言わずに、閉鎖した。

「ここまでしてもおれと別れたかったのか。ここまでしなくていいのに」

 弁当を積んだ車の運転席でスマホを見つめた宏太が言った。助手席には加那が座っている。

「だって、アイドルをやりたいなら別れるなと言ったじゃん」

 わざと加那が言う。

 宏太は、まさか加那がアイドルを捨てるとは思わなかった。

 恐ろしくなって何も言わずにエンジンをかける。

 バイト中、宏太はほぼ無言だった。

 翌日からバイトに来なくなった。

 女の覚悟は男をもろくしてしまうものだ。



 加那はアルバイトを続けながら、バイト先と家の往復の日々を過ごしていた。

 アイドルとして、そんなにファンはいなかったけれど、それでもスタッフや共演したアイドルなどを含めると、たくさんの人と連日顔を合わせる日々だった。その反動で人と会うことが億劫になり、家に帰れば部屋で本を読んだり、動画を見たりする時間を過ごしていた。月に一回ぐらい庵主に誘われて外食に行くぐらいしか、遊びで外に出ることもなかった。

 ツイッターのアカウントは消したが、スマホはまだ持っていた。

 バーグは加那がアイドルを辞めた次の週まではSUN SUN SAMBAの現場に姿を見せたみたいだったが、その翌週からは福岡の純情可憐博多娘というアイドルグループに推しメンができたらしく、そこに通いだしたようだった。アイコンもその子の顔に変わり、過去のツイートを見ない限りは、まったく加那のことなど触れていないアカウントになっていた。

 加那が気に入らなかったのは、卒業公演を断り、アカウントを消した次に日に山名和彦がツイートした内容だった。

 曰く「自覚を持っていないアイドルがまたひとり去っていった。このアイドルの軽率な行動がどれだけの人を苦しめたか。いま活動しているアイドルには反面教師としてとらえてほしい」。

 たしかに言っていることは正しく、加那も辞めてしまったことで迷惑をかけたことは実感している。でも、亜由美とあんな関係でありながら、平然とこんなことを書くなよなと思った。

 そのまま、だらだらと三か月を過ごした。

 以前共演したことのあるアイドルグループの女性マネージャーからの電話が鳴ったのは、年が明けて2月のことだった。

 福岡市内を中心に活動するアイドルグループだが、共演した頃からSUN SUN SAMBAよりも人気のあるグループだった。福岡という土地柄、一般の地元の人の知名度はSUN SUN SAMBAのほうがあったかもしれないが、それ以外のアイドルファンの中での人気、知名度、実力もSUN SUN SAMBAよりも上だろうと認められているグループだった。

「サンバさんからの縛りはないのよね。辞めて何年は活動してはだめだったいうのは?」

「特にないです」

 昔はあったのかもしれないが、職業選択の自由を侵害しているとの判例が出てから、そういう契約はアイドル界からは消えている。

「まず、練習を見に来ない?」

「はい、ぜひ!」

 アイドルを辞めてすっきりしていたのは事実だ。

 静かにバイト先と自宅の往復で生きる生活に慣れてきていた。むしろ、疲れがたまることも少なく、神経をすり減らして人と付き合うことも、歌やダンスの出来栄えに悩むこともない毎日に満足していた。

 たまたま、SUN SUN SAMBAというやりたいことがあった期間がしあわせなだけで、普通の人はやりたいことを見つけられずに日々を追われて生きている。人生とはそういうものだと加那も感じていた。そして、それが普通のことだと思っていた。

 だが、いざもう一度アイドルをやってみないかと言われると、心が揺れる。

 JRで博多駅まで向かい、駅からスマホのナビを頼りに西鉄バスに乗り、福岡のアイドルのレッスンを見た。

 八人と大所帯のそのアイドルグループは、下は中学二年生から、上は加那よりも年上の22歳の大学生までいた。レッスンは加那が思っていたよりも緩い空気で、時折笑いが起こるほどだった。

 見学をしていてずいぶんイメージと違うと加那は感じた。

 福岡のアイドルはもっと厳しくレッスンをしていると思っていた。これならついていけそうだと思う。

 マネージャーにレッスンの感想を求められ、「思ったよりも楽しそうにレッスンをやってるのですね」と言ったら、「うちはゆるいもんね。体育会系でビシバシやってるところもあると聞くけど、うちはそれをやるとメンバーが辞めちゃうから。メンバーは運営だけじゃなく、ファンの人にも大事な財産じゃない。だから大事に扱わないとね」と言われて、このグループならやっていけそうだと思った。

「うちに入ってくれるんだよね。楽しみだな」と話しかけてくれたのは22歳のリーダーだった。共演したときに一緒に写真を撮ったことがあり、顔見知りだった。

「三か月のブランクがあるから、すぐに動けないかもしれませんけど」

「基礎ができてるから大丈夫だよ」

 リーダーは笑って見せた。

「サンバの頃からファンでした。一緒にできるなんて楽しみです」

 そう言ってリーダーと加那の間に入ってきたのは、17歳の人気メンバーだった。彼女は加那に対して敬語だった。前に共演したときもそうだったのかなと思ったが、レッスン中ほかのメンバーとの会話を見ても、19歳の三期生にこの17歳の一期生が敬語で話しかけているのを見た。このグループは芸能関係にありがちな、先に入ったほうが年齢など関係なく先輩、という規律がないんだろうなと思った。そういったところでも、ぜひこのグループでやりたいと思った。

「いつぐらいからレッスン来れそう?」

 マネージャーが訊く。

「金曜日ぐらいですかね」

「電車とバスの定期はちゃんと領収書もらっててね」

「はい」

 レッスンは午後9時に終わった。

 博多駅に着いたのは9時半だった。レッスンを見学に行くことを庵主に伝えていた。気になっていたのか、庵主から電話の着信があった。

 鳥栖方面の快速列車の発車まで十分ほど待ち時間がある。

 加那は庵主にホームから電話をした。

「よかった。それじゃあ、また活動するのね」

 庵主は弾んだ声で言った。

 わたしのことなのに、ここまで喜んでくれる。

 久しぶりに加那の身体にやる気がみなぎっていた。

 博多駅のホームに荒木行の快速列車が入ってくる。



 すべてがうまくいくはずだった。

 木曜日の日中、携帯には新しく加入予定のグループのマネージャーから着信が入っていた。

 宏太が辞めてから、一緒に弁当を売る車の運転手は三人替わった。いまは石川さんという五十代の年配の人だった。ただし、待遇はアルバイトで、収入も加那とあまり変わらないらしい。数か月前まで大きい会社に勤めていてそれなりの役職だったらしいが、子供が大学を卒業したのと、家のローンを退職金で払い終える見込みが立ったので、セミリタイヤしてこのバイトを始めたそうだ。リッチな生活よりも時間が自由に使えるほうがいいといつも話してくれていた。

「ちょっと電話しますね」

 その石川さんに話をして電話をかける。すぐに「もしもし」とマネージャーの声が聞こえた。

「お電話いただいてすみません。松岡です。すみません、バイトをしていました。定期の件ですよね。今日バイトが終わってから買いに行きます」

 加那は先に察したつもりで言った。

「よかった、定期はまだ買っていないのね」

 しかし、マネージャーのリアクションは、ずいぶんと加那の予想と違った。

「はい、今日には買います。明日からですので」

「それが……」

 電話口からでもマネージャーの口が重くなったのが伝わる。

 直感的に加那はいやな予感がした。

「本当に申し訳ないけど、この話、なかったことにしてくれないかしら」

 車は曽根崎の交差点で信号待ちをしていた。

 突然のことにその景色が一瞬全て灰色になったように加那は感じた。

「わかりました」

 いまさら加那がどうこう言っても覆る話ではない。

 アイドルの方針というものは、アイドル自身が考えることなどほとんどなく、大人たちの会議で決められるものだ。アイドルには決まったことが伝えられるだけで、その決まったことを演じることが強いられる。たとえ、大人が決めたことに不服があっても異議を唱えることはできない。そういうものなのだ。

「ごめんね。ありがとう。この話は内密にね」

 マネージャーがそう言うと、電話は切れた。

 明日のレッスンに向けてそれなりに自主トレを家でやっていた。気持ちも昂っていた。それが一本の電話で覆った。

「落ち込んだ顔して。どうしたんだ?」

 石川さんが赤信号で止まっている前の車との距離を詰めながら言う。

「やりたかったことがだめになったんです」

 加那は手に持った形態を恨めしげに見る。

「若いからまだまだいくらでもチャンスがあるんじゃないの」

「はい」

 そうは言われても、うまく気持ちが消化できなかった。

 鳥栖市を南北に走る国道三号線は、片側二車線の工事が進んでいる。

 

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