悪夢
レッスンスタジオには園田と高尾が深刻な顔を突き合わせていた。
「おはようございます」
加那が姿を見せると、ふたりの会話が止まった。ロッカーに向かおうとする加那に園田が話しかける。
「加那、例の件だけど今まで通りにやってもらうってことでどうだろう?」
「はい?」
加那は振り向いて視線を宙に浮かべた。高尾が園田の横で頷いている。
「いままでだって、加那のプライベートはみんな知らなかった。そしてこれからも知らないまま。それで続けるのでいいんじゃないかな?」
加那は腕を組む。
おれと付き合えばアイドルは続けられる、と言った宏太のことも思い出す。
どうしてわたしの周りの男性は、こうも現状維持を望むのだろう。
「でも、彼氏とは別れたいです」
「それは別れてもいいじゃないか」
「写真とかツイートとかネットに出るかもしれませんよ」
園田は加那を安心させるように微笑んで頷いた。
「それについてはいま高尾とも話していたけれど、大丈夫だよ。ぼくらが黙殺すれば、ヲタクだって加那の味方だ。無視するだろう。そうすれば時間が経てば忘れられる。それでなにごともなかったように流せる」
「本当は園田さん、写真を持ってる人にツイートしないように連絡したいみたいだけど、加那ちゃんのバイト先の人だからそこは黙っておこうと思ってるんだよ」
高尾が付け加えた。
まさにこれでうまくいくとばかりに、園田と高尾の表情からは自信があふれていた。
そこまで聞いて、加那は首を振った。
「それだとありのままの自分での活動はできません。これ以上、ファンの人に嘘をつくのがつらいです」
「それじゃあ、辞めるって言うのか?」
園田の表情から笑みが消えた。
「加那ちゃん、冷静になって考えようよ。園田さんだって君たちを売り出そうと、お金もかけて、いろんな人に頭も下げてここまできたんだよ。それをすんなり辞めるとか、どれだけの人に迷惑をかけることなのかわかってるの?」
たしかに申し訳ないとは思う。
でも、アイドルの卒業なんて、地下ローカルアイドルの現場ならば日常茶飯事だ。それはたしかに恋人が別れるようにみんなが傷つく哀しいことだとは認める。でもこのまま現状維持で、ありのままの自分を隠して活動するのは、自分が許せなかった。
園田が言う。
「おれだけじゃないよ、いろんな人に支えてもらって活動ができたんだよ。バーグだってどれだけ加那のために尽くしたと思ってるんだ」
そのバーグを出禁にしようとしたのは誰だよ。
加那は園田がバーグの名前を出した途端、完全に吹っ切れた。
「辞めます」
タイミング悪く、理沙がスタジオに入ってくる。
「おはようございます」
高校の制服を着た理沙は、スタジオのただならぬ雰囲気に目を白黒させた。
「ごめんなさい。理沙ちゃん、わたし、SUN SUN SAMBAを今日で辞める」
「え、ちょっと、どういうこと?」
理沙の声が動揺している。高尾が園田を見る。園田が口を開いた。
「わかった。加那がそこまで言うなら辞めていいよ。理沙、これからもがんばろうな」
「いままでありがとうございました」
スタジオを出ようと扉を開けたら、来たばかりの亜由美の姿があった。
「亜由美ちゃん、いままでありがとう。わたし、今日で辞める」
「あれ、そう。おつかれさま」
亜由美はさほど驚かなかった。スタジオでは理沙が泣き出していた。
これ以上話すと迷いが生じそうだったので、断ち切るように加那はスタジオを飛び出した。
携帯を見ると、三時頃に「おやつ食べたいなあ」と書いたツイートに、十七件のリプライが届いていた。もうリプしなくていいのか、と思うと気持ちが軽くなる気がしたが、寂しい気持ちもあった。
鳥栖駅で庵主に電話して、電車に乗る。18時半ちょうどにSUN SUN SAMBAのTwitter公式アカウントから「大切なお知らせ」のツイートがされた。「デビュー当時よりSUN SUN SAMBAで活動していましたメンバーの松岡加那ですが、家庭の都合で誠に急ではありますが、卒業することになりました」と書かれたツイートを見て、家庭の都合なのかと苦笑する。
バーグが「ショックです。本当ですか? 卒業公演などはあるのですか?」とリプをしていたのを見て、心が痛む。園田も言っていたが、バーグは本当に加那のために尽くしてくれたファンだった。物販でチェキを撮るだけでなく、誕生日やクリスマス、そして男なのにバレンタインデーなど節目の日にはプレゼントも持ってきてくれた。それは時には高価なものもあって、申し訳なくなるほどだった。
それに対しては、ステージでパフォーマンスをすることだけがお返しだと思っていた。それしか物理的にも加那がバーグの気持ちに返す方法はなかった。
そして庵主のアドバイスで目的も明確になり、やっとステージに加那が手ごたえを感じていた矢先だった。素直に申し訳ないと思う。
電車が肥前麓駅に到着する。
麓駅は相変わらず真っ暗な夜だった。ただ、帰宅時間に近いためか、加那以外にも電車から降りる人がいて、前回来た時ほど人里離れた感じはしなかった。
庵主の車に乗る。
「結局辞めたのね」
「そのほうがいいと思いましたので」
庵主が車を走らせる。
加那は改めて卒業することを報告するようなリプライは打たなかった。最新のツイートは「おやつ食べたいなあ」のままである。
だがそのツイートに、加那の卒業を惜しむリプライがたくさん届いていた。加那はその中に宏太がリプしていないか、探していた。だがそれらしきアカウントはなかった。
携帯の画面はツイッターを開いたままだった。そのアプリの右下に郵便の封筒のようなアイコンがある。そのアイコンに1件のバッジがついていた。DMのアイコンなのだが、普段の連絡はLINEで済ます加那は、そのアイコンを使ったことがなく、よく知らなかった。バッジがあるのでタップすると、加那の写真をそのまま使っているバーグのアイコンが現れた。そのアイコンをクリックした。途端に加那の表情はひきつった。
加那ちゃん、公式のツイート見たよ
卒業するの?
残念な気分しかない
いままで応援して楽しかったよ
ありがとう
だけど、これからを楽しみにしてたよ
だから本音は悔しいよ
家庭の事情と書いてたけれど
なにがあったのかな
もしよかったら力になれるかもしれない
教えてほしいな
それとね、彼氏はいるの?
年頃の女の子だから作ったほうがいいよ
おれは彼女はいないよ
よかったら友達からでも始めようか
庵主は麓堂に車を走らせている。車は山道に入る。
すっかり冬になった透明な空気が、星の輝きを鮮明にし、車窓に広がっている。
麓堂に着いたときに恐る恐るDMを開いたら、TwitterのDMにもLINEのような既読システムがあるらしく、「読んでくれたんだね、ありがとう。返事待ってるね」とバーグからDMが届いていた。
スタジオを出たときに庵主に電話をしたが、すぐに相談したいことなどよく考えてみたら、特にはなかった。ただ、庵主の顔を見て安心したかっただけだった。
そこで庵主の車に乗ったときに起こった、バーグのDMの話から始める。
「バーグさん、かわいいわね」
庵主は顔を引きつらせている加那の気持ちを察しないで素直に答えた。
加那を迎えに行く前から庵主がいたのか、部屋のエアコンからは暖かい風が吹いている。
「なんかショックです。いままでダンスや歌を褒めて、パフォーマンスも楽しんでくれていたのに、結局目的はそれなのかって」
加那を見ながら庵主は笑う。
「いい勉強になったじゃない。アイドルなんだから、異性のファンの本音は恋人にしたいに決まってるじゃないの」
「ショックです。もっとパフォーマンなんかをリスペクトされてると思ってました」
加那は言ってから溜息を吐いた。テーブルの上に置いている加奈の指を庵主が触る。顔を向けた加那の顔を庵主はしっかり見つめた。
「加那ちゃん、実際はそうなのよ。ありのままを受け入れなさい」
「でも以前、庵主さんは、ファンの人の人生に価値を与えるようになりなさいとおっしゃったじゃないですか。結局、その価値ってのもつまり恋人とかそういうことですか?」
「それだとひとりにしか与えられないからね。もっとたくさんの人に与えられるものになるんじゃないかな」
「だけど、バーグくんの目的は恋人なんでしょ」
加那は バーグだけは違うと思ってた。
たしかに理沙がヲタクに告白されたとか、そういう話は聞いたことがある。別のグループではヲタクと付き合っているアイドルもいれば、卒業してからヲタクと付き合って結婚までしたアイドルもいると聞く。
でも、バーグにはそんな下心はないと勝手に信じていた。
だから悔しい。
「目的というか、希望のひとつよね。そりゃあ、異性だもん。ファンの人は恋人にしたいと思っているに決まってるでしょ。でも、その希望は満たされなくても、他にいくつも価値を与えてくれたら満足してくれるんじゃないかな。そこを見つけてほしかったの。それと、ファンの人が恋人にしたいって思うのは別の話かな。でもね、加那ちゃんもありのままの姿を見せたいと思うなら、バーグくんの気持ちは知ってたほうがいいと思うわ。バーグくんに限らず、異性でありあなたがアイドルである以上は、加那ちゃんを恋人にしたいというのは本音だと思うよ。ありのままの気持ちだと思うよ。そこから目をそらさないほうがいいと思うわ」
つまり、バーグはこれまで本当の自分を隠してわたしと会っていたのか、と加那は考えた。
そう考えると、三年間のアイドル生活がひどくむなしいものに思えてきた。
自分の気持ちを圧し殺して会いに来てくれるファン。
そのファンに、プライベートを隠して、秘密を抱えたまま、笑顔を向けた。
嘘と嘘の連鎖。
もしかしたら、バーグがステージを褒めてくれたことも、本心よりもわたしに好かれたいから言っていたのかもと思う。
あそこには嘘しかなかったのか。
「わたし、アイドル辞めてよかったかもしれません」
加那はそう言った。
「どうだろう。わたしがメジロ祭で見た加那ちゃんは素敵だったわ。いまは疲れてるのよ。きっとあなたは他の人に価値を与えられる人になれると思うけどな」
「そうでしょうか?」
まったくそんな気にはなれなかった。
ただ、みんながみんな嘘をついて集まっていたあの場所。山名と会ってても素知らぬふりでレッスンに通い、シュンと握手をする亜由美。まったく気づかなかったけど彼氏のいるらしい理沙。その理沙は誰にでも、好きと言いまくっていた。
思い出せば思い出すほど、ひどい場所に自分がいたんだと思う。そして宏太がいたのに、加那も平気な顔をしてバーグに愛想を振りまいていた。
あれはなんだったんだろう。
悪夢なのか。
ほんの数時間前まで生きる燃料だと信じていたアイドル活動。
しかし、いまは自分がそれをやっていたことが汚らわしく感じられた。
加那は頭を掻いて、首を振った。
「考えこまないの」
「わたし、自分が許せなくなりそうです。バーグくんの気持ちに気づいてなかったけど、それでも彼氏がいるのに普通に笑顔を向けて、好きとかバーグくんに言ってました。罪なことをしてました」
そう言うと目からぼろぼろ涙がこぼれてきた。
庵主が涙を拭くようにティッシュの箱を加那に渡す。加那は箱からティッシュを抜くと、目と鼻を拭く。
「罪とか許す、許さないとか考えないの。それは人がそれまでの見聞で判断することで、絶対じゃないんだから。ただ、ありのままということだけを素直に見てればいいよ。それにありのままの姿が見えたのは、成長できたことなんだよ」
「アイドルのライブはわたしにとってしあわせな時間でした」とそこまで加那が言ったところで庵主が言葉をさえぎった。加那はまだなにか言いたそうだが黙る。
「わたしもライブをしている加那ちゃんを見たとき、しあわせな時間を過ごせたわ。だからそれでいいじゃない。深く入り込むと不幸になる。それと同じように深く考えると不幸になるわよ」
深く入り込むと不幸になる。
たしかにバーグの名前も知らなかったら、加那はここまで不幸にならなかったと思う。
バーグにしても、本気で恋人にしたいと思うほど距離が近くなければ、もっと幸せな関係でいられたような気がした。
ファンの名前を覚えること、ファンと知り合いのように距離感を縮めること。
園田はメンバーにはそれを求めていた。
でもそれこそが、不幸を作っていたような気がする。
単に金銭的な話だけでも、バーグのようなおまいつヲタは、おまいつだからこそ、メンバーに使うお金も多かった気がする。それで恋人にしたいという夢は叶えられない。良いことと思い、悪気はなかったのに彼らを不幸にしてしまったことに加那は気づいた。
言葉が出なかった。涙が止まらなかった。
「大変だったのよね。うん。ひとまず、辞められたんだから、少しアイドルから離れられるじゃない。深く考えないのよ。間違いなく加那ちゃんは頑張ってた。ステージも輝いていたわよ」
庵主は泣き続ける加那の頭を優しく撫で続けた。