御祓
鳥栖駅に着くと、園田が乗るフィットが待っていた。
レッスン開始までまだ二時間ある。
加那が「相談したいことがあるんです」とLINEをしたら、園田は本業を早退して時間を作ってくれた。申し訳ないなと思う。
「失礼します」と言って助手席に乗る。園田は「おはよう」と言って、うっすら日が傾きかけている空を見た。オートマチックのギヤをドライブに入れてアクセルを踏む。
「言いにくいことがあるんだよね。男?」
園田は運転しながら言った。
「はい」
加那は鳥栖駅に向かう間、電車の中で、どんなふうに言えばいいのか考えていた。
だが、園田が「男?」と言ってくれたおかげであっさり認めることができた。
「だと思ったよ。若い女の子だもんね。しかたないもんな」
そういう園田だってまだ三十手前の若い男だ。だが、園田に彼女がいるような雰囲気はない。
「相手はヲタク?」
車はかつてアーケードだった商店街を走っている。加那は園田が怒らず、しかたないと言ってくれたことにほっとする。
「違います」
「じゃあ、いいじゃない。こっそりやりなよ」
園田は国道34号線との交差点にある星乃珈琲店を見る。
「よくないんです」
「どういこと?」
星乃珈琲店に行こうと思ったが、話が深くなりそうだったので、信号が青になると園田はそのまま車を走らせた。鳥栖市民会館が前方に見える。
「その彼氏と別れようと思っていたんです。それで別れ話を切り出したら、彼氏がわたしとのことをツイッターでバラすと言ってて」
「彼氏さんとは付き合い長いの?」
喫茶ブルーが左手に見える交差点で、信号につかまった。園田はゆっくり車を止める。
「今年の夏ぐらいからです。三か月ぐらいです」
「別にツイッターでなにか言っても無視すればいいんじゃない。ぼくらとかヲタクも知らない人なんでしょ」
「それがわたしの写真とかを彼が持っているんでそれをツイッターに貼ると」
「そんなことか」
園田はこともなげにそう言うと、交差点を左折する。県道17号線を南下する。長崎本線を超える坂が見えた。
「あのね、契約書にも書いてあった通り、SUN SUN SAMBAが加那の肖像権を持っているんだよね。だから本当のことを言うと、加那の写真ってぼくらの許可がないと、誰も使えないんだよ。バーグみたいにアイコンを加那にしているのだって、ぼくらが黙認しているからなにもないだけで、ぼくらが裁判で訴えたら勝てるんだよね。彼氏、あ、元カレになるのか、その男にぼくがそれを説明しようか?」
庵主の言った通りだと加那は思った。
運営が言ってくれれば話は早い。
でも、と思う。
「あの、それはそれで助かるんですが、バイト先で出会ったから元カレと同じ職場なんです。今日もバイトで一緒だったんだけど、俺は根に持つタイプだよと言われて、あんまり追いつめると何をされるのかがわからなくてこわいんです」
「バイト辞めれないの?」
牧のうどんから左に曲がって国道34号線を鳥栖市街の方向に車は向かう。このまままっすぐ行けばさっきスルーした星乃珈琲店が見えてくる。ちょうど、車は一周回っている感じだ。
「土日が必ず休めるバイトですから、この条件で他のバイトって考えると厳しいです」
弁当屋は平日しか仕事がなかったからバイト先に選んだのだった。土日はアイドル活動に集中するために。
「そうかあ」
車は長崎本線の下をくぐっている。
加那はゆっくり鼻から息を吸って口から吐いた。そうやって呼吸するのが、ステージに立つ前など極度に緊張したときの加那のくせだった。
「それに、そんな男と関係を持った自分が悪いんだから、元カレには気が済むまで好きにさせるのもいいかなと思ったんです。わたしは、ファンのみんなにはありのままの自分を受け入れてもらいたいし、それでファンの人が離れるなら、それはしようがないのかなと」
「ええ?」
ちょうど星乃珈琲店が見えてきた。園田は鳥栖駅の方向に車を戻そうと右折レーンに入る。
「ダメですか?」
加那としてはそれが最良の方法と思えた。
たしかに運営から宏太に警告をして宏太を封じ込め、何事もなかったようにアイドルを続けるのが、丸く収まるだろう。バイトのことはひとまず置いておいてもいい。
だが、それだとずっとたくさんの人に嘘をついて生きていかなくてはなる。
自分を偽って生きたくはない。
「いま結論出さなくてもいいよね?」
車を右折させた後に園田が言った。
「明日バイトでまた元カレとも会うし、早めに決めたいです」
明日はレッスンがない。バイトのあとに必ず宏太から会おうと言われるだろう。それまでに加那は決着を付けたかった。
「あのさ、加那はどこまで知っているか知らないけど、理沙にも彼氏はいるし、亜由美はよくわからんけど衣装を着たら首にキスマークが見えて注意したこともあるんだよ。ファンデで消したけどね。それで、ふたりともヲタクには悟られないように隠してる。それが夢を売るアイドルの姿だと思うんだよな。元カレが加那と付き合っていたと騒ぐだけで、ぼくらや加那が否定しても、ヲタクたちはその元カレの言うことを信じるだろう。そこまでしてヲタクの夢を壊すことがないとぼくは思うな」
加那は理沙に彼氏がいると言われて、驚いた。知らなかった。
亜由美のキスマークは、山名のものだろうと思う。
山名はその夢を売るアイドルに曲を提供しているプロフェッショナルなのに、実際は複数のアイドルに金をチラつかせて関係を迫っているのだから、なにが夢を売るだよと思った。庵主の言っていた通り、欲を満たしているだけじゃないか。
そこまで考えると、その山名にペコペコ頭を下げている園田も同じもののように見えてきた。
たしかに別に仕事を持ちながら、一生懸命わたしたちを支えてくれる姿には頭が下がる。メンバーの誰も、園田や高尾から関係を迫られたことはないし、今日だって会社を早退して時間を作ってくれた。SUN SUN SAMBAを運営するためにポケットマネーからお金を出しているという話も聞いた。
でもそれはファンだってそうだ。たまの休日をつぶしてわざわざ会いに来てくれる。彼らは常に自分のお金を、人によっては毎回何千円と使ってくれる。
そしてそのファンの中でも加那の大事なバーグを出禁にすると脅し、山名の肩を持ったのが園田だった。夢を売っていると言いながら、自らのメンツのために、夢を買ってくれているファンの夢をぶち壊そうとしたのだ。
ファンは当然、自分の欲のためにお金を払って来てくれているだろう。
でもそう考えると、えらそうなことを言っても、園田も欲のためにアイドルを運営しているとしか加那は考えられなかった。いくら山名のように直接的には手を出さなくても、アイドルの成功を願ったり、ファンの人に素敵なものを見せたい気持ちよりも、自分の自己実現のために女の子を利用しているのが透けて見えたのだ。
それが夢を壊すな、だと?
鳥栖中央公園を通り過ぎ、フレスポ鳥栖の大きな駐車場が見えた。
加那の考えは車の中で着々と固まっていた。
「もし、わたしがありのままの自分で活動を続けることが許されないならば、わたしはSUN SUN SAMBAを辞めます」
「え?」
園田は黙り込んだ。
ふたりのときぐらいスイーツでもおごってやろうとはじめは思っていた園田だが、加那とコーヒーを飲む気持にはなれなくなった。
ちょうど車は鳥栖駅のロータリーに入っていく。タクシーを追い越し、ハザードを炊いて、送迎スペースに車を止めた。
「ちょっと考えさせて。とりあえず、じゃあまたレッスンで」
「わかりました。ありがとうございました」
加那は車を降りた。園田の車が発進するのを見送る。
レッスンまではまだ一時間はある。加那は財布の中身を一度見て、庵主に以前ホットミルクを奢ってもらったパン屋に入った。
ベストアメニティスタジアムの周辺は道路は整備されているが、Jリーグのない日は極端に車が少ない。その道路にフィットを止め、園田は携帯を持った。山名に電話をする。
8回ほどコールをして山名が電話に出る。
「園田ですけど、今お電話よろしいですか?」
「いいよ」
不意な携帯の着信のためか、声が不機嫌だった。
園田は「加那が辞めたいと言ってきたんです」と切り出し、事情を説明しようとしたが、「男がいてですね」のところで山名は話を遮る。
「そんなの本人が辞めたいとかじゃなくて、辞めさせるべきじゃないの?」
「でもですね、加那はうちのエースですし」
「人気があるからとルール違反を認めると他のメンバーに悪いだろう」
「それがですね……」
それから園田は事情を説明した。最後に「うちに加那は必要なんです」と強調する。
山名は明らかに不機嫌な声をだした。
「どうだろう。ちょっと今取り込んでるからあとで電話するわ」
「わかりました」と園田が重い気持ちで言っている途中で電話が切れる。
厚いカーテンが夕焼けに染まっているホテルの窓を山名は見た。
ベッドの上で亜由美が訊く。
「うちの運営から?」
「だよ。おたくのエース様が、男がいたらしくて辞めたいと言ってるんだって」
「加那に男? まじで!」
「ただ、言ってることが変なんだよ。加那は別れたいけど、別れると男が付き合ってたことをばらすと加那を脅してるとか言ってたけど、そんなの肖像権でつぶせるじゃん。そうじゃなくて、彼氏がいたことを隠すのがつらくて、それを公表しないとアイドルを辞めると言ってるらしい」
「ふーん。加那らしいね」
山名が不思議そうに亜由美を見る。
「おまえ、意味がわかるのか?」
「加那、無駄にまじめなところがあるからけじめを付けたいんでしょ。昔は彼氏がいたけど、もう別れたから、いまはいませんよアピールしようとたくらんでるのかもね」
指で髪を梳かしながら亜由美は言った。
「だが、それはないよなあ。そんなことされちゃ、亜由美や理沙には迷惑だろう。加那が彼氏がいるときでもアイドル活動していたのは事実なんだし、それを認めてしまうと、おまえたちまでヲタクにそういう目で見られるよ」
「それは困ったなあ。そういうことはしてるけど」
笑いながらそう言うと、亜由美はバスタオルを巻いただけの山名の腰に抱きついた。
パン屋のイートインスペースで加那は庵主に電話した。
「いいと思うわ。自分の気持ちも運営さんに言えてよかったじゃない」
「やっぱりわたし、アイドルを辞めたほうがいいですか?」
園田には言ったものの、アイドル活動は加那の生きる燃料だった。
それが失われることを想像するのはやはり恐ろしい。
「そうなったときはそうなったことを受け入れて、次に何をやるのか考えましょう。一緒にね。神様は乗り越えられない壁は与えられないから、自分を信じて。そのほうが自分を偽るより、ずっといいことだと信じて」
「はい」
電話でも庵主が話を聞いてくれることが加那にとっては救いだった。
快速列車が福岡方面から到着したらしく、鳥栖駅の改札口は無言で歩く人々を受け入れている。