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苦難

 家まで送っていくと言われたが、そんな気分にはならなかった。

 3号線から入って、鳥栖駅の虹の橋で下ろしてもらう。車から降りたら、加那は庵主に電話を掛けた。

 肥前麓駅で午後七時に待ち合わせた。

 静かな駅に庵主は車を停めていた。

「ひどく落ち込んでるわね。乗って」

 加那は助手席に座る。

「すみません」

 冷たい晩秋の風が吹き、丸い月が農道を照らしている。

 車は細い道を山に上っていた。

 加那はどこから切り出そうか迷っていた。

 車が道を右折し、砂利道に入る。

「十何年ぶりだから覚えてないわよね。わたしにとっての十何年前と加那ちゃんにとっての十何年前は違うだろうから」

 そう言いながら庵主は車を停める。

 目の前には木造の小さな寺があった。

 加那はここが麓堂なんだと思う。

 全く記憶になかった。

 木造の寺の横に、トタン葺きの文化住宅があり、フラッシュドアの玄関の鍵を庵主が開けた。

「どうぞ」

「おじゃまします」

 玄関の灯りがつく。右側の下駄箱になにか見覚えがあるなと思った。

 廊下を上がるとソファーの置かれた洋間に通される。

「ごめんね、ひとりだからなんにもなくて」

 言いながら庵主は自販機で買ったのか、小さめのペットボトルのホットのお茶をくれた。

「寒いわね。このエアコン、暖まるの時間かかるのよ。あら、座って」

 庵主はソファーに座った。加那も座る。

「本当に深刻な顔してるわね。どうしたのよ」

「実はわたし……彼氏がいるんですが……」

 話始めると鼻の奥が湿ってきて、涙が溢れてくる。

「大丈夫よ。続けて」

 庵主に言われ、加那は話を続けた。

 ひっくひっくと言葉につまりながら、五分ほど宏太とのことを話し続けた。バイト先で出会ったこと、アイドルのファンではないこと、好きな気持ちが途切れたこと、そして別れを切り出したら写真をネットに公開すると言われたことを。

 庵主はひとしきり話を聞いてから、口を開いた。

「彼氏がそういうことをするのは、犯罪にならないの? 加那ちゃんの写真をインターネットに出すのは」

「えっ」

 思わぬ切り口に加那は戸惑った。

「なると思います」

「それなら送られる前に警告すればいいじゃない。事務所とかは難しいのかしら。無理ならばわたしの知ってる弁護士さんに頼んでもいいわよ。それとも彼氏を犯罪者にしたくないの? それならばまだ加那ちゃんが彼氏を好きだということじゃない」

 加那は庵主のアドバイスがしっくり来なかった。

 こんなことはじめてだ。

 庵主に会えば、適切なアドバイスをもらえると思ってたけど、庵主に言われてもすっきりしない。

「彼氏は好きじゃないです」

「復讐がこわいの? ストーカーもね、たしかにこわいよね」

 庵主は親身になってくれていた。

 だが、加那は首を振った。

「そうじゃないんです」

 庵主は仏に仕える身であるため、あまり恋愛をしたことがなかった。うまく言っていることが伝わってるか手応えが感じられない。

「ごめんなさいね。夫婦のいざこざのお話とかはよく聞くけど、加那ちゃんみたいな若い子の恋愛はおばさんには古い話で、なかなかうまくアドバイスできてないわね」

 庵主も加那の表情を察したのか、首をかしげる。

 加那はペットボトルのお茶を飲んで一呼吸おく。それから気持ちを整理した。自分が恐れていることをはっきり伝えようと思った。

「あのわたし、アイドルなんです。世間的にアイドルに彼氏がいるって、NGなんです。だから、彼氏がいるって言われるだけでだめなんです」

「そうなの?」

 庵主が 驚いたように目を開く。エアコンからようやく温風が吹き出し、冷たい部屋の空気を暖めている。

「たぶん、彼氏がいるとわかった時点で、SUN SUN SAMBA をわたし、解雇されるかもしれません。それがいちばん、こわいんです」

「そうだったのね」

 庵主は腕を組む。

「わたしが若い頃は、アイドルなんてすごく遠い世界の人で、ベイシティローラーズとか外国のバントとかが好きで彼らに恋人がいるのなんて気にしたこともなかったけど、最近はアイドルが身近だからプライベートもアイドルでいなくちゃいけなくなったのね」

「大手だと恋愛禁止が契約書に書いてあるなんて言われてるんです」

 エアコンの風の吹き出す音に混じって虫の鳴き声も聞こえる。

「SUN SUN SAMBAは?」

「えっ?」

「SUN SUN SAMBAは契約書に恋愛禁止は書いてあるの?」

「書いてはないですね。ただ、高校の文化祭のときに市役所の出してる市報に学校の男子と話してる写真を載せられたことがあったんです。そのときに運営さんからは、アイドルとしての自覚を持ってと怒られたから、みんななんとなく禁止なのは空気としてわかってます」

「不文律かあ」

 庵主はそう言って大きく息を吐いた。考えるようにペットボトルの蓋をさわっている。

 それから加那の目を見て小さな声で呟く。

「でも事実なんだから、それを受け入れるのがいいと思うけど、苦しいかな?」

「どういうことです?」

 加那は庵主に気持ちが伝わったことを感じる。救いを求める目で庵主を見つめた。

「過去は変えられないのだし、神様はその人が乗り越えられない苦難は与えないのよ。わたしとしては、その運営やファンに嘘をつくよりは、ありのままの姿を加那ちゃんが見せたほうがいいと思うな。加那ちゃんが恐れているように、もしかしたらSUN SUN SAMBAを解雇されるかもしれない。でもそれが本当の自分じゃない。その自分を受け入れて、生きていくほうがいいと思う。自分を偽って生きてたら、たとえうまくいっても自信が持てないものよ。それじゃだめかしら?」

 加那に彼氏がいたとしたら、バーグはどんな顔をするだろう。

 SUN SUN SAMBAを解雇されたらもうステージには立てないだろう。

 庵主の言葉を聞きながら加那は考えた。

 でも、庵主の言う通り、自分を偽って生きていてもいいかと考えると、たしかに正直に生きたいとも思う。

「彼氏とは別れます」

 加那は庵主に言った。

 そう言った瞬間、胸の奥から晴れやかな感情が沸きだしたのを感じた。

「そのほうがいいと思うわ」

 庵主は優しい笑顔を見せる。



 一晩、なんて言おうか考えた。

 なにせバイト先が同じで、いま宏太と一緒に仕事をしている。

 今日も昼過ぎまで弁当を売った。

 13時過ぎに無事に完売した。

 車に乗って事務所に戻るときだった。県道14号と国道3号線が交差している曽根崎交差点は渋滞していた。

 加那は昨日の夜、庵主に別れますと宣言したものの、それをいつ切り出そうか悩んでいた。明日言ってもいいかなと気持ちが弱気になっていたときだった。

 宏太が信号が赤になったと同時に口を開いた。

「今日はレッスンだったよね。明日、会おうよ。昨日、後味悪かったからさ」

 加那は車の外を見る。歩道の人通りは少なかったが、対向車線に交番があるのが見えた。また信号が赤なので、前後には車が止まっている。いざとなればなんとかなるかもしれない。庵主が、神様はその人が乗り越えられない苦難は与えないと言っていたのを思い出した。

「昨日言ったけど、やっぱり別れようよ。わたし、宏太をもう好きになれない」

 宏太はきょとんと目を点にした。少しずつ言葉を飲み込んでいるのか、目が少しずつ赤くなる。

「はあ? おまえ、マジで言ってんの!」

 怒りと笑いの混じった声を宏太が出した。

「嘘をつくつもりはないよ」

 加那は自分の声が震えているのを感じる。

 ひひひひ、と宏太は下卑た笑い声をあげる。

「アイドル活動の邪魔をされたくないから、おれと別れるんだよね。でも、おれと別れたらおまえはアイドルなんかできなくなるよ。それでもいいの?」

 加那は運転席で笑いながら脅す宏太を見ながら完全に無理だと思う。もうこんな男、好きになれるわけがない。アイドル云々の以前に、好きじゃない男を彼氏になんかできないと思った。

「それはできればやめてほしいけど、でも、もう宏太くんを好きになれないから」

「やめてほしいんだろ。アイドル続けたいんだろ。おれと付き合えばアイドルを続けられるよ。それでいいじゃん」

 加那は首を振る。

「ごめんなさい。好きじゃない人とは付き合えないの」

 信号が青に変わった。前の車が進んでも宏太は発進しなかったため、後ろの車からクラクションをならされる。「ったく」と舌打ちをして宏太はアクセルを踏んだ。

 運転しながら宏太が言う。

「ちょっとぐらい顔がかわいいからって、それでなんでも自分の思い通りになると思ったら大間違いだぞ。知らないよ。おれと別れたらどうなるか、わかってんの? アイドルはクビになるんじゃないの? それだけで済めばいいけど、ヲタクにも恨まれるよね。バーグだっけ、あいつなんか毎回1万近くお前に金を使ってるよね。それが実は彼氏がいましたじゃ、ただじゃ済まないんじゃない?」

 加那の口がひどく乾いていた。たしかにそれは心が痛い。でも、庵主の言う通り、これ以上、嘘をつくのよりもここで恨まれるならそのほうがいいようにも感じた。

 なにが正解かはわからないけど、ありのままの姿で正直に生きることが悪いとは思えなかった。

「でも、これ以上嘘をつき続けるよりはいいかなと思う」

 宏太は声をあげて笑った。

「もうちょっと落ち着いて考えてみなよ。おれと別れたら失うものが多いよ」

 車は線路を越える。ちょうど助手席側の車窓からベストアメニティスタジアムとサンメッセ鳥栖が見えた。県道は3号線都の、交差点を越えてから、県道14号から県道31号に変わっている。

「おれは根に持つタイプだよ」

 宏太が言った。

 本鳥栖の交差点で信号が赤になり、車が止まった。

 すかさずキスでいやな雰囲気を洗い流そうと宏太は、加那に顔を近づけた。

「やめて!」

 加那は激しく首を振って窓を開けて拒絶する。

 宏太は、ちっと舌打ちをして顔を信号機に向けた。

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