方向
「500円じゃ高いけれど、100円だったら払って話してみたい価値があるのよ」
庵主が前田に笑顔を向けた。
5月の3日と4日にはイベントが入っていたが、その予定がキャンセルになった証に赤線を引いている手帳を前田は見ている。
「それはありがたいことなんですけど、イベントに出れないのならきっかけも作れないんですよね」
手帳から目を離し、前田は右手で目をこすった。
「まったくなにもできないの?」
前田は腕を組んで顎を上下させる。
「ガラパコスの楽園から追い出されましたから。今日のイベのあと、ヒノブタだけの単独イベントなどできないものか、いくつか尋ねてみたんですよ。結論から言うと、九州じゃ無理だと言われました」
人の縁は横でつながっているものだ。そのため、社会人は縁を大事にし、時には飲みたくもない酒まで飲む。それはビジネスにおいて、縁を大事にすることが価値があるからだろう。
そしてそのしがらみの中でルールを破れば、手痛い仕打ちが待っているものである。いままさに、ルールを破った前田はその仕打ちに痛めつけられているようだ。
「イベントがキャンセルになったんだから、そのぶんのリソースを使って、インターネットで動画配信をしようかとも考えましたが、あれはもうマスコミなんですよね。動画を配信している人は、見ている人のことをまったく知らなくてもパラソシアルな関係が成り立ってしまう。そんな世界じゃまだヒノブタは勝負できるレベルじゃない。ぼくらのパラソシアルな関係は、まだまだパーソナルコミュニケーションが必要で、アイドルも見ている人のことを多少は知っていないと成り立たないんですよ。たとえば、こっちでライブしてぼくらからするとかなり人気のあるアイドルでも、動画の再生数はyoutuberの何百分の一ですからね。その土俵には上がれないです」
普通の人間関係は、お互いのことを同じぐらい知っていて成り立つものだ。
この場合は一対一の関係になる。
これが片方が相手のことをよく知っているようになるとパラソシアルな関係が成り立つ。そこで前田はその、相手のことを知っている量とファンの数を数学的に考えていた。
たとえば、加那のことをバーグは五分は語れるほど、表面的なことだけかもしれないが、知っている。それに対して加那はバーグのことを一分ぐらい話せば話が尽きるぐらいしか知らないとすると、加那はバーグのことを、バーグが加那のことを知っている五分の一ぐらいしか知らないということになる。実際にそのようなものだろうと思う。
この場合、前田の数式によると加那はファンを、バーグを含めて五人持っているということになる。
百万枚CDの売れるアイドルは、ファンがアイドルを知っていることに比べて、アイドルはファンのことを百万分の一しか知らないだろうというのが前田の考えだった。
バーグのようなコアな地下アイドルのファンは、そのパラソシアルな関係の数式を敏感に感じ取り、たとえば応援していたアイドルが売れて、パラソシアルな関係が一万分の一ぐらいになると、十分の一ぐらいにファンのことをわかってくるファンの少ないアイドルを応援するようになることだった。
そして、前田はまだヒノキブタイは、そのようなパラソシアルな関係でも五分の一程度の双方向的なコミュニケーションを求めるファンにしか、ニーズがないことを把握していた。
庵主は腕を組んで首をひねった。
「そうかしら?」
「いま、動画を作っても見てくれる人はいませんよ」
前田は言う。飲めない酒に価値はない。
「それは普通の動画を作ろうとしているからでしょ。ライブ映像やレッスンの」
「まあ、そうなりますかね」
前田は動画を作れないと頭から思っていたので、内容までは考えていなかった。
もしやるとするならば、かつてのラジオ番組のようにファンからのコメントや質問に答える双方向的な動画にするだろうなとは思う。ただ、いまの規模では、コメントや質問を送ってくれるファンも限られ、常連のコメントばかりを読み上げる動画では意味がないと思う。
「そんなこと言いだしたら、無名の人がテレビに出て急に有名になるのはどう理由つけるの? もし前田くんに動画を製作できる力があるなら、やったほうがいいと思う」
「でもなにをやったらいいかが。たとえば、双方向にしようとファンのコメントを読むようなものを作っても見る人の数が少なければ、そうそう面白いものにはならないでしょう。普段のメンバーを映しても、youtuberみたいなスキルはないですし」
庵主の目が光った。
「どうしてそう他のものと比べてあきらめるの。見た人が、見てその人の人生に価値を与える動画を作ればいいのよ。いちばん大事なところはそこじゃない」
庵主の言っていることはわからないでもない。だが、理想論のように聞こえる。
前田は頭をかく。
「おっしゃることはわかります。でも、だとしたら具体的になにをやったらいいんですか?」
庵主の前であったが、前田の声はいらだっていた。
庵主は口角を上げて、頷きながら前田を見る。
「ごめんなさいね、前田くんがここまで追い込まれているとは思わなかったから。こういうのどうかしら。たとえばなにか知識を提供するとか。いまメンバーたちが持ってないのなら一緒に勉強してもいいじゃない。そしたら見ている人との共通の話題ができて、パラソーシャルも、共感が生まれて少しは双方向になるでしょ」
前田がパラソシアルと言ったものを、庵主はパラソーシャルと言い換えた。
Parasocial、どちらも間違いではないが、前田はさすが庵主だなと思う。
「わかりました。考えてみます」
動画は5月2日に撮影した。その後、半日ほどかけて編集した。
ただし、著作権等の問題があり、結局公開しても問題がないことを確認するのに平日まで待たなければならなかった。
ゴールデンウイーク中、ヒノキブタイのメンバーには、ファンからの応援のリプライが飛んできていた。
4月の二日間のステージ楽しかったよ。物販もたくさん行けたし、また会いたいな
ヒノキブタイ、いいグループだね
また応援したいからライブが決まったら教えてね
ただし、メンバーたちにリプ返はさせてないので、メンバーたちはレッスンや動画の撮影のことなどの写真をツイートしていた、
ツイッターでは平穏だったが、ネットの巨大掲示板、またヒノキブタイに直接リプを送らないアイドルファンの中では、先日の佐賀でヒノキブタイが途中で物販をやめたことは周知の事実だった。
辛辣な言葉も飛んでいた。
人気がないからとルール破って抜け駆けするのはおかしい
100均アイドル
ブスは値下げ
自爆商法wwwww
また擁護する言葉もあった。
100円はアイデアなのにそれを認めないのはかわいそう
新しいことは批判されるけど大事だよ
かわいい子もいるから応援してもいい
そして5月9日、ヒノキブタイはひとつ目の動画を公開した。前田が考えに考えた動画は「スウェディッシュポップのヒノキブタイ」というタイトルだった。
ヒノキブタイのメンバーが出てきて、スウェディッシュポップについて10分間語るという内容。毎週ミーティングをやっていたこともあった、どのメンバーもカーディガンズやメイヤ、邦楽ならフリッパーズギターにピチカートファイヴについて、付け焼刃的な知識もあったが、アルバムを見て感想を言えるぐらいのレベルにはなっていた。
「わたしはこの曲が好き」
「ボーカルもだけどサウンドもいいよね」
と言った感じで、流行りのJ-POPやアイドルソングではなく、主に90年代のスウェディッシュポップを語るという趣向だった。
そして最後にメンバー全員でクラウドベリージャムの「クリシェ」を歌った。
動画をアップロードして、前田が公式ツイッター、メンバーはそれぞれの個人アカウントでそのことを告知した。
それから24時間で動画再生数は116回だった。
前田はその結果を見て、多いのか少ないのかはわからないが、まだ知られてないのだなとだけ思った。
動画を見た前田には手ごたえがあった。