試行
庵主はベンチに腰かけたまま、ヒノキブタイの物販列を見ていた。
藍の前だけが列ができている。茶色い髪の茉優も固定ファンをつかんだみたいで、ひとりのファンが何度も交流券を差し出していた。萌乃はそんな空気に圧倒されてるのか、「すごいね」と独り言を言っては苦笑いを浮かべ、目の前を通り過ぎる人に手を振っている。加那は手元の写真を退屈そうにいじっていた。視線は写真に落としたままだった。
「こうなるのね。ファンの人もよく見てるわ」と庵主は藍の列を見て思った。
藍がどのような道でヒノキブタイに入ったのかは知らないが、25歳という年齢を聞いただけでもその苦労がわかる。そして、それまで苦労してきたキャリアを捨て、新人として新しく出発しようという覚悟も感じられる。
藍は庵主の理想とするような、ファンの人の人生になにかを与えたいという気持ちを見せるアイドルではない。しかし、藍はステージで、いまアイドルができることの喜びを全身いっぱいに表現していた。ステージで歌うことがうれしくて仕方がないという姿。その姿を見るだけで、見ているほうもうれしくなるのが庵主にもよく伝わった。ファンにとっては、ファンとしてそのステージを見ることで、藍の喜びに参加しているような感覚を藍が与えてくれていたのだ。藍が感じている喜びを、当事者としてファンは感じられたのだろう。そのファンたちが藍に行列を作っていると庵主は思っていた。
物販が終わり、挨拶をしてヒノキブタイのメンバーたちは楽屋である店舗の二階に帰っていく。加那は交代を告げられた野球のピッチャーのような暗い表情をしていた。藍や茉優に手を振るファンたちに交じってバーグが「加那ちゃーん」と声をかけたが、届いていないのか、考え込むように下を向いて歩いていた。
「庵主、来てくださってたんですね」
前田が庵主に話しかける。会場は後片付けに入り、庵主も帰ろうかとしていたときだった。
「さすが前田くん。ヒノキブタイ、すごく楽しかったわ」
前田は浮かない顔をした。
「そうですか?」
「納得いってないみたいね」
「わかんなくなりました」
前田は首を振る。
「なにが?」
庵主が訊くと、前田は周りの目を気にするように辺りを見回した。主催グループの運営とアイドルが椅子の位置などをアイドルイベント仕様から通常時に戻している。庵主に身体を寄せて、声を潜める。
「自分のセンスが正しいかがわからなくなりました。本音を言うと、経験者を集めたアドバンテージもあってパフォーマンスのレベルは、他のグループにヒノブタは負けていないと自負していたんです。でもファンの人の感じ方や人気では、既存のグループの足元にも及ばないなと痛感しました」
「それは、既存のグループにはもともとのファンの人がいるからでしょ。前田くんは以前、アイドルをお酒にたとえていたけど、初めて行くお店よりいつも行ってるお店のほうがたのしいじゃない。初ステージでそんなに期待したらいけないわよ」
前田は首を振る。
「そういうことじゃないんです。ぼく自身、かなりアイドルグループというものを甘く見ていたことを思い知らされました。メンバーがいいパフォーマンスをしてくれれば、応援してくれる人も付いてきてくれると思ってた。でも、そうじゃないですよね。お酒でたとえるなら、常連のお店は料理がおいしいから通っている人もいるだろうけど、マスターの人柄とか店の雰囲気、居心地とかそういう不確定なファクターに人はひかれてるんだという面もあると思うんです。チェーンの居酒屋がどんなにおいしい料理を出しても、アルバイトの店員ばかりじゃ常連が通う店にはなりません。そういうことを全然考えていなかったと感じました」
庵主は聴きながらずっと頷いていた。
「さすがだわ。初回でそこまで気づけるなら頼もしいじゃない。言う通りと思うわよ。今日の井上藍さんはそのことをよくわかっていたと感じたわ。あの子はファンが応援したいと思わせるオーラが出せていたもん。たしかに加那ちゃんはステージをうまくやることに集中しすぎててそこまで気が回ってなかったよね。それが物販の人の数に出てたと感じたわ」
「そこなんですよね。ぼくから見ると、今日の加那さんはいつも以上に頑張ってたように見えて、むしろ藍さんはレッスンの必死さに比べると、見せるよりも自分が楽しんじゃって、言葉悪いけど手を抜いてるように見えたんですよ。でも、見ているファンの人はぼくとは全く逆の評価だった。ちょっとショックでしたね」
前田はそう言うと自嘲気味に笑った。携帯をポケットから出して見つめる。
「メンバーが着替え終わったみたいですから行ってきます。明日も出るんでもしお時間があれば来てください」
前田はそう言うと、楽屋である二階建ての店舗に向かっていった。
庵主は明日もここでイベントに出るんだと立ててある看板にヒノキブタイの名前があるのを見て、タクシーを拾おうとエスプラッツに向かった。
「ありがとうございました」とヒノキブタイのメンバーが主催者に挨拶をしている声が656広場から聞こえる。
稀に見る超大型連休の三日目、4月29日、ヒノキブタイはデビュー二回目のステージを迎えた。
庵主はこの日もステ-ジを見に来ていた。小さな頃から知っている加那がたまたまSUN SUN SAMBAで踊っているのを見て、ご当地アイドルというのに触れたのだが、そこで演じられる文化が庵主は何度か見ているうちに好きになっていた。
汗を流しながら必死に踊る女の子たち。その女の子たちを、ほほえましく見ているように装ったり、疑似恋愛の対称として見ていたりと、ギラギラした目で見つめる男性。
その価値は動くお金からでもわかる。数分間話すために千円札が飛び交う光景は、かつての大金持ちが芸者や遊女にお金をばらまいているようで華やかだった。
昨日のステージから一日しか経っていないので、この日のステージもデビューステージと大きな変更はなかった。「恋とマシンガン」からステージはスタートして、自己紹介を挟んで「カメラ!カメラ!カメラ!」。それからMCをやってオリジナル曲の「Tack」だった。
藍は昨日の物販で自信を深めたのか、昨日よりもいっそうのびのびとステージをやっていた。歌い出しがどの曲も藍からはじまることもあって、まるでロックバンドのボーカリストのように、他にもメンバーはいるのに客席の視線を一身に集めていた。
昨日、山口茉優の物販に何度も並んでいた男の子は、ずっと茉優を目て追っていた。茉優が歌うところになると、大きな声で「茉優ちゃん」と叫び続けている。
庵主が目を奪われたのは石田萌乃だった。昨日の物販では加那と変わらず、さほど人気がなかった彼女だが、そのファンがあまり見ていないことをいいことに、庵主たちの座っているエリアのファンによく視線を投げていた。藍が真ん中で立って声を出しているファンを盛り上げるならば、わたしは座って見てくれているファンをステージに引き込もう、楽しもうという気持ちが感じられた。
加那が時々バーグを見ていたが、それ以外はダンスに集中し、てきぱきと踊っていた。昨日、前田が言ったようにたしかに、いちばんちゃんと踊れて歌っていたのは加那だと庵主も改めて見ると思った。だが、一言でいえば、そのステージには華がなかった。ソロのパートや落ちサビでは、バーグに手を振ったり、歌詞の世界を演じて見せたりとアピールをしていることは感じられる。だけど、不幸にも心を打たないのだ。それはバーグ以外にちょこちょこ袖でPA宅の近くに立っている前田を加那が見ているかもしれないなと庵主は感じた。
昨日お披露目されたあとにファンたちは話し合ったのだろう。オリジナル曲「Tack」にはミックスなどいわゆるアイドルライブでよく言われるコールが入っていた。ファンたちが「おれが生まれてきた理由、それは藍に出会うため……」と「Tack」のコーダで口々に叫んで、曲が終わった。
藍が言う。
「最後までお聞きいただきありがとうございました。このイベントの終了後、ヒノキブタイ、終演後物販をさせていただきます。まだ駆け出しの私たちですので今日から物販メニューを変更させていただきます。本日の物販ですが、申し訳ありませんがチェキ撮影はございません」
えー、と立ち見で見ているファンたちが言う。
「ごめんね」と藍がそのファンを見て笑う。
萌乃がマイクを持って言う。
「本日の物販は100円で三十秒の写真交流のみとさせていただきます」
おおーっとファンたちから歓声が上がった。
藍が続ける。
「まだまだ二回目のステージでたくさんの方とお話ししたいので、昨日メンバーで話し合いをして勝手ながら物販のレギュレーションを変えさせていただきました。本当にひとりでも多くの人とお話ししたいとメンバーみんなで話して決めたのでぜひ来て下さるとうれしいです。以上、わたしたち、ヒノキブダイでした」
庵主は舞台袖の前田の顔を見た。
なかなかやるなと思う。