意味
「たった一か月でしたけど、濃かったです。やっとここまでたどり着けました」
庵主の部屋、前田が持ってきた13インチのマッキントッシュから、ヒノキブタイのレッスンの動画が流れている。
「一か月、長かったでしょ」
前田は一瞬、目をつむった。
「長かったです」
「素敵なことよね。ジャネーの法則を越えて、前田くんの時間が若い子たちと同じになったんだから、それだけ充実してたのよ」
「そうですね」
実質、レッスンに費やしたのはたった三週間だった。そして前田の年齢で考えれば、三週間という時間で人間が劇的に変わるなどほぼないと思えるのに、ヒノキブタイのメンバーは週二回のレッスンのたびにまたたく間に成長していった。もちろんそれぞれに経験者ということはあったのだろう。それでも、一度教えたことは、次のレッスンではマスターしてくる成長力には舌を巻いた。
「加那ちゃんもがむしゃらね。最近は連絡してこないからうまくいってるのよね」
庵主はそう言いながら、マッキントッシュのモニターを見る。
前田が息を吐いて、庵主を見た。
「どう思います?」
「良く仕上げたと感心してるわ」
庵主はSUN SUN SAMBAの頃とは見違えるほどの加那のスピーディなダンスに頷いた。
前田が首を振る。
「そうですか?」
パソコンのスピーカーから加那の歌声が流れる。すごくいい声で歌うようになったと庵主は感心していた。
「まだ生で見てないけど、こんなに踊れて歌えて、前のグループよりずっと高いレベルのパフォーマンスと思うわ」
前田は腕を組んだ。それからヒノキブタイのレッスン動画を止める。そしてyoutubeからアプリを使ってダウンロードをしていたSUN SUN SAMBAの去年の11月頃の動画を見る。ちょうど、加那が宏太ともめて卒業する直前の動画だ。
実際、この頃の加那は、物販も混み合い、ツイッターのフォロワーも飛躍的に増えていた。
「レッスンとライブを一概に比べていいかはわかりませんが、このときの輝きがいまはないと思いませんか? ぼくが引き出せてないんです」
「このときは」
そこまでいって庵主は腕を組んだ。
最近、加那と話していないからわからない。
応援してくれる人の人生に価値を与えようとまだ加那は考えてくれてるだろうか。
前田の言う通り、目の前に応援している人がいないからそれが見えないのかもしれない。
忘れててほしくないけど。
「とにかくお披露目ステージが楽しみね」
庵主はそう言って笑顔を見せた。
お披露目のステージは佐賀の656広場だった。主催者がステージから百メートルほど離れた商店の二階を借りて、そこを楽屋にしてくれている。加那はその楽屋の窓から会場を見た。バーグの姿を見つけて、胃が締めつけられそうになる。
「さすがに緊張しますね」と藍が前田と話している。
加那は内心、わたしのほうが緊張していると思っていた。
まったく生まれ変わった松岡加那というアイドルのつもりだが、この地域ではどうしても元SUN SUN SAMBAという十字架が背中にのしかかっている。
楽屋からステージまでは、一般の人も行きかう普通の歩道を歩く。前田を先頭に藍が歩き、その後ろを歩いた。
ガンジの声が聞こえた。
「バーグ! 加那ちゃんがいるぞ。本物だよ。すげー」
加那はファンのほうの顔は見ないで、下を向いてステージに進む。アイドルの暗黙の了解として、ステージに上がるまではファンに愛想を振りむかないというのもあるが、どんな顔をしていいのかもわからなかった。
ステージに立つと目の前にバーグがいた。ポップがカメラを向けているのもわかった。
「恋とマシンガン」のイントロが流れる。オリジナルではバックコーラスが歌っていたスキャットを、ヒノキブタイは四人のメンバーでハーモニーする。カラオケで歌うような曲ではないものの、テレビドラマの主題歌やCMで使われた有名な曲であるから、「この曲、聴いたことがある!」と言った感じで客席の視線がステージに集まる。加那だって「恋とマシンガン」という曲名も曲も知らなかったが、このイントロのスキャットは聴いたことがあった。
久しぶりのステージは心地よかった。
アイドルが卒業しても結局アイドルに舞い戻ってくる気持ちはやっぱりこの心地よさがクセになっているのだ。
レッスンに明け暮れ、レッスンについていけるか不安になり、自宅だけでなくバイト中でも練習した。24時間、ずっとアイドルとしてのパフォーマンスがうまくなることばかり考えていた。
でも、そうやって苦労したからこそ、自信を持ってステージができることが最高だった。
バーグやガンジ、ポップなどSUN SUN SNMBAで見たヲタクたちは、初めて聴いた曲のため、あまりノレていなかった。他の人たちも黙ってヒノキブタイを見て、曲が終わると拍手を送ってる。
MCで「ヒノキブタイの松岡加那です」と言ったときだけ、バーグから「かなちゃーん」という声が飛んだ。
ステージは両端にベンチがあり、バーグたちのような熱心なファンは真ん中のスペースで立って見ていた。加那はベンチに庵主が座っているのを見た。最近、庵主とも話していないなと思う。でも、今日、このステージに立てたのは庵主のおかげだ。お礼を言いたいとステージの上で思った。
三曲演ったステージはすぐに終わった。ステージに立つと、時間が経つのがひどく早く感じられる。
「このあと、終演後に物販があります」と藍が言って、ステージが終わった。
SUN SUN SAMBA時代の知名度があったから、ファンの声は加那に向けられたものが多かった。
「加那さん、人気すごいね」
藍に言われて加那は少しほっとした。
だが、一時間後、物販になると加那は藍の人気に嫉妬することになる。
もともとこの地域でアイドル活動していたのは加那だ。
ライブだっていちばんコールを浴びた。
しかし、物販開始前、長机の前に立つと、藍が立っているところにすでに5人のヲタクの列ができていた。その中にはガンジやポップの姿があった。また、おまいつじゃなくてもSUN SUN SAMBAで見たことのあるファンの顔もあった。
たしかに茉優や萌乃の列には誰もいなかった。それでも「加那さん、人気すごいね」と加那に言った藍に人気が集中しているのはショックだった。
加那の前にはバーグがいた。バーグはチェキ券を加那に渡すときに「待ってたよ」と言った。加那は今後のことも考えながら、SUN SUN SAMBA時代のアカウントにバーグがDMを送り付けたことを思い出して「あのときDMありがとうね。読んだけど、なにもできなかった。改めてありがとう」と言う。「読んでくれてたんだ」とまんざらでもない顔をバーグはしたが、「でもいまのグループ、フォローもふぁぼもダメなんだからDMなんか送ったら出禁になるからやめてね。出禁で会えなくなると寂しいから」と釘を刺すのも忘れない。「わかってる」とバーグは小声で言い、加那と手でハートを作ったチェキを撮った。
「いま、純情可憐博多娘推してるんでしょ」
そのチェキにサインを書きながら加那は言う。藍の列が繁盛しているのを見ると、やはり自分をいちばんにしてくれるヲタクがほしいとは思う。
「だって、加那ちゃん、いなくなったじゃん」
そうやって笑うバーグを見て、加那は余裕を持って言った。
「じゃあ、戻ってきたから推してくれるの?」
「一応ね」
思ったよりも歯切れが悪い。そんなに美琴ちゃんって子にはまっているのかと思う。
「一応なの?」
バーグは笑みを作った。
「いまのところはね。だって4か月、加那ちゃんはぼくがいなくても大丈夫だったじゃん。おれってね、ヲタクしてたぐらいだからわかると思うけど、本当に何もできないの。だけど現場に行けば、アイドルって来てくれたって喜んでくれるでしょ。それがうれしいんだ。いままで人にそんなこと言われたことないからね。だからヲタクをやってると思うんだよ。たしかにかわいい女の子を見るのは好きだよ。でもそれ以上に、そのかわいい女の子に、それはお客さんとしてかもしれないけど、必要とされてるのがうれしいの。だから。またこれから何度か顔をあわせて、前みたいにおれを必要としてくれたら一応じゃなくなるかもね」
「そんな寂しい」と言ったものの、加那は目の前の656広場がモノクロに見えるほど、頭がパニックを起こしていた。「また来てね」と口説を言ったものの、バーグがどんな顔をしていたかも思い出せない。そしてSUN SUN SAMBAの頃は何枚もチェキを撮ってくれたバーグは、この日はこの一回だけだったんだ。
「オリジナル曲のCDはまだなんですよ」と、前田が話している。加那が見たことのないアイドルファンだった。そのファンも藍の列に並んだ。