努力
火曜日、バイト中、加那は助手席でリップロールとタングトリルを繰り返していた。車を運転している石川さんが苦笑する。
「歌の練習していいですかと言ってたのに、口で屁の音出してるみたいだな」
「すみません。うるさいですか?」
石川さんは笑顔でハンドルを握る。
「いやあ、地道にやってるのを見ると勉強になるよ。歌手なんて歌を唄うだけで金がもらえて気楽な商売だと思ってたけど」
「うるさくてすみません」
加那はそう言っても練習を辞めなかった。ヘッドフォンをつけて、携帯から流れる音階を聴く。ぶるぶるぶるとドレミファソラシドの音階で唇を震わせた。
そのヘッドフォンから唐突にLINEの着信音が鳴った。思わずLINEの着信音をタングトリルできるほど加那は上達していた。
LINEを開く。茉優からだった。「六時にバイトが終わるから一緒に練習しませんか?」と書いてあった。加那は昨日、レッスンの帰りに泣いてしまい、茉優にはみっともないところを見せてしまっていた。心配してくれているんだと思う。「ありがとう。行きます」と返信する。
茉優はチアリーダー出身だから、ボイトレでは藍や萌乃と比べると劣っていた。加那よりは形になってたけれど、それでもどう見ても初心者のそれだった。だからこそ、加那は気楽に練習できそうでありがたかった。
バイトが終わっても、家に帰って練習した。頬の筋肉が張るほど練習した。
夕方になり、肥前麓駅から電車に乗る。さすがに電車に乗ってまでは練習ができないが、耳でクラウドベリージャムの「クリシェ」を聴きながら、加那はその歌詞を英単語の暗記のように頭の中で思い出していた。
銀色のバカでかい建物の神崎駅から駅前の階段を下ると、車を停めていた茉優が待っていてくれた。茶髪の髪が夕焼けに反射して透き通り、その美貌は通り過ぎる男の人たちの視線を集めていた。
「車、持っているんだ」
加那は免許すら持っていない。
「親のだけどね」と言って、茉優は日産デイズに乗り込む。加那も助手席に座った。
「カラオケボックスでいいよね」
「うん」
車は国道34号線を北上していく。
「昔はこの通りもカラオケボックス結構あったのに、いまじゃ減っちゃってね」
国道34号線は、加那が神崎駅まで乗ってきた長崎本線と並行している。車は、加那が電車で乗ってきた鳥栖方面に進んでいる。
加那が電車で越えてきた吉野ヶ里公園駅を越え、自衛隊目達原駐屯地を通り過ぎたところの右側にカラオケボックスがあった。茉優が車を入れる。
平日の夕方のカラオケボックスは閑散としていた。すぐに案内された部屋は10人ほどが入れるパーティールームだった。ドリンクバーで烏龍茶をグラスに注いで、部屋に戻る。
「わたし、結構練習したんだ。悔しかったから」
加那が言った。
「やってみて」
茉優に言われて、加那は立ち上がってリップロールをした。
いつのまにか加那と茉優の会話から敬語が抜けている。
完全にコツをつかんでいた。ぷるぷるぷると音階を奏でる。
「すごい! 完ぺきじゃん!」
加那は次にタングトリルをやってみせた。これもコツをつかんでいる。
「すごい、加那さん。わたしも練習しよう」
茉優のリップロールは昨日のレッスンのままだった。音は出るけれど呼吸が安定していないので途中途中、途切れてしまう。音階を付けるレベルまではいけていなかった。
加那は勝ち誇った気持ちになって、その様子を見ていた。
「ゆっくり鼻で息を吸って、それを吐きながら出すの。言葉では難しいけど、コツをつかめば簡単だよ」
そう言いながら手本を見せるようにやって見せ、茉優に教える。
自分が一番できないのではない。
その事実が加那を安心させ、人に教える余裕ができていた。
「まだまだそのコツがわかんない」
茉優はそう言いながらリップロールをする。
「息の量を安定させて」
茉優のリップロールもタングトリルも加那から見ればまだまだだった。
その事実が、昨日から悩んでいた加那の劣等感を柔らかくさせてくれていた。
「むつかしいなあ。これ、歌を唄っている人はみんな当たり前にできてるんだよね」
茉優がそう言って、加那は頷く。
「そうなんだよね」
これがスタートラインなのだ。
これができたからと言って、満足してはいけない。それは頭ではわかっている。
でも、それでも自分が一番下手ではないことに加那は安心していた。
「せっかくカラオケ来たんだから」と言いながら、加那はデンモクと呼ばれるカラオケDAMのリモコンを手に取った。
「クリシェも練習しようか」
しかし、デンモクで検索してもクラウドベリージャムのクリシェは入っていなかった。
「せっかくだから、なんか歌おうよ。これ、歌える?」
あいみょんの「マリーゴールド」がデンモクには表示されている。
「わたし、最近の歌、あまりわかんない」
茉優が首を振った。
「歌ってみていい? 茉優さんも好きな曲を入れなよ」
加那はカラオケにリクエストをする。マイクを持つ。
あいみょんの「マリーゴールド」のイントロが流れる。
お正月に親戚とカラオケに行った以来のカラオケだった。
一度咳払いをして、モニターに映る文字に合わせて歌を唄う。
唄い出した瞬間、加那は自分のことなのに驚いた。
え? これが私の声!
歌う前に、リップロールとタングトリルの特訓をしたからか。
自分の声とは思えないほど声が伸びていたのだ。
次に小林明子の「恋に落ちて」を唄った茉優も興奮したように言った。
「ちょっと、わたしうまくない?」
「わたしもさっき唄っていたとき、思った」
他の人よりもうまくできなくてふたりが悩んだリップロールとタングトリル。
しかし、たった二日でその効果がふたりは実感できた。
若い少女たちは、努力をすると恐ろしく成長するものなのだ。
西村先生は大きく頷いた。
前田は二回目のレッスンでこんなに奇跡を感じてしまうのかと震えた。
リップロールにてこずっていた加那と茉優が、すらすらとそれをこなしていた。西村先生が弾いた電子オルガンの音階にも音を合わせて唇を震わせている。
人間は夢に向かうときの可能性は無限大。
やりたいことをやっているとき、人は努力を惜しまない。
そういう言葉を何度か聞いたことはあったが、まさにそれを目の前で見せつけられていた。
加那が庵主に「アイドルをやっていく自信がない」と相談したと聞いたのが昨日の話なのに、今日になったら平然とこなしている。前田は信じられない想いで加那を見ていた。
「さすが。ふたりともちゃんと仕上げてきたわね」
西村先生が嬉しそうに鍵盤をたたく。
四人がオルガンに合わせて音を出したタンクトリルの音階も美しかった。
初日のレッスンでは藍と萌乃がリップロールをやってるのをみて、この二人は実力的に抜けてるかと思っていたが、四人ともそのレベルに近くなっていた。
「それじゃあ、次は課題曲を唄いましょうか」
西村先生がそう言うと、藍が手を挙げた。
「先生、すみません。これを見ていいですか?」
「なに?」
藍が手に持っているA4サイズの紙を渡す。紙を見た瞬間、西村先生は目を丸くした。
「あなた、耳で落としたの? 言ってくれたら用意したのに」
A4の紙は五線譜だった。そこに藍がコピーしたクリシェの音符が踊っていた。
「先生が怖そうだったから。みんなの分もあるので配っていいですか?」
「どうぞ。間違ってないわよね」
「たぶん」
藍はそういって舌を出して、メンバーに譜面を配る。
加那は譜面は読めない。知識としてこのオタマジャクシがミの位置に書いてあるなということはわかるが、譜面を見ただけで頭の中でメロディが流れるほどの音楽的技量はなかった。それでもありがたかった。CDで聴いている音が、どの音階で歌っているのかを知ることができたからだ。
「じゃあ、まずはみんなで歌いましょうか」
そう言って西村先生がカラオケ音源の電源を入れる。
四人で声を合わせてスキャットする。
西村先生は歌っている四人の声を聴きながら前田に耳打ちした。
「この子たち、ちゃんと努力できますよ」
「ぼくも驚いています」
まだまだクリシェは満足がいくほどの唄ではなかったが、それでも前田は十分に手ごたえを感じていた。
ダンスの井手先生がスタジオに入ってくる。
「なんでこんなに上達してるの!」
前田と西村先生を見ながら、井手先生は笑った。井手先生の笑い声で思わずレッスンが止まったほどだった。