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幸運

 茉優がリップロールで唇を震えさせるようになって、前田の視線は加那を見ていた。

「今日はクリシェ歌うまで行けそうにないけどいい?」

 歌の西村先生が言う。

「基礎からお願いしたのはぼくですから」

 前田は加那を見ながら答える。

 茉優とコンビを組んでいた萌乃が一度、前田のほうを見た。それから萌乃が藍に手を置いて、加那に話しかける。

「ごめんね、藍さん。加那さん、軽く深呼吸できる?」

 加那は視線を萌乃に向けた。

「こう?」

 加那は鼻で息を吸ってゆっくり口で息を吐く。

「そうそう、そのくらいの息でやってみたらどう」

 加那は深呼吸のときの息の量を思い出しながら唇を閉じる。

 ぷるぷるぷるぷるぷる。

 震えた!

 藍が思わず手を叩く。

「すごい。できるじゃん!」

「わたしも劇団に入った頃、できなかったんだよ。でも、息の量がわかると簡単でしょ」

「ありがとう」

 加那はそれから続けて何度もリップロールをした。

「全員音が出ましたね。このまま駆け足でタングトリルやって、クリシェまで行きますね」

 西村先生が前田に言った。

「お願いします」

 西村先生が手を叩いて、メンバーのもとに向かう。

「次はタングトリルね。誰かできる?」

 藍が手を挙げて見本を見せる。



 歌のレッスンが一時間と井手先生によるダンスのレッスンが一時間。

 前田たちが席を外したスタジオで服を着替えながら、藍が「楽しかったね」と加那に声をかける。「うん」とは答えたものの、加那の気持ちはふさぎ込んでいた。

 一言で言うと、ついていけなかった。

 いままでが甘かった。

 SUN SUN SAMBAの三年間はなんだったんだろうと思う。

 歌のレッスン、リップロールは自分だけがすぐにできなかった。

 タングトリルは音はすぐに出せたけど、西村先生のピアノに合わせて音階を奏でるのは何度も音を外した。

 課題曲の「クリシェ」に関しては、英語の歌詞の前に最初のスキャットからダメ出しされた。

 アイドル時代に先生もついてレッスンを受けていたダンスならばと思ったけれど、アイソレーションの動きからチアリーダー出身の茉優さんがずば抜けていて、藍さんもレベルが高かった。

 この四人の中で自分が一番だめだと思うと、ここにいていいんだろうかと暗い気持ちになる。

 電車組なのでレッスンの後は前田に茉優と一緒に佐賀駅まで車で送ってもらった。

「どうだった?」と運転しながら訊く前田に対して、茉優は「楽しかったです。やっと踊ることができて、歌も頑張ろうと思いました」とはしゃいだ声で答える。

 茉優さんはそうだろうなあと加那は思った。

 リップロールではてこずってたけど、経験者のわたしよりうまくて、ダンスに関してはひとりだけずば抜けた身体の動きを見せていた。

「加那さんはどう?」

 前田に訊かれる。

「もっともっとうまくなりたい、ならなきゃと思いました」

 加那のアイドル経験者としてのスキルと言えばこういうところだろう。

 物販でヲタクとの距離が近い状態が続き、プロデューサーや作曲家という大人に味方をしてもらうために、なにを言われてもすぐに優等生な発言をできるスキルだけは身についていた。

 だけど言ってから、こんな生きる術、アイドルとしてステージに立つには何の役にも立たないんだなあと思う。

「みんなでうまくなっていけばいいんだから、そんなに焦らなくていいと思うよ」

 運転しながら前田がそう言うや、加那のこらえていた気持ちが止められなくなった。

「でも私がチームの足を引っ張ってるのわかったから」

 涙があふれてくる。

「ど、どうしたの? 大丈夫?」

 慌てて茉優がバックからティッシュを取り出した。

 最低だ。

 最悪だ。

 泣きながら加那は思う。

 レッスンでも迷惑をかけているのに、なんで泣いてしまっているんだろう。

 でも感情を抑えられなかった。

「別に足とか引っ張ってないよ。みんなでヒノキブタイじゃない。前田さんの言う通り、みんなでうまくなろうよ」

 茉優は踊りができるからそんなこと言えるんだと思う。

 他のメンバーに比べて落ちこぼれてるわたしの気持ちなんかわからないだろうと考え、素直に受け止められなかった。

 車が信号で止まる。前田はルームミラーで後部座席を見る。顔を抑え泣いている加那と唇を噛んでその様子を見守る茉優。

 これが女の争いなのかと思う。

「今日のレッスン、チームのためにできることがわたしにはなにもなくて、むしろチームに迷惑をかけてる気がして」

 加那が言うと茉優が「そんなことないよ」と否定する。

 車は佐賀駅に到着した。

「じゃあ、水曜日よろしくね。加那ちゃんも」

 前田はそう言って、二人を車に降ろした。泣いている加那にどう声をかけていいかわからず、触れなかった。

「ありがとうございました」

 二人はそういって車を降りて、駅の構内に向かっていく。

 帰りの電車でふたりはなにを話すのか?

 そもそもふたりに会話があるのか?

 前田はふたりの背中を見送って、車を発進させる。



 火曜日、前田は仕事の合間に報告を兼ねて麓堂を訪れた。

「電話がかかってきたわよ。アイドルをやっていく自信がないって」

 庵主は前田を見るなり言った。

「それでなにかアドバイスをしてくださったんですか?」

「いつも通りよ。前のグループでアイドルをやるのは自信があったのに、ヒノキブタイだと自信がなくなるのはどうしてなの? 他のメンバーと比べているからでしょ。自分をそのまま受け入れなさいとね。そうすれば自信も持てるはずじゃないって」

「伝わってますかね?」

「わかんないわ。電話でも加那ちゃん、いっぱいいっぱいだったから」

 前田が拳を頬に当てて息を吐いた。

「一回目のレッスンから泣く子も出てきて、アイドルの運営の難しさを感じてます」

「加那ちゃんの気持ちもわかるけどね。チームみんなでやっていこうと言ってるのに、自分がチームの足を引っ張ってると言ってたわ。でもね、こんなことを言ったらなんだけど、四人もいればその中で一番の人もいれば最下位の人もいるわけじゃない。だからと言ってそれを悔しがるのはどうかなと話してる。いまの加那ちゃんのメンタルじゃ、同じグループのメンバーの中で自分より何か下手な子がいないか、探してると思うの。でも大事なのはそういうことじゃないないじゃない。あの子は自分が足を引っ張ってると言っていたけど、本当は他の人の足を引っ張って、誰かが自分より下手になればいいのにとまで思ってるのよね。そこが成長すればいいんだけど」

「加那さんと茉優さんが帰ったあと、スタジオに戻ったら、萌乃さんと藍さんが楽しい楽しいとぼくにすごく言ってくれたんですよ。萌乃さんは劇団にいたけどその劇団自体がなくなって、悶々と大学生をしていた人で、藍さんは東京でアイドルをやっていたけど芽が出ないで夢をあきらめるつもりで佐賀に帰ってきた子なんです。藍さんは年齢も25歳ですしね。そんなふたりにとっては、レッスンでも活動が出来るだけでうれしくてしようがないみたいなんですよ。加那さんもあんな形でアイドルを辞めたんだから、そういう気持ちになってほしいんですけどね」

「そこが温度差なんでしょうね。ブランクが加那ちゃんのほうが短かったから。アイドル活動なんて選ばれた人しかできないことなのに、その選ばれた人しか立てないという実感が、アイドルを辞めてから再開までの期間が短いから感じられてないのかもね。でも、前田くん、幸運じゃない。そんな活動をできるありがたみがわからない加那ちゃんが、悩んでいるのが。これが加那ちゃんがいちばんなんでもうまくできる子だったら天狗になって、いいグループが作れなかったかもよ」

「そうですね」

 たしかに幸運だと思った。

 前田が相談している庵主に、よく相談をしている加那が悩んでくれたおかげで、思いのほか心配も軽い。庵主が加那のことをよく知っていてくれるのはありがたい。

 車の後部座席で加那が泣いたのを見て、彼女たちがあまりにも傷つきやすく繊細であることに驚いた前田にとって、その最初の障害が庵主の目の届く範囲で起こったことは本当に幸運だと思う。


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