焦燥
レッスンを前日に控えた日曜日。国道34号線沿いの喫茶店で前田と待ち合わせしていた庵主は、前田を見るなり笑った。
「昨日、早速加那ちゃんが課題曲に自信がないと心配そうな声で電話してきたわよ。みんなが歌えて、自分だけ歌えなかったらどうしようと言ってたわよ」
前田は「うーん」と額に手を置いて、苦笑した。
「まだまだですね」
「まだまだよ」
腕を組んでコーヒーを前田は口に含む。
「チームのためと言ったのが、チームのために足を引っ張てはいけないって気負いになってるんですかね」
庵主は首を傾ける。
「どうだろう。よく言えばそうだけど、電話で話した感じは、まだまだ自分しか見えてなかったわね。自分が一番下手だったらどうしようという不安しか伝わらなかった。一回行っただけで行ったことが伝わるとか甘いわよ。何回も同じことを言ってから、やっと伝わるんだから」
「そうですか。庵主とよく話している加那さんでもそうならば、他のメンバーはもっと深刻なのかもしれませんね」
前田は頭を掻いた。庵主が「あれ?」と眉を動かす。
「加那さんと言ってるけど、メンバーのこと、さん付けで呼ぶようにしたの?」
「結局、東京で仕事していたときがタレントをさん付けで呼んでいましたし、それが一番いいかなと思いまして」
前田は初対面の時は「加那ちゃん」と呼んでいた。
この地域では、多くのアイドルの運営はメンバーを呼び捨てで呼ぶと聞いていた。
地域性として、呼び捨てで呼び合うほうが家族的な連帯感が生まれやすいと前田は分析し、それもありかなとは思っていたのだ。はじめはちゃん付けで呼んで、慣れるうちに呼び捨てで呼び、距離を近くしようと考えていた。
外資系企業ではニックネームで呼び合うことが多いとも聞く。チームとしては距離が近い呼び方のほうがいいのと前田は感じていたのだ。
そんな話を先週庵主にしたとき、庵主は「わたしはメンバーよりもずっと年上の前田くんが、あえて、さん付けで呼ぶほうがいいと思う」と言われたが、前田は反論した。
「日本で大手企業が、さん付けと社長から全員をそう呼ぶように決めた会社もあったらしいんですよ。でもそれは、社長を社長と呼ぶより、苗字にさん付けで呼んだほうが親しみやすいからでしょ。さん付けで距離が広がるような感じのする関係ならば、ぼくはもっと親しく呼び合ったほうがいいと思うんです」
前田がそう言うと庵主は「前田くんがそう思うならそれでもいいけど、運営という立場のあなたがメンバーと距離が近くなる必要があるのかしら」と言われた。
それから顔合わせまでの三日間、ずっとその言葉が引っ掛かっていた。
そして、顔合わせの前日になって、ミーティングで話すことを考えたときに、前田は気づいた。
別におれがメンバーと仲良くなる必要はないと。
むしろ、距離があったほうがいいのではないかと思った。
特に女性は「ひいき」などに敏感である。
運営の前田とメンバーの距離が近くなれば、近くなるだけ、前田自身にその気がなくても、好感めいたことをひとりのメンバーに言ったように受け取られることがあるかもしれない。そうしてメンバー同士に諍いが怒るリスクを考えたら、一定の距離を保つ「さん付け」のほうがいいと思ったのだ。
前田が「さん付け」をしていると知って、ほっとした表情を見せた庵主を前田は見る。釈迦に説法だなと思いながら、前田は自分の気持ちを確かめるように口を開いた。
「さん付けだと距離は遠くなりますが、むしろ一定の距離があったほうがいいと思いまして。毎週のミーティングでしっかりコミュニケーションさえ取れれば、それでいいかなと」
聴きながら、うん、うんと相槌を打った庵主は、この男に託してよかったと安堵していた。
「わたしもそう思う。前田くんがメンバーと仲良くなることと、チームがまとまるのはまた別な話だもんね。チームとして最善を尽くす方法を考えて、前田くんがそうしてくれたのが、わたしはうれしいわ」
「ありがとうございます」
前田は照れたようにコーヒーを口に含む。
庵主は、前田がチームをしっかり理解していることを頼もしく思った。
3月26日、加那は電車の中でクラウドベリージャムの「クリシェ」をずっと聴いていた。
ちゃんと歌えるのだろうかと考えると不安で仕方がない。
加那は事前に庵主から前田を紹介されたこともあり、経験者だとも思っていたので顔合わせまでは余裕があった。しかし、顔合わせで他のメンバーのビジュアルを見て、気後れした。みんながかわいすぎた。経歴もなかなかのものだったと思う。チアリーダー出身の茉優にはダンスで勝てないだろう。そもそもアイドルのダンスとはレベルが違うんじゃないか。藍さんも同じ元アイドルだけど、あちらは東京だ。萌乃さんだって元劇団員。ステージには慣れているかも。
そう考えると、負けたくないという気持ち以上に、自分の唄を聴かれたくないような弱気な気分になってしまう。
伊賀屋駅に停車して、電車はいよいよ佐賀駅へ向かう。
胃が締めつけるように痛んだ。
SUN SUN SAMBAの最初のステージもこんなに痛くなったなと思う。
緊張を落ち着けるため、ゆっくり鼻から息を吸って口から吐くのを繰り返した。車窓にビルが見え、電車が上りだした。もうすぐ佐賀駅だ。
加那は前田から渡されたSUGOCAをカバンから取り出した。
改札を抜けると前田が待っていた。レッスンができる場所が駅の近くになかったらしく、そこまで車で送ってくれるらしい。
「おはようございます」とあいさつしたら、前田も挨拶をする。ただ、加那が動こうとしたが前田は歩かない。前田は改札を見ていた。
茉優が改札口に姿を見せた。前田が手を振る。
「よかった、一緒に降りてこないからこの電車に乗ってないのかと心配したよ」
改札を抜けると茉優が小走りにやってきて挨拶した。加那が思わず訊く。
「茉優さんも電車なの?」
「あれ、加那さんもそうだったの?」
前田が思わず苦笑した。
「加那さんが麓で、茉優さんが神崎。二人とも電車なんだから、もっとコミュニケーションを取ろうね」
茉優と加那は目を合わせて、照れたように笑った。前田の車の後部座席にふたりで並んで座る。加那も茉優も緊張していて、ほとんど会話はなかった。
レッスンは会議室のようなパンチカーペットの敷いてある場所だった。一応防音らしく、音楽室のように壁に無数の穴が開いている。
佐賀市内組の藍と萌乃はすでにレッスン場に着いていた。
意外だったのは、歌にもダンスにも専門の先生がいたことだ。
「ヒノキブタイの歌のレッスンを担当します西村優です」
歌の西村先生は三十歳ぐらいの少し声のかすれた女性だった。ロングヘアーをシャギーにカットしていてオシャレだなと加那は思った。
「わたしがダンスのレッスンを担当します井手沙織です。今日は顔見世だから早く来ましたが、次回からは八時からしか来ませんがよろしく」
ダンスの先生は頭をお団子に結んで見た目は若かったが、喋り方からして西村先生よりも年上に見えた。
「更衣室が借りれなかったんで、ぼくが出ていくからここで着替えて」
前田に言われ、前田が出ていくと部屋の隅で四人で着替える。緊張がピークに達し、四人とも無言だった。
「着替えたら、一列に並んで」
西村先生に言われて並ぶ。
「それでは、歌のレッスンから始めましょう。ごめんなさい、井手先生、前田くんを呼んで来て」
西村先生が「前田くん」と言ったのを聞いて、この先生たちは前田さんよりも年上なんだと感じた。
「どうも」とぺこぺこしながら、前田がレッスン場に入ってくると壁際に置いている折りたたみ椅子に座った。その横に井手先生が座っていた。
電子オルガンが置いてあるが、西村先生はそこに座らない。一列に並んでいるメンバーに声をかける。加那は心臓が飛び出るほど緊張していた。
「まずはリップロールをします。できる人います?」
加那はそう言われて、授業についていけない教室の子供のように絶望的な気分になった。
SUN SUN SAMBAでは、ダンスは先生がいたが、歌はそれぞれの独学で専門の先生などついていなかったからだ。
「はい」と藍と萌乃が手を上げた。
「やってみて」と言われると、ふたりとも唇をぶるぶると震わせる。藍は唇をぶぅぶぅ言わせながら「ドレミファソラシド」と音まで出していた。
「そうそう。ふたりはやったことないのかな?」
チアリーダー出身の茉優がやったことないのは当然だろう。でも、アイドルとして歌を唄っていたのにやったことがないのが加那は恥ずかしかったが、恥ずかしがっている場合でもない。
「ないです」
「じゃあ、藍さんが加那さんに、萌乃さんが茉優さんに教えてください」
西村先生にそう言われて向かい合う。
「口を閉じて息を吐いてみて」
加那は言われた通り、唇をくっつけて息を吐いてみるが、頬が膨らむばかりで音が出ない。
「違う違う。なんて言うのかなあ。息をこんな風に小さな風にして、唇で音を立てるの」
そう言いながら藍は軽々と息で音を奏でるが、加那はそれができない。
「顔が硬いのかな。一回、大きく口を開いて」
加那は大きなあくびをするように口を開ける。
「ほぐれた? じゃあ、やってみて」
口を閉じて加那は息を吐こうとするが、ぷすっと息が抜けるだけで唇が震えてくれない。
「あー、なんて言ったらいいんだろう」
困ったように藍は西村先生を見た。西村先生は椅子に座っている前田と井手先生と話している。
「ごめんなさい」
思わず、加那は言う。歌を唄うどころか、最初の最初からできない自分が悔しくて泣きたくなっていた。
「あやまんなくていいよ。こう、ぶぅーっとやってみて」
横を見ると若いからか、茉優がぎこちないけど唇を震わせていた。
わたしだけ、できないのかも。
焦る気持ちで加那は息を吐く。唇は震えてくれない。