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誰ぞ待つ彼は、救われない

作者: 栩堂光


弔いの鐘が鳴り響く。

すう、とその眼が開いた。



「…ああ、仕事の時間、ですね」



石造りの冷たい空気が篭った薄暗い部屋。その硬いベッドの上から、彼は身を起こす。睡眠を必要としない身体でありながら休息を摂るのは、少しずつ彼の心が疲弊している証なのだろう。

己が身につけているタキシードの裾についた埃を払って立ち上がると、無意味と知りながらもオールバックにしてある髪をなでつけた。


扉をすり抜けて、階段を上る。

わずかばかりの明かりが灯された礼拝堂は、いっそ薄気味悪くがらんとしていた。参列していた者たちはもう外へ向かったのだろう。彼は白い手袋をはめながら、外へ続く大きな両開きの扉を抜けた。



外は、ひどい土砂降りであった。



「雨の中での葬儀ですか…可哀想な方もいたものですね」



手で心ばかりの影を作りながら、雲に覆われた太陽を見上げる。灰色の続く空に眼を細めると、彼は傘も差さずに人々の群れの方へと歩き出した。

彼に冷たいという感覚はない。"存在していながら存在していない"彼は、とても曖昧な存在であった。草を踏む音もさせないまま、黒い傘の集まるそこを、すり抜けていく。


同じように人々の中をすり抜ける一つの影に彼は立ち止まった。黒いローブを着た痩身の男である。



「娘だとさ。成人もしていない」

「…花嫁ですか」

「ああ。仕事だぜ、送り屋」

「分かっています」



ローブの男はそのまま黒い傘の群れの中で姿を掻き消す。彼はそれを見送るとまた歩みを進めた。


彼は、名もなき神であった。

人ならざる者に"送り屋"と呼ばれるだけの、小さな神であった。

死した者たちを在るべき場所へ見送る誰かがいてくれたら、見届けてくれる者がいてくれたらと。そう、冥福を祈る遺族に願われて生まれてしまっただけの神であった。


いつの間にか生まれ、いつの間にか時が経ち。彼はそうして今日まで、与えられた"見送る"というその仕事をこなし続けている。…皮肉にも喪服などとは程遠い、婚礼の衣装に身を包んで。



歩みを止めた。人々を掻き分けて進んだその目の前にある黒い棺。彼は眼を閉じることでその中を覗いた。

花で作られたベッドに眠っているのは娘だった。化粧を施され、美しく着飾られているものの、少女と呼んでも差し支えないほど歳若い娘だった。愛される盛りであるその若い命を見送る葬儀ほど、涙声を聞くことが辛い日はない。しかしそれでも仕事は仕事である。彼に遺族達を慰める行為が出来るわけでもないのだから、せめて彼らの愛した娘を送り届けることで尽くすのだ。


眼を開いた彼は静かに棺の側に膝をつき、その中へ両腕を差し入れた。指先に触れた柔らかな布地とその繊細な作りが、娘に対する遺族の愛を思わせる。ゆっくりとその腕を持ち上げれば、棺に眠る亡骸の中から娘の魂が浮かびあがった。花嫁姿に着飾られた、美しい娘。横抱きにして眠ったままの娘の魂を抱いた彼はすっくとその場に立ち上がり、棺が土の中へ埋められていくのを目を伏せてただ悼み、見送った。そして、祈りの言葉を囁く牧師の言葉を重ねて唱えていく。



「神よ、その大なる御心に依りて彼の者の魂を救い給え」



ふわり、と娘の身体が光に包まれていく。



「在るべき場所へ、辿り着く其処へ、迷い子の魂を導き給え。…どうか悲しき生を乗り越えた君に、その最期の旅路に、幸あらんことを」



目を開いた彼が柔らかく告げると、その光は彼の腕の中を離れ、高く、雲よりも高く登っていく。美しい光の尾を引きながら、どこか遠い場所へ向かって誰にも知られずに消えていった。


ふと彼が役目を終えてため息を吐くと、最後の慟哭が雨空を劈いた。娘の母親が泣いている。その妹が、弟が、恋人が、娘を恋しがって泣いている。

生を謳歌出来なかったあの娘はきっと幸せな死後を過ごす。彼は見送ることでそれを知っている。けれど何も知らない遺族は、ただただ命を喪った不幸に嘆くことしか出来ないのだ。

言葉を尽くせたら。触れられたら。もしも己が、彼らの目に留まることの出来るほど名と格の高い神であったなら。優しくて脆い、彼ら人間の哀しみを癒してやれたのかもしれない。…しかしそれは人ならざるものとして超えてはならない一線に違いなかった。



「…何故こうも、儘ならないのでしょう」



酷いもどかしさだ。

僕はこんなに、こんなにも彼らを愛しているというのに。


ぼたぼたと傘を殴りつける雨音と、涙声は止まらない。たまらなくなった彼は、手袋をしたその両手で静かに耳を塞いだ。



***



また別の日。


教会の庭、白百合が揺れる花壇に座りながら煙草の煙をゆらゆらと細く吐き出す。彼の深い緑色の瞳が、水色の空に溶ける白を穏やかに追いかけた。

彼は愛煙家ではない。その煙草は先日の葬儀で弔われた老人に供えられていたものだった。遺族の供物は、一部だけ彼のポケットの中に収められる。そして彼に一度使われることでその本分を果たし、消えていくのだ。



「珍しいものをお持ちね」



一人の老婆が、彼に声をかけた。



「先日の供物です」

「あのお弔いは苦しかったわねえ」

「…ええ、本当に」



その老人は、この町の町長だった。

人の為に尽くし、働き続けた彼は、たくさんの人々に愛されていた。参列者の数が多く教会の椅子が足りないどころか場所もなく、外まで人で溢れかえっていた。そしてその誰もが悲しみの涙を流し、老人の死を悼んでいた。


彼は人々の波の中を進み、その真ん中に置かれた棺の元へ行かなければならないのだから、津波のような涙声を一心に受けることとなるのは当然のことだった。それでも老人の手を引いて、在るべき場所へと送り届ける。…それは、言葉に出来ないほど、久しく胸に詰まる仕事だった。

その日はたしか、雲ひとつなく晴れていたはずだった。ステンドグラスの影が一層美しく輝いていた日だった。けれど彼の眠る棺、それを取り巻くあの場所だけはどうにも土砂降りのように空気が濡れていて。


煙草を持たない手で、彼は目元を覆う。



「いっそ、涙が出ればいいとも思いました」

「あなたは、泣けないの?」

「私は見送る役目がありますから、死後の彼らが幸せになる事を一人だけ知っているんですよ。それに、私よりもずっと泣きたい方が近くにいるのに、どうして泣けましょうか」

「…そう」



老婆の顔が、切なげに歪む。

彼はもう一度大きく空へと煙草をふかした。


彼は忘れてしまっていた。

上手い泣き方も、自然な笑い方も。


楽しいと思う心も、苦しいと呻く思いも、人ではないはずの彼には存在している。しかしあまりに触れられないことへのもどかしさと、たまらないほどの人間という存在への愛と、受け止めなければならない悲しみとの量がそれぞれに大きすぎて、彼の中の感情の歯車が噛み合わない。そうして軋む心の音を、彼は長い間ずっと聞き続けて、そうしてずっと聞かぬふりをしている。

そうしていたら、いつの間にか忘れてしまっていたのだ。


優しくて可哀想な神様。

そんな彼の髪を、老婆がいとおしげに撫ぜた。



「大丈夫よ。いつかきっとあなたも、幸せになれるわ」

「何故?」

「だってこんなに優しいんですもの。だから、そう耳を塞いでいたらダメよ」



優しく笑うとしわくちゃで皮ばかりのその細い手で、彼の煙草を持つ手を握った。短くなったそれにふうっと息を吹きかけると、白い砂になって煙草が風に乗りながら還っていく。


何も残らないその手を包み込みながら、老婆は微笑む。



「ありがとう。あの人を見送ってくれて。最期にもう一度、懐かしい香りを思い出させてくれて」



白百合の花壇を背に透け始めていたその老婆は、町長よりもずっと前に亡くなった妻だった。



「…あの人が待っていますよ」

「ええ、そうね。今度こそ行かなくちゃ」



名残惜しげに手を離すと、老婆はうっとりと目を閉じる。まぶたの裏に愛しい男の姿が映っているのに違いなかった。


彼は、還らない老婆の心残りが町長である事を知っていた。そしてついに町長を見送り、次は彼女の番であることを悟り、別れの手向けとばかりに慣れぬ煙草をくゆらせていたのだ。

それを分かって、老婆は微笑む。優しくて可哀想な神様に、最後の呪いをかけるために。



「良いこと?あなたは、ちゃんと幸せになれるのよ。この世界には報われないモノなんてどこにもないんだから」

「はい」

「ふふ…そうそう、あなたのそのタキシード。とっても素敵だって、ずうっと思っていたわ。いつかそのタキシードに似合う、素敵なお嫁さんが現れてくれるといいわね」



少女のように微笑んだ老婆の姿が、次第に空に溶けていく。

さようなら。

最期の呟きは遠く耳に響いた。二人は、手を繋いで輪廻の輪へ巡るのだろうか。今となってはもう分からない。


風に揺れる白百合の香りの中、残されたのは、彼一人。けれど、その時の彼は不思議と微笑んですらいて。耳に残る最後の、あの老婆の甘やかな言葉が、きっと彼をそうさせていた。


花壇を振り返り、白百合を一本手折る。

目を閉じて口付けたそれは、酷く甘く、芳しい味がした。


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