3話
閉店直後に店へとやってきたのは、幼馴染の少女、飯塚茜だった。
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カウンター席に突っ伏すのは、薄いセミロングの茶髪をポニーテールのように結い上げた少女。背は高くもなく、低すぎもせず。高校二年生の女子の平均身長を少し超えるくらいといったところか。
肌は程よく焼けており、健康的で活発な印象を与える。ジャージ姿にスポーツバッグを持っていることから、彼女が何かしらのスポーツをやっていることが伺える。尤も、今はだらしなく突っ伏しているせいで、活発な印象は欠片も見受けられないのだが。
そんな少女――飯塚茜は、燦にとって所謂幼馴染といえる存在だ。
家が隣同士ということから交流が始まり、それからは幼稚園、小学校、中学校までの時間を共にし、高校までも同じ場所へと進んだ仲でもある。しかもそれまで同じクラスだったというのだから、最早腐れ縁という言葉ですら足りないだろうと、密かに燦は思っているが、勿論口に出すことはない。
その昔、何となくそれらしい言葉を口にしたときの茜の怒り様はそれはもう酷いもので、手を焼いたものだ。それ故、この話題には以降、触れないようにしている。過去から得た教訓、というやつだ。
そして、部活帰りに営業中だろうが営業後だろうが関係なく店に入ってくるのも、最早燦には慣れたことだった。
さて。そんな、茜の事を知り尽くしていると言っても過言ではない燦ではあるが、こんな時は流石に話が変わる。勿論、茜の好みは把握しているが、その日の気分というものまで考慮すると、そう簡単にお茶の一つも出せたものではない。
何にしても、今の幼馴染がどんなものを求めているのか。それを知らなければ話にならない。
「それで、何かリクエストはあるのか?」
「う~ん。何かこう……スッキリするやつで!」
「アバウトすぎるだろ……まぁいいけど。アイスとホット、どっちのほうがいい?」
「今はアイスの気分かな。温かいのもいいけど、今は冷たいのが飲みたい気分」
「了解。それじゃあ、ちょっと待ってろ」
リクエストを聞き終えた燦は、エプロンを着直しカウンターへと入る。
喫茶『aire de repos』のカウンターは対面式となっており、客から見て右側の少し隠れている部分がキッチンとなっている。その反対に左側には食器類が、正面には、エスプレッソマシーンや様々な珈琲豆、茶葉がガラス製のキャニスター、或いはパッケージのまま所狭しと置かれている。
ケトルにたっぷりと水を入れ、コンロに火をかける。水が沸騰するまで少し時間がかかるので、その間にまずはガラス製のポットを用意し、次に燦は数ある茶葉の中から何を選ぼうかと悩む。
しばし思案顔を浮かべた燦はやがて、紅茶の棚から一つのキャニスターを手に取る。選んだのは、ニルギリをブルーベリーとブレンドした茶葉だ。
紅茶に含まれるカフェインには、疲労回復の効果がある。勿論、それを飲めばすぐに回復するわけではないが、運動後の茜の状態を見た燦は、紅茶を選んだ。また、数多くある茶葉の中からブルーベリーのブレンドを選んだ理由は他にもあった。
紅茶の茶葉に香りの高いもの、例えばラベンダーやハーブなどをブレンドしたものがあるのは、現在ではそう珍しいことではない。これらはその香りにリラックス効果があるためだ。特に、疲労回復などにはアールグレイをラベンダーでブレンドしたものなどがいいだろう。
しかし今回、燦はニルギリのブルーベリーブレンドを選んだ。それは、ブルーベリーにはアントシアニンが含まれているからだ。ブルーベリーに含まれるアントシアニン色素が目に良いのは、最早誰もが知っている事と言っても過言ではないだろう。加えて、その香りと甘酸っぱい味はニルギリとよく合う。幼馴染のことを思った燦の気遣いが、今回この茶葉を選ばせたのだ。
茶葉を選び終えた燦は、次に食器が仕舞われている戸棚へと向かう。
ガラス扉の向こうには、様々な食器やグラス、ティーカップがあるが、その中で区切られているグラスに手を伸ばした。
喫茶『aire de repos』では、常連客には専用のマイカップやグラスを置いておくサービスをしている。幼馴染である茜も当然、自分専用のカップとグラスを置いていた。
数あるカップ、それも専用の物の中から特定の一つを探し出すのは難しい。しかし燦の手は迷うことなく一つを手に取った。理由は簡単、グラスの裏底に名前が刻み込まれていたからだ。
ポットグラスをサッと水で洗い流し、布巾で残った水滴を丁寧に拭う。同時に壁際にかけられている茶こしを手に取る。そうしている内にコトコトと小さな音が聞こえ始める。どうやらお湯が沸いてきたらしい。
ケトルの蓋を少しだけ開けて中を確認する。沸き立つ水の状態から、あと数秒もあれば適温に達すると判断した燦は、茶葉の入っているキャニスターの蓋を開け、小さじのスプーンで素早く二杯、茶葉を掬うと、それをポットに入れる。
キャニスターの蓋を閉じ、コンロの火を止める。そしていよいよ、熱く熱せられた湯をポットに注いだ。
瞬間。茶葉がまるで花の開花の様に広がり、ニルギリとブルーベリーの香りがフワリと広がる。が、燦はそこで、ティースプーンで中を軽くかき混ぜると、すぐにカップに蓋を落とした。
「ねぇ~あきら~。まだなの~?」
「もう少し待て。今蒸らしているところだ」
不満そうな茜の言葉に、燦は背を向けたまま答える。
湯を注いですぐに飲んでも別に問題はないのだが、少し蒸らして時間をおいたほうが、味にも香りにも差は出てくる。幾ら幼馴染が文句を言おうと、いや。幼馴染だからこそ、燦はそのたった一杯にも手を抜くことはない。
そうして待つこと2、3分。燦は氷がいっぱいに入れられたグラスに、茶漉しを使って十分に蒸らした紅茶を注いでいく。細かな茶葉も十分に取り除かれた紅茶は透き通っており、透明なグラスと氷がより一層鮮やかな紅を演出する。
「ほら、お待たせ」
「ありがとう、燦。いただきま~す!」
差し出されたグラスを受け取った茜は、先ずは一口、口に含む。口の中いっぱいに広がる紅茶とブルーベリーの味と香りは、しっかりとしていながらもしつこくない。ブルーベリーティをじっくりと舌で味わい、飲み込む。氷で十分に冷やされたそれは、乾いた喉と体を潤すだけでなく、部活で疲れた心をも癒してくれるような気持ちになる。先ほどまで感じていたイライラが、嘘の様に薄れていく。
喉越し爽やかなブルーベリーティーに、ほぅ、と吐息が零れる。続いて二口目を先ほどよりも少しだけ多く口に含むと、彼女は自分の頬が自然と緩んだのを感じた。今ではどこでも簡単に手に入れられるような大量生産品のペットボトルの紅茶も確かに悪くはない。だがやはり、幼馴染が淹れてくれた淹れたての紅茶は格別なのだ。だからこそ、初めの一口は彼が淹れてくれたままの味を楽しむ。それが、茜の中で定められたルールだった。
何も入れない状態の味を楽しんだ茜は、無言でグラスを持ったまま前に向かってすぅ、とカウンターテーブルの上を滑らせる。そんな茜の様子に、燦は小さく溜め息をつくと、ガラスの小瓶の様なものを手に取る。それをグラスに向かって傾けてやると、小瓶から透明な液体が流れ出す。容器と同じように透明なそれは、ガムシロップだ。
茜は甘党という訳ではないが、紅茶独特の渋みが苦手らしく、昔は必要以上にガムシロップや砂糖を注ぎ込んでいた。そんな彼女の行動に、燦は腹を立てた。別に砂糖を入れるなとは言わないが、紅茶本来の味が損なわれてしまう、と。しかしそんな彼の言葉に茜は
『ボクが悪いんじゃなくて苦い紅茶が悪いんだもん!』
と、ある意味子供らしい反論をしてきた。
この言葉に反論しようにも、一向に聞き入れようとしない茜。そんな彼女に困り果てた燦は、さてどうしたものかと頭を捻りに捻った。そうして考え付いたのが、フレーバーティーだった。紅茶と香り高いものをブレンドしたそれは、そのままの紅茶よりも渋みや苦みといったものを感じない(といってもそれは、ブレンドしたものの香りや味で誤魔化しているようなものだが)。
それ以降、茜の好きそうな紅茶を淹れ、砂糖の量を味にあわせて調整するのが燦の役割になっていた。最早習慣のようになっているが故に、こうしてごく自然にガムシロップを混ぜてやることが出来るのだ。
「――ぷはぁっ! ごちそうさま」
「……もう少し味わって飲む、って考えはないのか」
甘さの増した紅茶をゴクゴクと一息のうちに飲み干した茜に、燦は呆れとも苦笑ともとれる表情をするしかなかった。
◇
「もう! 遅いよ燦!」
「仕方ないだろ。ちゃんと戸締りはしておかないと、後で困るのはこっちなんだ」
不満げな声を上げる茜に、燦は振り返ることなく裏口に施錠しながら答える。
あれから10分ほど寛いだ二人(主に茜だが)は、そろそろ夕飯の時間も迫ってきていることから帰宅する事を決め、ちょうど帰り支度を終えたところだった。茜はスポーツバックを自転車の前カゴに入れて既に準備万端といった様子だったが、燦は店の戸締りから売上金など貴重品の持ち出しもあったために、彼女を数分だが外で待たせることになってしまったのだ。
そんな茜と軽口を交わしながら、燦は店の裏に止めてあるスクーターを引っ張り出す。店から家までの距離はそれほどあるわけではないが、備品が足りなくなった時など、緊急の用事ができた時の足として、燦はよくスクーターを使っている。
「それじゃあ、行くか」
「うん」
そういって二人は、各々の愛車を押して歩き出す。こうして茜と二人で帰る時には愛車には跨らず、ゆっくりと並んで帰路につくのが二人の習慣となっていた。
今日は部活で疲れた。こんな客が来た。などなど、何気ない会話を続けながら二人は夜道を歩き続ける――そんな時だった。
「そう言えばさぁ」
「ん?」
「燦は今年のゴールデンウィーク中もずっとお店のお手伝いをするの?」
「まぁ……稼ぎ時だしな、一応。そういうお前だって、部活漬けだろう?」
「あはは……まぁね」
隣を歩く茜の言葉に、ほんの少しだけ考える素振りを見せた燦はそう答える。
◇
「ふぅ……」
日は落ち、辺りはすっかり暗くなる中、机に向かっていた燦は大きく伸びをする。体中から骨のなる音が聞こえてくる。
「もう11時か……」
机の上にある時計が指し示す時間は、午後11時を回っていた。家業の手伝いを終えてから勉強を始めたのが、9時を少し過ぎたころ。二時間近くも机に向かっていたのだ、体が硬くなるのも、無理もないといえる。
だが、時間を忘れるほど集中していたおかげで、課題の大半は一日のうちに消化することが出来た。この調子で進めていけば、ゴールデンウィーク中に十分な余裕を持って過大を終わらせることが出来るだろう。
そう考えた燦は、ノートや教科書を片付けると、一息入れるために椅子から立ち上がり本棚へと向かう。5段のスペースに分かれた縦に長い本棚。上の3段目までは、小説や教科書などが並んでいるが、中でもやはりというべきか、珈琲や紅茶、スイーツ系の専門書が多く並んでいる。よく見ればそのどれもが、背表紙やページが擦り切れ痛んでいる。が、漫画などは殆ど見当たらない。
思春期の男子という観点から見ればかなり珍しい光景ではあるし、燦自身、それを自覚している。けれど、自宅が喫茶店を経営しているという事を除いても、自身のスキルアップの為に好きで揃えているものなので、燦はそれを何ら恥ずかしいとは考えていない。事実、その努力は少しずつではあるが、確かに彼の成長を促している。
そんな彼の部屋の本棚の残り2段は、本ではなく自室でも珈琲などの研究が出来るように携帯コンロやマキネッタなど、器具の保管場所として使われている(器具が壊れたり汚れたりしないように、丈夫なケースに入れてしまってある)。
ケースを開き道具一式を準備し終えると、燦は部屋を出て階下へと降りていく。流石に珈琲豆や茶葉の管理を自室だけで行うのは少々無理があるため、キッチンへと行かなければならないからだ。
数分して戻ってきた燦の手には、珈琲豆が入ったマグカップと水が一杯に入ったケトルが握られていた。今回燦は、モカマタリ、ブラジルブルボン、ホンジュラスの三つを5:3:2の割合で選んだ。勉強で疲れた体を癒すのに、香りの良い珈琲が飲みたいというのが切欠だった。
窓を開けしっかりと換気出来る状態にした燦は、携帯コンロの火をつけ、ケトルの水が沸くまでの時間を使い、ドリッパーを用意。次にハンドミルを手元に持ってくる。
ハンドミルは、上部が豆を入れられるようになっており、ハンドルを回すことで下部に挽いた豆が落ちてくる仕組みになっている、家庭でも簡単に豆を挽くことの出来る器具だ。珈琲が好きだが比較的高価な電動式コーヒーメーカーに手を出しにくい。そんな人にはうってつけの器具と言えるだろう。
蓋を開き、豆をミルに入れる。そしていざ、豆を挽こうとしたところで、携帯の着信音が聞こえてきた。
メールではなく、電話の着信音。態々こんな時間にかけてくるのは誰だろうと、燦は訝しみながらも携帯を見る。画面に表示されていたのは――『飯塚茜』。数時間前に別れた幼馴染からの電話だ。
何の用だろうか?と思いながら、とりあえず電話に出ることにする。
「もしもし」
『あっ、もしもし燦? まだ起きてる?』
「まぁな。それで、こんな時間にどうしたんだよ」
『ん~……ちょっとね。それよりさ、ベランダに出てくれない?』
「ん? ……ちょっと待ってろ」
念の為に一度火を消した燦は、換気の為に開けていたのとは別の、ベランダ側のへと向かい、サッとカーテンを空ける。
窓越しに見えたのは、やはり彼が思い浮かべた人物――茜が携帯を片手に笑顔で手を振っていた。
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