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過去の死  作者: 北川瑞山
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第八章

 一行は葬儀場に戻ると出前で昼食を済ませ、告別式が始まるのを待った。地域によって違いがあるらしいが、仙台では火葬した後に告別式が行われるのである。告別式は午後三時から始まる事になっていたので、大分時間に余裕があった。

 義久は告別式が始まるまでの間、父親と一緒に葬儀場の周辺を散歩していた。この辺りには特段娯楽施設も無い代わりに、緑豊かな美しい景観と豊富な水があり、散歩には適していた。葬儀場の裏手の叢の中に細い道が続いていて、そこを通り抜けると鬱蒼と茂る樹木の中に澄み渡った大きな池があった。実際に近づいてみるとそれは少しも澄み渡ってはいなく、むしろ汚泥が暑さで煮え立っている様なさして美しくもない池であったが、それでも空の青さを鏡面の様に映し出す水面はどことなく清冽な印象があった。外は相変わらず炎天下だが、池の周りの木々の影が池全体を覆っていて、そこだけはひっそりとした涼感が漂っていた。丸い池の真ん中に橋が架かっていた。それもぐらぐら揺れる様な吊り橋ではなく、人が歩いても微動だにしない鉄骨で組まれた橋である。何の為に架けられた橋かは分からないが、これもまた歩くのにはもってこいであった。義久と父はその橋の中央で立ち止まり、暫し欄干にもたれて下の池を見下ろしていた。真上から見ると、池の水は思っていたよりは綺麗だった。水面から屈折した光が水底を這う。が、その光が這う辺りは黒々とした藻に覆われている為、その奥は不明瞭だった。緑に縁取られた青天が映る水面を、丸い蓮の葉が静かに滑っていく。

「あ、亀だ」

父は眼下を指差して声を上げた。見ると本当に亀が泳いでいるのが見えた。水面で尖った口をぱくぱくさせて、優雅にヒレを動かしている。亀を中心にして水面に波紋が広がり、それが綺麗な円形のまま汀に打ち寄せていた。かと思えば、亀は出した頭を水面にもぐし、藻の下に潜って見えなくなってしまった。

 義久は昨日の出来事について、父に何の弁解もしていなかったし、父も父で義久に何も聞いてこなかった。特に意思の疎通がないのに何か暗黙の了解が成立している様に見えたのは、義久の思いが大方父に伝わっていたからか、それとも義郎が義久に代わって事情を説明していたのか、それは定かではなかった。

 父子は黙って池を見つめていた。蝉の鳴き声と、午後の柔らかな光と、森林を通り抜けた風の匂いがごく自然に、穏やかに沈黙を埋めていた。絹の様なしなやかな時間がゆっくりと流れる。

「爺ちゃんは、結局幸せだったよな」

父が静寂に微かな穴をあける様に、低い声で呟いた。目の前を美しい水色をしたシオカラトンボが、行きつ戻りつ通り過ぎる。池の長閑な色彩は真っ直ぐに天井のない空へと吹き抜ける。

「うん」

義久は肯定とも否定とも付かぬ返事をした。目に映る景色は心許ないその返事をも温かく包み込んだ。父は続けた。

「爺ちゃんは不器用な人生を送ってきた。さぞや疲れただろうと思う。お父さんだってそりゃあ爺ちゃんをずっと疎ましく思ってたさ。義久が生まれた時に一升瓶持った爺ちゃんが現れた日も、新潟の家を整理しに家族総出で出かけていった日も、借金を返しに消費者金融を回った日も、俺は何でこんな思いをしなきゃならないんだと思った。お母さんもあんな親父を持って生まれなけりゃ、あそこまでぴりぴりした性格にならなかったと思うんだ。元々あれは優しい女なんだよ。こんなに周りに迷惑ばっかかけて、しかも最後までそんな調子だったけど、でも晩年は安息の生活を手に入れて家族と一緒に暮らして、葬式も挙げてもらって…。良かったじゃないか。こう言うと口幅ったい様だけども、あの人は幸せだったんじゃないかと思うよ」

義久の心中には、「終わりよければ全てよし」という言葉が閃いていた。しかしそれは過去の死を知らぬ者の言葉に思えた。過去は現在によって洗われない、現在は未来によって癒されない。生き物は常に円を描くように生を歩み、その中心には絶えず死が聳えている。そうであれば、せいぜい祖父が幸福だったのは円周の八分の一程度の話で、残る八分の七は不幸だと言うことになる。死んだらまずその中心からぐるりと円周を見回してみるべきである。死から見て人生のどの時期も等距離にあることが分かるだろう。およそ最後の八分の一で全体の評価が決まってしまう様な積み上げ方式ではないのである。

 とは言え義久は首肯した。

「うん…きっとそうさ」

ここで祖父の幸福を覆してみたところで何になるだろうか?きっとこの場にとっても、祖父にとっても何の役にも立ちはしないだろう。まして義久はそういう自己の内面を恥じてもいたから、それを口にする事を断固として憚った。代わりにこんな句が脳裏を過った。

 

 鳥之将死其鳴也哀(とりのまさにしなんとするときそのなくやかなし)

  人之将死其言也善(ひとのまさにしなんとするときそのげんやよし)


(何にしても、祖父は生きた。それは偉大な事だ)

 傾いた夕刻の日の光が、緑葉のあわいを通り抜けて義久の伏し目を捕らえる。義久はそこはかとない寂寞を感じていた。

 もうすぐ告別式が始まる。義久の思いはその眼差しと共に池の水面に反射して空を舞い、長き尾を引きつつ彼の咫尺を擦過して夏空の彼方へと溶け入った。


お読みいただきありがとうございました。

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