第六章
動物病院の駐車場は、普段と違ってがらんと空いていた。診療時間をとうに過ぎているので、当然である。そこに乱雑に車を停めると、二人は駐車場に降り立った。意外にも夜風は涼しく感じられた。キンモクセイの花が微かに香っている。二人は正面入口に回った。しかし入口のドアには「本日の診療は終了しました」という無機質なかけ看板が下がっていた。病院の大きな窓から見える受付や待合室は真っ暗で人気がなかったが、奥の診察室の方からは微かに蛍光灯の白い光が漏れていた。きっと動物達があそこに入院しているのだろう。すると誰も駐在していないということはありえまい。義久は入口の硝子戸を力いっぱいノックした。
「すみませーん!ごめんくださーい!」
義久はあたりかまわず叫び続けた。義郎も義久の後ろで声を上げた。
「すみませーん!」
この普段無口な兄弟は、この時ばかりは声帯が枯れるほどの大声で叫んでいた。そうして暫く叫んでいるうちに、義久は夢中になりすぎたのか、本来の自分の目的を忘れていた。ただ単に夢中で叫んでは、右手の拳でドアを叩いていた。汗が再び義久のこめかみを湿らせていた。
すると奥の方から、メイド服の様なフリルの付いた看護服を着た看護婦がやってくるのが見えた。義久は救われたような気がして、叫びも動きもピタッと止め、看護婦を見つめた。美人だが歳はかなりくっていそうな看護婦は、困惑したような表情で入口の鍵を開け、おずおずと扉を押し開いた。
「…はい?」
何事だろう?というような看護婦の怪訝な表情に向かって、義久は一瞬ためらい、一言も発する事ができなかった。こういう時に物事を順序立てて論理的に話さなければ気のすまない義久は、一体何をどこから説明してよいのやら見当がつかなかったのである。猫が心配で見舞いに来た。だが病院から何の連絡もないという事は、普通に考えれば何事もないから安心してよいという状況である。それも預けてから何日も経っている訳ではなく、ほんの数時間前に預けたばかりである。一体何が問題で何が目的だったのか、さっぱり説明のしようがない。自分の思考が辿ってきた道筋は、現実に引き戻された瞬間淡くなり、薄らいで、取り戻そうとする前に消えてしまう。ああ、人間同士が分かりあうというのは何て難しい事なのだろう。こんな時、言葉を紡ぐのが困難なばかりに俺はいつも黙りこくってしまう。何も言わないのは何も考えていないのと一緒だ。俺が不器用なのも悪いが、それにしても何て即物的な世の中だ…。
が、義久の脇にいた義郎が口笛を吹く様な気軽さでさらりと言ってのけた。
「預けていた猫が心配で見に来たんです」
すると看護婦の蝋のように固まっていた表情は見る見る溶け、やがて柔和な顔つきになった。
「ああ、そうでしたか。どうぞどうぞ」
義久はあっけにとられてこの二つ返事を見守っているしかなかった。ここぞという時に言葉のでない義久は全くもってこのやり取りが不満だった。だが猫の見舞いをする為には考えてみればこれが一番手っ取り早い。過程よりも目的合理性を追求した方がより生きやすい。義久にとってそれは納得できかねる摂理ではあったが、義久は黙ってそれを看過し、同時に自分の不器用さを呪った。この期に及んでこの不健康な思考に蝕まれている自分には、誰の力にもなれない役立たずの未来が約束されている様に思えた。
二人は看護婦に案内されて、院内の治療室に通された。病院の中は真夏にも関わらず冷え冷えとしていて、不穏で密度の高い空気に締め付けられている様な息苦しさを感じさせた。猫の尻尾が振り子になっている振り子時計が闇の中で静かに時を刻んでいる。
二人が通された診療室には青白い蛍光灯の明かりの下、金属の診療台、鋏、ピンセット、注射針、その他諸々の医療機器が禍々しい光を放っていた。壁際には無数の小さな檻が積み重ねられ、その一つ一つに犬や猫などの動物が入れられていた。ある犬は恨めしそうに兄弟の方を見つめ、またある犬は警戒したのか、絶えず甲高い声できゃんきゃんと吠え続けている。
「こちらです」
看護婦が案内した小さな檻を、義久は覗いた。そしてその奥に静かに座っているビビと目が合った。その緑色の目の中で蛇の目の様に縦長になった瞳孔が鋭く尖っていた。ビビは義久と目が合うとその目を一段と尖らせ、全身の毛を逆立て、真っ赤な口を開けて鳴いた。
「にやぁぁぁぁぁ」
明らかにビビは怒っていた。義久がここに自分を連れてきて閉じ込めたと思っているに違いない。しかしそれを見た義久はほっと胸を撫で下ろした。怒るくらいの元気があれば、大方心配はあるまいと思ったからだ。義久の安堵は、ビビが元気だった事、つまりすぐに死んでしまう様な心配が薄らいだ事によるものである。過去は死んだ。しかしビビは死んでいない。過去の死は悲しむべき事ではなかった。それは誰にでも平等に起こるのだから。死をくぐり抜けた今があれば、それでいい。
義久は檻の鉄格子を明けて、ビビの柔らかな頭を撫でた。その瞬間に大口を開けたビビの鋭い牙に噛まれた。が、義久は手を引っ込めることなく、じっと手を噛ませ続けていた。ビビは「はにはにはに」と何度も義久の手に噛み付く。義久にはその痛みが愛しかった。
「おい、俺にも見せろ」
今度は義郎が檻の前に立った。
「おお、怒ってるぞ」
義郎も同じく、ビビの様子に安堵していた。そしてその様子が自分と寸毫も変わらない事に、義久は少しだけ自信を取り戻していた。通る道は違えど、結果は同じ。義久はその事に満足していた。ビビは今、この瞬間、生きている。それで十分だった。
因みにビビはその二ヶ月後、十月の秋晴れの日に、祖父を追う様にして息を引き取った。家族は長い間この家に尽くして死んでいった小さな命の終焉を悲しみ、涙ぐんだ。義久はそのとき悲しみに打ちひしがれながら、何度この時の事を思い出したか知れない。手の傷跡はその時まで義久の右手にうっすらと残っていた。




